ダンジョン演習2
石の崩れる音が遠ざかり、あたりに静寂が戻った。
「……っつ……」
キリヌスはうつ伏せのまま、ゆっくりと上体を起こす。手のひらに伝わる岩肌の感触が、冷たく湿っていた。
視界は薄暗い。初層での発光石や、整備された道はここにはない。肩に走った鈍痛を堪えながら、周囲に目をやる。
「──キリヌス、大丈夫か」
低い声に振り向けば、ヴァージルが岩壁に片手をついて立ち上がろうとしていた。ネロとレクトゥスはすでに立ち上がり、周囲を警戒している。少し遅れてルーデンスとパウルスが「いてて……」と呻きながら岩の隙間から顔を出した。
「……たぶん、みんな無事?」
「骨は折れてねえな、セーフ! 背中はちょっと痛いけど」
ルーデンスが笑い混じりに言ったが、その口調にもかすかに緊張がにじんでいた。
「ここ……どこだ?」
「わからない。でも、少なくとも──初層じゃないな」
レクトゥスの言葉に、誰もが頷く。岩壁の質感も、空気の重さも、なにより漂う圧迫感のようなものが、今までの整備された初層とは明らかに違っていた。
「……空気が重い」
キリヌスが呟いた。言葉にできない違和感。それは、ただの暗さや湿気ではない。
「マナが濃い?」
誰にともなく口にした問いに、ヴァージルは答えず、岩肌に手を添えたまま何かを感じ取るように目を細めた。
彼の額には、うっすらと汗がにじんでいる。
(ヴァージル……?)
キリヌスは気づいた。彼の様子がどこかおかしい。いつもの涼しい顔ではなく、わずかに戸惑いを含んだ表情。
(なにか感じてる……?)
ヴァージル自身はそれを自覚していないようだった。ただ、無意識に、何かを探すように周囲を見渡していた。
レクトゥスがそっと壁に近づく。
「……道は一つしかなさそうだ。戻るには、あの縦穴をよじ登るしかないが、崩落がひどい。登れるかどうか……」
そう言って、口をつぐむ。誰もがその難しさを理解していた。崩れた岩は不安定で、ひとつ間違えば再び崩落を招くだろう。
「……まずは、ここがどこなのか確認しよう。何か目印があるかもしれない」
レクトゥスの提案に従い、四人は足元に注意しながら周囲を歩き始めた。ランタン代わりに光球を生成し、慎重に進む。
──数歩、進んだそのときだった。
「……っ、あれ……」
キリヌスの目が、一点に釘付けになる。
「……人?」
ルーデンスがその視線を追った。そこには、壁際に寄りかかるようにして座る──人のようなものがあった。
最初は岩かと思った。だが近づくにつれ、それが白く乾いた骨だと気づく。
制服のような布の破れが、骨の肩から垂れていた。時間が経っているのか、色はすっかりくすんでいるが、そこには確かにアカデミア・ルミナリスの校章が、かろうじて残っていた。
「……嘘、だろ」
ルーデンスが息を飲んだ。キリヌスは言葉も出せず、その場に立ち尽くす。
近づくと、そこに置かれた落ちたままのスケッチブックが目に入った。表紙に、名前はもう擦れて読めない。ただ、細かな落書きと魔法理論のメモがページの隅にびっしりと書かれていた。
「……この人……」
キリヌスの指が、小さく震えた。
「俺たちと、同じくらいの歳……」
ヴァージルも、その姿を見つめていた。目は伏せがちで、どこか遠いところを見ているようだった。
「なんで、こんなところに……」
誰の問いにも、答える者はいない。
静けさが戻り、ただ冷たい空気が肺を満たす。
(本当に、ダンジョンの中で……死ぬことが、あるんだ)
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
(俺たちも──)
いやな予感を振り払うように、キリヌスはポケットからシンセスを取り出した。演習前に渡された、緊急用の発信用だ。今なら、先生たちが気づいてくれるはず。
(助けを呼ばなきゃ……!)
息を整えて、魔力を指先に集める。
──何も、起きなかった。
シンセスは、まったく反応しない。
「……え……?」
慌ててもう一度、今度はゆっくりとマナを通す。それでも、紙は静かに揺れるだけで、術式は発動しなかった。
「マナが……ここで通じない?」
誰もが表情を強張らせる。
ヴァージルが、ぽつりと漏らした。
「……届かないだけかもしれない」
それだけだった。けれど、その一言が、この場に確かな“不安”を刻み込んだ。
(外との連絡が……つかない?)
レクトゥスが、黙ってシンセスを受け取り、同じようにマナを通した。だが、結果は同じだった。
「救援は……しばらく期待できないな」
冷静な声。けれど、その言葉が重く響いた。
「じゃあ、待つしか──」
「……!」
そのときだった。
コツ、コツ、と小石を蹴るような音が、岩の隙間から聞こえた。
六人の視線が一斉にそちらへ向く。
「──なんだ、あれ」
現れたのは、白い小動物だった。
いや、動物“のように”見えた。
身体はうさぎのように小さく、だが額には一本の鋭い角が生えている。毛並みは滑らかで、目は血のように赤く、光を反射していた。
「……見たことない……」
ネロが小さく呟いた。
「初層の記録には……」
言葉が止まる。次の瞬間、その白い獣──パルヴコーンは、ぴくりと耳を動かした。
静寂が、弾けた。
「 下がって」
短く言った彼の声に、周囲の空気が一気に引き締まる。
──パルヴコーンが、跳ねた。
鋭い一閃──それが角によるものだと認識するより早く、ヴァージルは左足を引いて距離を取っていた。
冷静沈着で、アカデミアでも一目置かれる存在。どんな状況でも取り乱すことのない彼なら、この異常事態でもどうにかしてくれる。そんな期待と信頼があった僕たちは、こんな状況においてもまだ、危機なんて言葉を微塵も意識しなかった。
ヴァージルは応えるように、冷静に、杖を地に構える。
「──”土壁を”」
静かな詠唱とともに、彼の正面に黒い土の塊が、彼の前に人の体ほどの高さの壁を形作った。だが──
「っ!?」
次の瞬間、パルヴコーンの角が正面から突き刺さる。
轟音とともに、土壁は簡単に砕け散った。硬質の角が貫通した跡が、粉塵の中にぽっかりと残る。
突進をかわし、再び距離をとる。ヴァージルは静かに息を吐き、杖を構えた。
「”風を”」
放たれたマナが突如、疾風となりヴァージルの正面へと放たれる。
風はまっすぐ、パルヴコーンに向けて走った。
風圧が石床を裂き、細かい礫を巻き上げる。
あくまでも陽動、時間さえ稼げればそれでいい。
──だが、
「避けた……?」
パルヴコーンは、一拍遅れて身を沈め、風の軌道から外れるように滑った。
前脚が地面を蹴る音がした瞬間にはもう、突撃していた。
ドッ……!
「……そういう感じね。」
ヴァージルの呟きは、冷静だった。
「”剣を”」
杖の先にマナを集中させる。そこから重力に従って落ちるように、鉄製の短剣が出現した。
パルヴコーンの白い身体が軌道を歪めてヴァージルに迫る。
彼は短剣を逆手に構え、その角の突進をギリギリで受け止める。
「──ッ!」
金属が軋み、手首がしびれる。角の勢いに対して短剣は軽すぎる。だが、間一髪でその攻撃の軌道を外すことに成功し、パルヴコーンは地面を削って滑っていった。
「……<幻影>」
爆ぜるように、火の玉が五つ、展開された。
「……!? 火?」
いや、それは“本物”じゃない。
幻影の火球──赤く、揺れる光を宿した球体が、ヴァージルの目の前を揺れる。
パルヴコーンの注意は、本命の攻撃からほんの刹那、だがそれでも確実に、逸れる。
「”炎の矢を”」
続けてヴァージルが口にする。
マナが杖を伝って放出され、炎の矢が現れる。
それは、火球に見せかけた幻影の間を縫って、一点を貫いた。
──パルヴコーンの顔面を、直撃したかに見えた。
「やった──」
ルーデンスの声が漏れた。が、次の瞬間。
煙の中から白い影が飛び出す。
傷ついている──はずなのに、動きは衰えない。
(……速い。固い。そして、利口だ)
パルヴコーンが一直線に突き進んでくる。
「"土壁を"」
二度目の土壁。 壁は角の一撃で砕け、背後の岩盤まで突き刺さる勢いだった。
ヴァージルは、再び幻影の火球を再配置し、パルヴコーンの注意をそらす。
その裏で先ほど同様、その間に本命の魔法を準備していた。
「”火球を”」
杖の先が赤く脈動する。
幻影に混じり本物の火球が彼の前を漂う。
素早い杖の一振りとともに、火球はまっすぐパルヴコーンへと放たれた。
シュババッ──!
火球が足元に着弾し、細かい爆ぜる音とともに爆炎を巻き上げる。
視界が塞がる。
熱と煙で、位置が見えなくなる。
ヴァージルの幻影の火球が爆炎に揺らされ、パルヴコーンの判断力を削ぐ──はずだった。
次の瞬間、パルヴコーンの体がまるで弾丸のように飛び出してきた。
──火も煙も、幻影ももう関係ない。
角を振り上げ、まっすぐに突き出してきた。
投げやりにも思えるその一手は、ヴァージルが時間稼ぎを目的としている今、不運にも最適解だった。
「──っ、”土壁を”!」
三度目の咄嗟の防御。再び土壁を生成するが、またしても角により一撃で崩される。パルヴコーンはそのままの慣性で後ろの壁へ激突する。僕たちは、距離をおいて見守っているしかなかった。
「流石に強いか...」
ヴァージルが思わず零しながら、幻影の数を増やしていく。
一つ、また一つ。
「……すごい……」
キリヌスが呟いた。それほど、ヴァージルの魔法は美しく、圧倒的に思えた。
岩、人型、火球、氷柱、壁、動物──
だが、パルヴコーンはすでに、それらが脅威ではないと学習してしまった。
その動きは、幻影の配置をものともしていない。
「頭いいね、魔物のクセに。」
「”塵を”」
「”突風を”」
「”切り裂く風を”」
焦ったように繰り返される契約魔法。
次々に現れる現象。それらをいとも簡単に躱していくパルヴコーン。
魔法を繰り返すたびに、常に冷静だったヴァージルの顔が少しずつ険しくなる。
幻影の一つが、強く光をはなつ。
だが、それも驚きを与えない。パルヴコーンは躊躇なく踏み込んできた。
「ッ……!」
空気が裂けた。
彼の制服が、一筋、破けていた。
一瞬、動きが止まる。
それは、誰にとっても──初めて見る、ヴァージルの“傷”だった。
「おい……マジかよ……」
ルーデンスが小さく呟く。
ヴァージルが、押されている。
キリヌスの心臓が跳ね上がる。
その時まで、どこかで「彼がいれば大丈夫」だと思っていた。
けれど。
「……ヴァージル……」
キリヌスが、小さく呟いた。
それは心のどこかにあった“信仰”が揺らぎ始めた瞬間でもあった。
ヴァージルは一歩後退すると、つぶやいた。
「切り札、使うしかないか...」
それを聞き少し安堵する。
(やっぱりヴァージルにはあるんだ!この状況を打破する切り札が!)
「なんだよあんじゃねえかすげぇの。」
ルーデンスも横でぼやく。レクトゥスは、真剣な眼差しで眺めていた。
ヴァージルの瞳が、ゆっくりと細まった。
視線の先──パルヴコーンは、再び助走を取っていた。
ヴァージルが杖を一振り、唱えた。
「──”爆炎を”」
発動と同時に、周囲の空気が逆流した。
マナが奔流となって空間を満たす。
まるで地脈が開いたかのような激しい音が鳴った。
ドンッッ──!
空気が爆ぜる。土石と熱が炸裂し、視界が赤く染まった。
爆発は前方斜めへ角度を持って制御され、爆炎は扇状に広がる。
パルヴコーンが踏み込もうとした瞬間、炎と礫が視界を奪った。
「……っ!」
咄嗟に跳ねて距離を取るパルヴコーン。だが、それすらもヴァージルの計算のうち。
「空中じゃ避けれないよね。」
「──”焼き尽くす火炎を”」
低く、静かな声だった。
瞬間──
ごぉぉおおおおおおおおッ!
怒涛の熱波が、爆風となって前方へ解き放たれた。
真紅の炎が地を這う。
炎の壁。否──それは、まるで灼熱の津波だった。
赤熱した空気が地面を融かしながら押し寄せ、瓦礫が蒸気を上げて崩れ落ちる。
マナを含んだ岩盤が軟化し、溶岩のように泡立ち、崩れ──音すら焼き尽くされていく。
パルヴコーンが空中でもがく。
だが、遅い。
炎がその白い体を、飲み込んだ。
空間がねじれ、色彩が反転するような錯覚。
超高温による空気の歪みのせいだった。
──ただ、燃える音だけが響いていた。
そして、沈黙。
煙の向こうに、黒い焼け焦げの塊が転がる。
かつて、そこに獰猛な獣がいた痕跡すら残さない。
毛皮も、角も、肉体も──灼熱に還った。
「……すげぇ....」
ルーデンスの声が、震えていた。
歓喜と畏れが混じった声だった。
「……」
キリヌスが、言葉を失って立ち尽くす。
火傷の匂いと、焦げた岩の蒸気が漂う中、ヴァージルは一歩、後退した。
その肩が小さく震えている。
呼吸が、荒い。
魔力の過使用──限界は、とっくに超えていた。
「ヴァージル……」
キリヌスが近づこうとしたその時。
──ガッ、ガッ、ガッ。
鈍い、蹄の音。
「……うそだろ……」
ルーデンスが、信じられないものを見るような目で呟いた。
煙の向こう、崩れた岩の裂け目から──
もう一体が、現れた。
パルヴコーン。
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アルカナ・ルミナリス @Center_Of_The_D_Nut
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