第3話 エルムウッドの温もり

数日が過ぎた。


俺、カイン(中身は健二)の育児スキルは、悲しいくらいに低レベルなままだった。料理は相変わらず焦がすか生煮えだし、ルナの髪を結んでやるなんて高等技術は夢のまた夢。

それでも、ルナは文句一つ言わず、俺の差し出す拙い食事を黙って食べ、自分で髪を梳かし、健気に日々を過ごしていた。その姿を見るたびに、胸が締め付けられる思いだった。

しかし、家の中に引きこもってばかりもいられない。貯蔵庫の食料は日に日に心許なくなっていく。特に、ルナが毎朝少し寂しそうに呟く「ママのパン、おいしかったなぁ」という言葉が、硬い黒パンをかじるたびに俺の罪悪感を刺激する。


(パン……パン屋に行けば、もっとマシなものが手に入るのか……?)


意を決して、俺はルナを連れて外出することにした。外の世界、つまり、このエルムウッドという町の人々と接触するのは、正直気が重い。

俺が「カイン」ではないことがバレたら?

いや、それ以前に、このコミュ障で不審な男が、幼い娘を連れているだけで奇異の目で見られるのではないか?

不安は尽きないが、ルナのためだ。


「ルナ、買い物に行くぞ」


声をかけると、ルナは少しだけ驚いたように顔を上げた。ここ数日、ほとんど家から出ていなかったからだろう。こくりと頷くのを見て、俺はルナの小さな手をしっかりと握った。転生してから初めて、俺たちの「家」の扉を開ける。


目に飛び込んできたのは、穏やかで、どこか懐かしいような町の風景だった。木組みの家々が立ち並び、石畳の道が緩やかにカーブを描いている。道の脇には小さな水路が流れ、さらさらと心地よい音を立てていた。鍛冶屋らしき場所から響く槌音、家々の煙突から立ち上る煙、そして人々の話し声。活気はあるが、急き立てられるような慌ただしさはない。俺がいた世界の、灰色で無機質な都会とは全く違う、温かみのある空気が流れていた。


それでも、道行く人々の視線が、どうしても気になってしまう。特に、俺とルナの組み合わせに、一瞬訝しむような、あるいは同情するような眼差しが向けられるのを感じた。そのたびに、ルナの手を握る手に力がこもる。


(落ち着け、俺。怪しまれてどうする。堂々としていればいいんだ……)


そう自分に言い聞かせながら、パン屋を目指す。香ばしい匂いをたどっていくと、すぐに目的の店が見つかった。「マーサのパン屋」と書かれた素朴な木の看板が目印だ。


店に入ると、焼きたてのパンの匂いが鼻腔をくすぐる。棚には様々な種類のパンが並んでいた。どれも素朴だが、見るからに美味しそうだ。


「あら、カインじゃないか。ルナちゃんも、いらっしゃい」


カウンターの奥から、恰幅の良い、人の良さそうな女性が顔を出した。彼女がマーサさんだろう。その笑顔は、俺が向けるぎこちない会釈にも、全く動じない。


「……パンを、いくつか……」


「はいよ。いつものにするかい? それとも、今日は違うのがいいかね?」


「い、いつもの……?」


しまった、と思った。元のカインには「いつもの」があったらしい。俺には知る由もない。


しどろもどろになっている俺を見て、マーサさんは何かを察したように、ふっと表情を和らげた。


「……エライザが好きだった、ミルクパンが焼き立てだよ。ルナちゃんも好きだろう?」


エライザ――ルナの母親の名前だ。その名前を自然に出されることに、ドキンと心臓が跳ねた。まるで、俺が夫であることを試されているような気がしてしまう。


「……じゃあ、それを……いくつか」


「はいよ」


マーサさんは手際よくパンを包みながら、優しい声で言った。


「カイン、あんたも大変だろうけど……無理するんじゃないよ。ルナちゃんのためにも、しっかり食べなきゃね」


差し出された包みは温かい。代金を支払う(この世界の貨幣にもまだ慣れない)と、マーサさんはルナに小さな焼き菓子をそっと手渡した。


「ルナちゃん、これおまけ。またおいで」


「……ありがとう、マーサおばちゃん」


ルナが小さな声でお礼を言うと、マーサさんは嬉しそうに目を細めた。


店を出ると、なんだかどっと疲れた。人の優しさが、今はまだ重い。ルナは早速、もらった焼き菓子を小さな口で頬張っている。その姿だけが、唯一の救いだった。


家路を急いでいると、今度は道端で日向ぼっこをしていたらしい老婆に呼び止められた。近所に住むゲイブルさんとかいう、世話焼きで有名な人だと、元のカインの記憶の断片が教えてくれる。


「おやまあ、カインさんとルナちゃんじゃないか。珍しいねえ、お二人で」


ゲイブルさんは皺くちゃの笑顔で近づいてくると、じろじろとルナの顔を覗き込んだ。


「ルナちゃん、少し痩せたかね? ちゃんと食べてるのかい? カインさん、男手一つじゃ大変だろうけど、栄養のあるものを食べさせないと……」


矢継ぎ早に繰り出される心配とアドバイス(その大半は根拠のなさそうな民間療法だ)に、俺は曖昧に頷くことしかできない。早くこの場を立ち去りたい。


「は、はあ……気をつけます……」


「そうかいそうかい。何か困ったことがあったら、いつでも言いなさいね。赤ん坊の頃から知ってるんだから、遠慮はいらないよ」


ようやく解放され、俺は逃げるようにその場を後にした。



家に帰り着き、扉を閉めた瞬間、大きなため息が出た。外の世界は、温かいけれど、同時に今の俺には少し眩しすぎる。そして、誰もが悪気なく口にする「エライザ」の名前と、俺に向けられる「父親」としての期待が重圧となってのしかかる。


(俺は、カインじゃない……)


その事実に、改めて打ちのめされそうになる。だが、ふと見ると、ルナが買ってきたミルクパンを嬉しそうに抱えていた。


「パパ、このパン、ふわふわ。ママのと同じくらいおいしい」


焼き菓子に続いて、今度はパンにご満悦のようだ。その屈託のない笑顔を見ていると、ずしりと重かった心が、少しだけ軽くなる気がした。



この町は、ルナにとっては生まれ育った場所なのだ。マーサさんも、ゲイブルさんも、ルナにとっては顔なじみの優しい人々なのだろう。俺が勝手に壁を作っているだけで、この町は、この温もりは、俺たち親子を拒絶しているわけじゃないのかもしれない。


今はまだ、この町の温かさを素直に受け入れることはできない。それでも、ルナがここで安心して笑えるように、俺も少しずつ、このエルムウッドという町に、そして「カイン」という役割に、馴染んでいかなければならないのだろう。


手始めに、明日の朝食は、今日買ってきた美味しいパンを出してやろう。それくらいなら、今の俺にもできるはずだ。

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