第7話 音のない雨

 小さな雨粒は、アスファルトをまんべんなく濡らしている。音もなく静かに降り注ぐ霧雨は、本来緑色に光る木々の葉でさえも、くすんだ灰色に変えていくようだ。


 自分に父親がいないと気がついたのは、幼稚園の運動会の事だった。

 母親とその友人が応援にきてくれていたけれど、よその家庭とは違う自分の応援席に、俺は違和感を覚えた。

 母親と、自分の血の半分の主である男性が、どんなふうに出会ったのかは知らない。何も語らない母親の事を掘り返したところで、自分にとって何かが変わるわけでもなければ、記憶すらない父親への興味などなかった。

 

 スナックをやっている母親は、どれくらいの収入があるのかわからないが、自分は何不自由なく、母と2人で生活していた。たぶん、父親と呼ぶ人が、それだけの生活費をくれているのだろうけれど、その人と母が話しをしている事も、もちろんその人の姿を見た事もなかった。

 

 元々俺は人と関わるのが苦手で、1人で本を読んでいる記憶ばかりが蘇る。

 小学校から私立の進学校への入学し、必要最低限の人付き合いはしていたけれど、勉強という鎧をつければ、やれ青春だとか、やれ思い出作りだとか、そんなふうに絡んでくる面倒な奴らは周りにほとんどいなくなった。

 幸い、自分以外にも勉強しか興味のない生徒は数人いた。大概そういう奴は、医者の親を持つ子供達で、ひたすら最高峰の医大を目指して、夢を語る事すら、無駄な時間だと思っている連中だった。

 俺はそんな奴らの目指す先を疑う事なく、流される様に医大へ進学をした。

 別に誰かの命を救いたいとかそんな博愛の精神があったわけではない。人の痛みに鈍感で、感情の起伏の少ない自分には、医者という選択はある意味正解だったのかもしれない。

 

 研修医時代、大学病院での実習で自分に良くしてくれた脳外科医に頼まれて、彼が開業したという病院へバイトに出掛けた。

 その医者は、リハビリと称して自宅の一室を若者に開放し、音楽活動をさせていた。常識にとらわれず、自分達のやりたい事を追求する事で、様々な理由から明日を諦めかけた若者が、また生きる希望を求めようとする。音楽とは、独りよがりで、寂しがりの者が行き着く場所だと、医者はそんな精神論を熱く語っていた。

 岩田百合いわたゆりと俺が出会ったのは、その頃だ。

 院長の一人娘の百合は、当時はまだ高校生だった。

 幼い頃からピアノを習っていた百合は、院長が自宅に作った防音の効いた部屋で、いつもピアノを弾いていた。

 俺が院長の家に出入りするようになると、百合と少しずつ打ち解けていった。

 研修医の期間が終わり、俺は一人前の医師としてその病院で働き始め時。

 頼りにしていた院長は、奥さんの不倫相手を包丁でめった刺しにして殺した。

 偶然自宅に居合わせ、衝動的に殺害したと弁護側は主張したが、実は計画的で、残忍な殺害の方法は、穏やかな医者からは想像ができないほど、ひどいものだった。

 医者を慕う患者達が、嘆願書に署名を集め、減刑を求めたりする動きもあったためか、極刑を求めた原告の主張は通らず、医者は無期懲役の判決となった。

 裁判が始まる少し前、俺は医者と面会した。

 すっかり正気を失くしたその表情は、かつての面影などどこにもなかった。

 たしかに、妻の不倫相手を殺害した罪は許されない事だろう。だけど、彼の妻が犯した不倫という罪だって、人の判断では裁けない来世へと続く因果だと思う。

 あれから病院は閉鎖になり、今は別の経営者が、整形外科専門の病院として続けている。

 行き場を失ったあの部屋の仲間達は、まるで世の中に歯向かう磁石と反対側の磁力に引き寄せられ、残された百合を仲間に引き入れ、音楽を続ける事を選んだ。

 百合は、自ら命を絶とうとした父親を止めた時にできた顔の傷を隠そうと、顔がわからなくなるほどの化粧をした。仲間の1人がそれを真似た。

 母親が父親を罵っている音程が、ピアノを通じて思い出す。

 少しずつ病んでいった百合の心は、いくら薬を飲んだところで、その苦しみから解放される事はなかった。


 梅雨が明ける頃の出来事だった。バンドを初めて1年になった時。

 百合の母親は、新興宗教にはまり込んだ末、もうすぐ終末がやってくるという教祖の教えを鵜呑みにし、教団の施設へ入所した。教祖の命令で、嫌がる百合を、さらうように迎えにきた教団の幹部達の目の前で、百合は隠し持っていたナイフで自分の首を切り裂いた。


 百合が残していった曲が底を尽きる頃。

 すでにわかりあえなくなっていた連中とは、これ以上同じ時間を過ごす意味はなくなっていた。

 たまたま風邪をこじらせて受診した病院で、偶然、俺の肺に腫瘍が見つかった。

 バンドは少しの間活動を休止し、その間に仲間達はこれからの身の振り方を考えた。

 

 姉だと教えられた女性が看護師をしている大学病院で、俺は右の肺を少し切り取った。

 幸い初期だったと医者は話していたが、本当かどうかを信じたところで、自分の運命が変わることはない。

 手術が終わった後、何もできない母親と、口の悪い姉が男性を交えて話している声が聞こえた。たぶんそれは、自分の父親がそこにいたのだろう。

 俺が高校生の頃に初めて会った姉の話しでは、自分の父親は母は、愛人という関係だったらしい。

 罪を犯してまで真実の愛を求めようとしていたあの医者とは真逆に、自分の父親と母親は、責任の所在をはっきりさせないまま、ずっと罪を犯し続けている。   

 姉は元々は好きでもない者同士が、病院の経営のために仕方なく結婚したんだから、父親が愛人を作る理由がわかると言ったが、自分の身体に流れる血の穢れさが、俺は許せなかった。

 本当に好きな女と結婚して、一生大切にするなんて事は、作り話しでしか存在しないのか。

 幸せにするとか、愛してるとか、ただ好きだという言葉を口にするだけでも、それは虚言で、守られ続ける約束ではない。まして自分のような裏切り者の血が混じる人間は、そんな感情とは懸け離れたところで生きていかなくてはならないと思うようになっていた。

 百合と会って、一緒に過ごす様になって、お互いの素性や過去の話しなど一切せず、ただ今の時間を確かめ合う様に求め合っていた頃は、人間だった事さえも忘れるくらいに、本能のまま生きていた。

 1人になった俺が、お前は理性のある人間なんだと、現実社会に呼び戻された時、アスファルトに囲まれた灰色の世界に、裸足の足はそれ以上踏み出す事ができなくなっていた。


 百合が亡くなってから、自分の中にあった後悔や悲しみという感情が溢れてきて、俺は自分の涙というものを初めて見た。

 必要ない景色や、思い出したくない風景を消してしまえる薬があるのなら、どんな事をしたって手に入れたいと思う。百合の思い出は鎖の様に繋がり、毎日少しずつ俺を苦しめた。

 もうこれ以上、音楽を続ける事はできないと結論を出した時、バンドはもう自分達では止められない存在になっていて、保険だと思って結んだ契約が、俺達を縛り付けていた。

 いつの間にか熱狂的なファンと、策略的なプロデュースのもと、自分達の意図とは違う方向へ、百合が残した音楽は作り変えられていった。

 虚像の様な時間の中で、メンバー達と俺は、やめるというタイミングを模索するだけになっていた。


 自分の怪我がきっかけで、バンドは解散する理由ができた。

 ライブの最後に、ステージから落ちて肋骨を折った俺は、暗い病室の中、眠りに誘われては揺すり起こされる痛みに、明け方にやっと眠りにつく事ができた。

 眩しい光りに気がついて目を開けると、目の下にクマを作った夜勤の看護師は、決められた台詞の様に、朝の検温にやってきて俺に声を掛けた。

「眠れましたか?」

 自分だって眠れなかったくせに、言われた通りに仕事をしている若い看護師は、なんとなく俺と少し似ている人間だと感じた。

 彼女に背中が痛いと伝えたら、忙しい時間のはずなのに、俺をベッドから剥がして車椅子に乗せた。

 空気を含んで、生き返った俺の背中は、俺の身体を支えた彼女の手の温もりを、ずっと覚えていた。

 この世の終わりに抱けるとしたら、こんな女がいいのかもしれない、俺はそう思った。

 

 

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