第6話 月の歌声
うさぎの形がかろうじて見える半分だけの月は、掛けた部分の模様が、本当はなんだったのか思い出そうとしてもはっきりと思い出せない。
「入って。」
桐山の家は、郊外の一軒家だった。
「誰かいるの?」
凪が聞いた。
「母さんがいるけど、今日は仕事。」
「お母さんは、何をしてるの?」
「水商売だよ。」
「そうなんだ。」
凪を食卓テーブルに呼んだ桐山は、冷蔵庫から母親が用意していった夕食を出して電子レンジで温めた。
「いつもお母さんが用意してくれてるの?」
「今日は凪が来るって言っておいたから、用意したんだろう。普段、俺はここで夕食なんて食べないし。」
凪は笑いながら、
「会う約束なんて、してたっけ?」
そう言った。本当は桐山にまた会えた嬉しさが、硬い顔の筋肉を緩めていく。
「そうだな。なんでそんな事、言ったのかな。」
桐山の隣りに、凪は並んだ。
「お母さん、料理上手だね。」
凪はキレイなオムライスを眺めた。
「オムライスは自信があるんだろう。いつもは料理なんて作らないくせに。」
食べ終えて凪が食器を洗っていると、桐山はいくつかの薬を飲んでいた。桐山には聞きたい事がたくさんあったけど、
「これ、どうするの?」
凪はそれだけ聞いた。
「どうしようか、なんも考えてない。」
桐山は凪の言葉を聞き違えていた。
「お皿の事よ。桐山さんの明日なんて、別に聞いてないから。」
凪は笑って言うと、桐山は立ちがって皿を片付けた。
「ねえ、少しかっこ悪かったんじゃない?聞き間違えるなんて、どうかしてる。」
凪は桐山を茶化すように見つめた。
「そうだよな、なんでこれからの事を話そうとしたのかな。」
桐山は少し俯いた。
「さっきから、明日の事ばっかり気にしてる。この世の終わりとか歌ってるくせに、桐山さんには明日なんか関係ないじゃない。」
桐山は何も言わなかった。
「歌うのは、もうやめるの?」
「たぶん。」
「じゃあ、書いたら?桐山さんの見てる世界って、どんな感じなの?」
「凪と同じだよ。同じ景色。」
いつも以上に低いテンションの桐山に、
「桐山さん。」
凪は桐山を呼び止めて自分の方を振り向かせた。
「何?」
わりと穏やかな表情で自分を見つめた桐山の目は、相変わらず深くて底が見えない。
「ううん。何でもない。」
言いかけた言葉は、桐山への気持ちひとつ乗せて、緊張して手が震え、このままでは容易にそれを割ってしまいそうで、凪は黙って心にしまった。
「明日は休みだって聞いたけど。」
桐山が言った。
「お姉さんから聞いたの?」
「そう。」
桐山の部屋にある医学書を開くと、脳神経外科の医者を目指していた事がわかる。バンド活動を始めてから、一度は医学の道を諦めたのだろう。片隅に並べられた精神医学の本は、それでも何かを追求し続けたいと、桐山が未来を模索していた過去が見える。
桐山の部屋のどこを探しても、歌詞や楽譜を残しているものはなかった。中毒性のあるバンドだとは聞いていたけど、自分の楽曲に陶酔している様子など、ひとつも見当たらない。それらしい衣装も、化粧品もひとつもない。
凪が本棚の一番後ろにあった本を読んでいると、桐山が濡れた髪で部屋に戻ってきた。
「この本、知ってる。」
凪はそう言って桐山を見た。
戦争で身体が吹き飛んだ兵隊は、手も足も、目も口も鼻も失った。動き続ける心臓と、正常な頭の機能。兵隊は、言葉もなく、死ぬ事さえ許されない自分の運命を嘆いていた。それでも生きていかなければならない明日に、どんな意味があるだろう。
凪が持っている本を閉じて本棚に戻した桐山は、
「待ってるから、入ってこいよ。」
そう言って浴室へ凪を向かわせた。
凪が浴室から出てくると、桐山の母親が仕事から帰ってきた。
「こんばんは。すみません。」
凪は逃げるように挨拶を済ませると、そのまま桐山の部屋に向かおうとした。
「ちょっと待って。」
桐山の母親は凪を呼び止めた。
「ここに座って。少しくらいいいじゃない。なんて名前なの?」
凪は案内されたソファに座ると、
「広澤凪と言います。」
そう言った。
「冷たいものでも飲みましょう。ゲンはそういうの全然気がつかないから。」
桐山の母親は、冷蔵庫から麦茶を出した。氷を入れて凪の前におくと、麦茶で角が取れた氷が、カランとコップの底に落ちた。
「いただきます。」
凪はそれを口に運んだ。カラカラに乾いていた喉は、麦茶が流れると、しぼんでいた細胞が息を吹き返した。
「もう、少しあげるわよ。」
桐山の母親はコップに麦茶を注いだ。
「ありがとうございます。」
「案外、普通の子で良かったわ。ほら、前の子はちょっと病んでたから。」
母親がそう言うと、桐山が部屋から出てきた。
「ユリの事はもういいだろう。」
桐山はそう言って凪の隣りに座った。
「ゲンが変な歌を歌い始めたのは、あの子の影響でしょう。これからはまともな生活を送ってよ。」
母親はそう言った。桐山は凪の前にある麦茶を飲み干すと、部屋に凪を連れて戻った。
「どういう事?」
凪は桐山に聞いた。
「歌詞を書いてたのは、その子だよ。」
桐山はそう言うと、カーテンを少しだけ開けた。
「欠けた月の半分側って、どんな模様だったか覚えてる?」
窓を見ている桐山は、凪に聞いた。
「餅つきでしょう。」
凪が答えた。
「それはどんな杵?」
桐山はずっと窓を見ている。
「どんなだろう。」
凪は桐山の隣りに並んだ。
「思い出せない事は、思い出さなくていいんだ。」
凪の方を見た桐山は、少しだけ微笑んだ。
「桐山さん、さっきから怒ってるみたい。私が嫌な事たくさん聞いたりしたから?本気じゃないってそれはわかってるのに、なんだか少し、勘違いしちゃって。」
桐山は窓を開けた。凪には桐山が何を考えるのか、全然わからなかった。
しゃがみ込み、膝抱えた凪。
「眠いの?」
桐山は凪の頭を撫でた。
「違うよ。」
凪は顔を伏せながらそう言った。
「こっちにきて。」
桐山は凪をベッドへ誘った。
何も言わず、凪に唇を重ねた桐山は、言いかけた言葉を吸い取るようにキスを繰り返した。
窓も開いているし、電気もつけっぱなしなのに、そんな事なんて、どうにでもいいと思えるくらい、桐山が自分に触れる手に狂わされていく。
凪の服を脱がせようとした桐山は、思い出した様に窓を閉めるために立ち上がり、そして電気を消した。
暗闇の中、自分を再び求めた桐山の手を、凪は掴んだ。何も言わず、凪を見つめている桐山の瞳は、はっきりとはわからなくても、自分の言葉を待ってくれているのがわかる。
「本気で好きになるよ。」
凪が言った。
「本気で好きになればいいだろう。」
オウム返しの様な桐山の言葉は、けして嘘ではないとわかるけれど、そこに温かい感情はなかった。
この人を本気で好きになったら、何も見えなくなる。
桐山と一緒にいる事を選んだら、理想家族を作るという、両親への恩返しはできやしない。
桐山との恋にハマればハマる程、欲望や快楽に溺れ、持って生まれたはずの理性など、いつの間にか見失ってしまうのだから。
兄の結婚が両親を落胆させるものだったのなら、せめて自分は、両親を笑顔にする様な未来を見せなくてはいけないのに、桐山に触れるたびに、何もかも捨ててしまいたくなる自分は、兄以上に両親を落胆させているのかもしれない。
「何考えてるの?」
桐山が凪に言った。
「なんにも。」
凪はそう言うと桐山の背中にまた手を回した。
大学の頃に3ヶ月だけ付き合った男性がいた。身体の関係を持ってから、男性とはそれ以外会う理由がなくなった。今思うと、それは彼氏とかそんな間柄ではなくて、自分はただの性の捌け口だった事に気がついた。そんな事を認めたくないと強がり、会うたびに言い出せなくて心に積み重なっていった言葉は、些細な事でケンカになり、二度と家に来なくなった男性を憎めば憎むたび、コンクリートの様に固った後悔が、凪の心を重くした。
「桐山さん。」
「何?」
「幸せなんていらないから、ずっと一緒にいて。」
凪が言うと、桐山は少し寂しげに凪を見ていた。
「これが最後だよ。」
桐山はそう言って凪に口づけをした。
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