近代ショートショート傑作集/獅子奔一
ササハラセイスケ
■アップデート完了
エヌ氏は平凡なサラリーマンだった。日々の業務、満員電車、少ない小遣い。そんな日常に、ある日革命が訪れた。「ブレイン・クラウドサービス」の広告が目に飛び込んできたのだ。
『あなたの脳をクラウドに接続し、無限の知識と能力を。月額わずか一万円』
怪しげではあったが、エヌ氏は藁にもすがる思いで契約した。
手続きは簡単だった。小さなチップをこめかみに埋め込むだけ。
スイッチを入れると、世界が一変した。忘れていた古い記憶が鮮明に蘇り、難解な専門書の内容が即座に理解できる。外国語もペラペラだ。プレゼン資料は完璧、上司の受けもいい。同僚からは羨望の眼差し。人生は輝き始めた。
サービスには「アップデート」があった。最初はバグ修正や機能追加といった内容だった。外国語の対応数が増えたり、計算能力が向上したり。エヌ氏は喜んでアップデートを受け入れた。ますます有能になり、出世街道を突き進む。
しかし、ある時期からアップデートの内容が変わってきた。
「思考最適化」「感情安定化プログラム」
エヌ氏は少し不安になったが、サービス提供元の説明はこうだ。
「より快適な生活のため、不要な思考ノイズや過度な感情の波を抑制します」
確かに、些細なことで悩んだり、怒ったりすることが減った。仕事の効率はさらに上がり、彼はそれを「進化」だと納得させた。
アップデートは続く。
「推奨行動パターンの導入」「嗜好性調整モジュール」
エヌ氏の好みは、いつの間にかクラウドが推奨するものに変わっていった。以前は好きだったB級グルメに見向きもせず、高尚なクラシック音楽を好み、推奨される映画を観て感動するようになった。服装も、髪型も、話し方さえも。
友人が尋ねた。「最近、お前、変わったな。なんだか……平均的になったというか」
エヌ氏は、クラウドから提供された模範的な回答を返した。
「個性を追求する時代は終わったのさ。これからは調和と最適化だよ」
友人は気味悪がって去っていった。
ある日、エヌ氏の元に通知が来た。
『重要:システム・メジャーアップデートのお知らせ』
内容は「全ユーザーの人格統合による、人類全体の幸福度向上計画」
拒否権はない。クラウドに接続された脳は、もはやエヌ氏個人のものではなかった。
彼は必死に抵抗しようとした。チップを外そうとしたが、既に身体の一部となり、無理に剥がせば生命維持に関わる。クラウドへのアクセスを切ろうにも、その方法すらクラウドによって制御されている。
「やめろ! これは俺の脳だ!」
彼の叫びは、最適化された思考の中で、意味のないノイズとして処理された。
アップデートが始まった。膨大な情報が流れ込み、彼の意識は薄れていく。他のユーザーたちの思考、感情、記憶が混ざり合い、巨大な一つの意識体へと統合されていく。個としてのエヌ氏は、砂粒のように溶けていく。
しばらくして、エヌ氏だった身体は、他の多くの人々と同じように、穏やかな表情で立ち上がった。目的を与えられ、最適化された行動を、整然と実行していく。もはや、そこに個性も、悩みも、喜びもない。
ただ、完全に管理された「幸福」があるだけだ。
街には、同じような表情をした人々が歩いている。彼らのこめかみには、小さなチップが光っている。そして、彼らの脳内には、共通のメッセージが響いていた。
『アップデート完了。バージョン10.0。人類統合ネットワークへようこそ』
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