第7話 ふたりだけの思い出

攻略思考を捨てると決めた翌朝。


俺の心は、昨日までとは少し違った、妙な軽やかさを感じていた。


完璧な父親にならなければ、というプレッシャーから解放されたからだろうか。


それとも、ルナとの間に、あの小さな蝶を一緒に見た時のような、ささやかな繋がりを感じられたからだろうか。


理由はともかく、今日の俺は、何かを「達成」するためではなく、ただルナと一緒に過ごしたい、という気持ちが強かった。


朝食の後片付けを終えると、俺はリビングで床に座り、木片をいじって遊んでいるルナに声をかけた。


「なあ、ルナ」

「なあに、パパ?」

「今日は、少し森を散歩してみないか?」


特別な目的があるわけじゃない。

薪を集めるためでも、薬草を採るためでもない。

ただ、二人で歩くだけの、散歩。


昨日までの俺なら、そんな「非生産的」な時間は思いつきもしなかっただろう。


ルナは、きょとんとした顔で俺を見上げた。


「お散歩? なんで?」

「んー、なんとなく、かな。天気がいいし」


俺が曖昧に笑うと、ルナの翠色の瞳に、好奇心の光が灯った。


迷うような素振りを見せたのは一瞬だけ。

すぐに、ぱあっと顔を輝かせて立ち上がった。

「……うん、行く!」

その元気な返事に、俺も自然と笑顔になる。


二人で家の外に出て、森へと続く小道を歩き出す。

ルナの小さな手を、しっかりと握りしめた。


森の中は、ひんやりとした空気と、木々の匂いで満ちていた。

頭上からは、緑の葉の間を縫って、柔らかな陽の光が降り注いでいる。

鳥のさえずり、風が木の葉を揺らす音。

全ての音が、心地よく耳に響く。


俺は意識して、歩く速度をルナに合わせた。


急ぐ必要はない。どこかに辿り着く必要もない。


ルナが、足元に転がっていた奇妙な形のキノコを見つけて立ち止まれば、俺も隣にしゃがみ込んで一緒にそれを眺める。


名前も、食べられるのかどうかも知らないけれど。


「面白い形だな」

「うん、帽子みたい!」


ルナが、木の枝の間を素早く駆け抜けていくリスを指させば、俺も一緒になってその姿を目で追う。


「速いなあ」

「あっち行った!」


道端に咲く、名も知らぬ小さな紫色の花。

以前の俺なら気にも留めなかっただろうそれに、ルナが足を止めた。


「パパ、このお花、かわいい」

「……そうだな。綺麗な色だ」


俺は、できるだけルナの視線に寄り添い、彼女が感じる「きれい」や「面白い」を、一緒に味わおうと努めた。


それは、ゲームでアイテムを探したり、敵の弱点を探ったりするのとは全く違う、けれど、不思議と満たされた気持ちになる作業だった。


しばらく歩くと、小さな小川が流れる開けた場所に出た。


せせらぎの音が、辺りに響いている。


俺たちは、川辺の苔むした岩に腰を下ろして、少し休憩することにした。


キラキラと光を反射しながら流れていく水面を眺めていると、ふと、昔の記憶が蘇った。


「……俺が昔いた世界にもな、こういう川があったんだ」


俺は、独り言のように呟いた。


「もっと、ゴミとか浮いてて、汚かったけどな……」


自嘲気味な言葉だったが、ルナは隣で黙って聞いていた。


俺の過去――田中健二としての記憶が、この異世界と繋がった、ほんの些細な瞬間。


ルナに理解できるはずもない。


それでも、ただ、こうして口に出せたことが、少しだけ、俺の心を軽くした。


そのせいだろうか。


帰り道、ルナはいつもより少しだけ、おしゃべりになった気がした。


空に浮かぶ雲の形が、大きな羊に見えること。


森の奥には、絵本に出てきたような妖精が本当にいるかもしれないと思うこと。


そして、時折、小さな声で、亡くなったママの思い出のかけらを、ぽつりぽつりと話してくれた。


俺は、その一つ一つを、大事に拾い上げるように、静かに聞いた。


相槌を打つだけで、余計なことは言わない。


ただ、ルナが自分の「世界」を、俺に少しだけ見せてくれていることが、嬉しかった。


家に着く頃には、太陽が西の空に傾き始めていた。

ルナの手には、森で拾ったいくつかの宝物――赤く色づいた綺麗な葉っぱ、鳥の羽根、そして、すべすべした灰色の石――が握られていた。


家の中に入り、ほっと一息つく。


すると、ルナが、握りしめていた宝物の中から、例の灰色の石を、俺の手にそっと乗せた。


「パパ、あげる。きれいだったから」


小さな、何の変哲もない石ころ。

だが、俺の手のひらに乗ったその石は、ずしりと重く感じられた。

ゲームで手に入れるどんなレアアイテムよりも、ずっと、ずっと価値のあるものに思えた。

これは、今日、俺とルナが一緒に過ごした時間、二人だけで作った思い出の、確かな証なのだ。


「……ありがとう、ルナ。大事にするよ」


俺は、その石を、リビングの暖炉の上の棚に、大切に飾った。


満たされたような、温かい気持ちが、胸の中に広がっていく。


攻略も、効率も、正解もない。

ただ、こうして、心を通わせる瞬間を、一つ一つ積み重ねていくこと。

それが、俺がルナの父親になるということなのかもしれない。


明日は、何をしようか。

一緒に、何を「発見」しようか。

隣で、木彫りのウサギに今日の冒険を一生懸命話しているルナの横顔を見ながら、俺は、この異世界での未来に、初めて確かな希望を感じていた。

二人だけの思い出が、これからもっともっと増えていく。

そのことが、今はただ、楽しみだった。

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