第5話 足りない足跡
明け方に鳴り響いた雷は、きっとこの近くに落ちたのだろう。窓ガラスがビリビリと音を立てると、電化製品が再起動する音が聞こえた。
バケツをひっくり返したような雨は、野生の匂いをかき消して、雨が連れてきた思い出したくない生暖かい空気が、少しの間、町を漂っている。
「桐山さん、電話なってるよ。」
凪はベッドから起き上がった。
スマホをとり、「はい。」と3つ返事をした桐山は、
また眠りにつこうとした。
「ちょっと、」
凪は桐山を揺すって起こすと、
「これから仕事なのか?」
眠そうな声でそう聞いてきた。
「だから、帰ってよ。」
凪が言うと、
「ここは寮だったか。じゃあ俺がいたら困るんだよな。」
桐山は顔をしかめて起き上がった。
「痛むの?」
「あぁ、これ?」
桐山は胸を指さした。
「まだ、骨はついてないんでしょう?」
「大した事ない。」
桐山の胸には、手術の後なのか、大きな傷があった。見ないようにしていても、凪の視線が気になったのか、
「肺を少し切ったんだ。」
桐山はそう言った。
「そう。」
それ以上何も聞かないことが、大きな病気をした人への親切だと思い、凪は傷から目をそらした。
「2年前、肺癌になってさ。」
人の辛い過去の話しを聞くことは、凪に耐えられなかった。心を壊していく原因を、未熟な自分には受け止めきれる自信がなかった。
「そうなんだ。」
凪は愛想のない返事をして、話しを誤魔化した。
「なんだ、自分の事以外は興味がないのか。」
つまらなそうに言った桐山は、凪の顔を覗き込んだ。
「そういう事は、聞いたら悪いかなって。」
凪は桐山から目をそらす。
「こっちは話したいんだ。聞いてくれよ。」
凪の耳を触った桐山は、その耳を自分の胸に当たるよう、凪の身体を自分に引き寄せた。
「ねえ。この前、気胸になったのに、それでよく息ができたね。肺を切ったって、反対側?」
凪は少しからかうような言い方で、桐山に聞いた。
「そう。右の下。この前は左の胸が気胸。」
桐山は何気ない会話の様に凪に話した。
「そんなに肺を痛めたら、歌うって大変なんじゃない?」
「俺はそんなに熱を込めて、歌ってはいないし。」
「みんなは真剣に聞いているのに、中には熱狂的なファンもいるんでしょう?」
「聞く方の勝手な都合だろ。」
桐山は凪の顔を両手で包むと、凪の唇を口吻で塞いだ。頭の中では桐山の手を拒否しているはずなのに、身体は桐山を受け入れていく。
どうしてこんなにも、桐山と離れる事が怖くて堪らなくなるんだろう。
凪が気を失い掛けた時、
「理性なんて、やっぱり持っていなかっただろう。」
目を細めて桐山が言った。
「そうだね。」
凪は桐山の頬に手を伸ばした。半分夢のようで、桐山の顔はしっかり見えている。
好きだという言葉なんていらない。
もう少しだけ、桐山とこうしていたい。
「仕事に行くんじゃないのかよ。」
凪は桐山の唇に近づいた。
「もう少し時間があるから。」
桐山は凪の要求に応える様にきつく凪を抱きしめ、唇を重ねた。
先に玄関を出た桐山は、鍵を閉めた凪の腕を掴んだ。
「乗っていけよ。」
そう言うと、黒塗りの窓があいて中から、男の人達が顔を覗かせた。
化粧をしていないから、まるで別人のようだけれども、きっとこの人達は桐山がボーカルをしているバンドのメンバーなんだろう。いつも一緒にいるからなのか、車の中では誰も言葉を交わさない。それでも、それぞれの存在を確認し合っている空気が、凪は羨ましかった。
たぶん、この人達とは、もう二度と会うことはない。凪はなんとなくそう思った。
桐山とは、これからどうすればいいのだろう。
せっかく暗闇から守ってくれた命だけど、いっその事、強いものに食べられてしまう方が、これ以上の恐怖を感じなくても済んだのかもしれない。
出会うはずのない桐山との夜は、一生忘れることのない夢だと思う事にしよう。
「さようなら。」
凪は桐山にそう言って車を降りた。
あれから1ヶ月。桐山からの連絡は一度もなかった。
だいたい連絡先を聞いていないし、桐山の気まぐれで、自分は誘われたんだろう。
松下に話す事もできたが、それはなんとなく気まずかった。
今日最後の手術となる患者をオペ室まで送り出した。手術室の入口の時計は、16時をまわっている。
エレベーターの中で、助手の女性が凪に話し掛けた。
「ねえ、広澤さん。この前入院してたなんだっけ、あの人。あのお化けみたいな人のバンド、解散だってさ。」
「えっ?」
凪は目を丸くした。
「広澤さんは真面目だからこんな人達なんか知らないだろうけど、うちの娘はめっちゃ好きでね。ライブに行くっていう時は、あのお化け達と同じようなメイクして、娘とは言え気持ち悪かったよ。あの人、入院してた時は、弱っていたせいかかわいい顔してて、同一人物だとは到底思えなかったけど、近くにいたんなら、娘のためにサインくらいもらっとくんだったなぁ。」
凪はエレベーターを降りると松下を探した。
病室から出てきた松下の前に行くと、
「なんだよ、広澤。」
松下は血圧計を凪を渡した。
「616の人、血圧か下がらないから、早めに先生にコールしておけよ。」
「あっ、すみません。」
「だいたいあの患者は広澤の担当だろう。医者に時間で血圧を報告する様に言われてたんだから、オペ出しと重なるんなら、誰かに頼んでおけよ。手は2本しかありませんは、ここじゃあ通用しないんだから。」
「はい。すみません。」
「相変わらず、広澤はいい子ちゃんだな。そうやって仕事を1人で抱えるな。主任なんて、暇で1日中プラプラしてるんだぞ。少しは仕事しろって言ってやれよ。」
「そんな事、頼めません。あの、松下さん、」
「わかったよ。医者へのコールはあたしがやるよ。」
仕事が終わったのは21時だった。
広澤も同じ様に残業をしており、何か言いたげな凪に、更衣室で声を掛けてきた。
「広澤、うちの弟と寝たのか?」
「えっ!」
驚いて服を落とした凪に、
「図星か。」
松下はそう言った。
「病んでるなぁ、お前達。」
凪は松下が指さした背中を見ようとした。
「あいつは力加減がわからんから、女の背中に痣をつくるんだよ。」
凪が松下の顔を見ると、
「心配すんなって、もう痣は消えてるよ。」
「あの、松下さん。」
「ゲンはあんな歌を歌っているくせに、しばらく女は作ってないよ。昔の女とは長く付き合ってたらしいけど、なんか知らん、その子は自殺したらしいわ。」
そう言って、松下は凪の肩をポンと触った。
桐山の送ってきた壮絶な人生は、凪の中で消化できずに心の端に溜まっていく。
「病気の事も聞いただろう。」
「手術をしたって、」
「あいつはね、神様から試されてるんだろうな。広澤、明日は休みだろう。この前の店で良かったら、あたしについてこいよ。」
「いいんですか?」
「ああ、きっと、ゲンもそこにきてるから。」
広澤の後を歩いて、店までむかった。朝降った雨のせいか、蒸し暑くて身体がすぐにベタベタになる。気まぐれで吹いてくる風を、このままシャツの中にしまい込んでしまいたい。
「ゲンと一緒にやってるバンドの連中は、みんな死にぞこないだよ。交通事故や脳腫瘍。メンバーを繋いだのは、ゲンがバイトしてた病院の院長だよ。ゲンはその人をすごく慕っていてね、バイトと言いつつ、一緒に飯食ったり、勉強させてもらっていたらしいよ。」
「桐山さんは、なんで医者を続けなかったんですか?」
「それがさ、院長は奥さんの不倫相手を刺しちゃったらしくって、院長は逮捕、病院は閉鎖。最終的に病院は人手に渡って、自宅は取り壊し。そうだよな、殺人があった家なんて、誰も住みたかねーんだよ。ゲンはその時部屋で音楽をやってた連中から誘われて、バンドを組んだってわけ。私はゲンからそいつらと一緒に音楽をやるって聞いた時、けっこうヤバい奴らだなって、そう思ったよ。」
「バンドが解散するって本当ですか?」
「今回のゲンの怪我は、きっといいタイミングだったんだろう。」
「桐山さん、これからどうするんですかね。」
「気になるなら、自分で聞けばいいだろう。だいたい抱かれる前に、そいつの素性を聞くのが先だろう。広澤みたいに、世間のルールに中実な奴は、余計に昔の事を確認したがるんじゃないのかよ。」
「桐山さんとの事は、事故みたいなもんだし。」
「あ~あ、ハマったら最後、あいつの毒は一生抜けーよ。」
店のドアを開けると、カランカランと鐘の音がなる。
「こっち。」
1人で飲んでいた桐山は、凪に手を振った。
「他のメンバーは?」
松下がマスターに聞くと、
「みんな帰ったよ。明日から本格的に会社が始めるらしいから。」
そう言った。
「なんの会社だよ。あいつらに商売なんてできんのか?」
松下は桐山の方を見た。
「さあ?」
桐山はそう言って空いたグラスをマスターに渡した。
「同じのでいい?」
マスターが聞くと、
「そっちにつけといて。」
桐山は凪の肩に手を掛けた。
「ちょっと、ゲン。広澤、腹減ってんだよ。」
松下がそう言うと、
「帰ってなんか食べるから。」
桐山は凪を外へ連れ出した。
「もう会えないと思った。」
凪がそう言うと、桐山は少しだけ笑った。
2人はタクシーに乗って、桐山の家に向かった。車の窓から、ずっと自分を追いかけてくる月を、凪はずっと見ていた。
離れていた時間は、何十年も前だったのかと思うくらい遠い過去の様に思えてくる。
桐山と過ごした記憶は、まるで白黒の映画みたいで、少し輪郭が歪んでいた。
やっと桐山で会えたのに、一向に縮まらない距離。
緊張して、鼓動が苦しくなるほどに速くなる。このまま触れ合ったら、自分はどうなってしまうのか、凪は考えていた。
「何を見てるの?」
桐山が凪に聞いた。
「月。」
凪は窓を見つめながらそう言った。
本当はガラスに映る桐山の横顔を、黙って見ていたのに。
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