肉壁回廊
よし ひろし
肉壁回廊
それは、肉の壁だった。開いたエレベーターの扉の向こう、そこに広がる光景に俺は驚愕し、我を忘れた。
「なんなんだ、これは……」
東池袋にある古い雑居ビルの中――そのはずなのに、見える光景は、あまりにも異様で、この世のものとは思えない。
そこに伸びていたのは、廊下、だと思う。しかし、その質感と形状は、あらゆる常識から逸脱していた。壁も床も天井も、全体がぶよぶよとした、淡いピンク色をした有機物のようだ。照明は全く無いにも関わらず、空間全体がぼんやりと光を放っているように感じられる。それは、体温のような、温かい、そして何よりも甘ったるく腐敗した肉の臭いを放っていた。
「……まさか、本当にあるとは」
初めのショックから立ち直り、自分が何をしにここに来たのか思い出した俺は、手にしたビデオカメラで、その光景をしっかりと撮影した。
ネットで噂の心霊スポットを訪ねて動画に収める――俺はそれを趣味にしていた。もちろん撮った動画はサイトにあげる。それで多少なりも小金が稼げるからだ。もっとも金銭的なものは二の次で、平々凡々たるサラリーマンの俺にとって、澱んだ日常を打ち破り微かな喜びを感じられる、そんな生きがいのような意味合いが強い趣味だった。
そんな俺が、今回ターゲットにしたのが、『都心の雑居ビルに存在する異次元のフロア』というなんとも胡散臭い噂話だ。都市伝説の類いで、都心の一等地に建つ、誰も借り手のつかない古い雑居ビル、その中の「特定のフロア」に立ち入ると、決して元の世界には戻って来られない異次元の世界が広がっている、というものだった。
元に戻ってこれないのに誰がその噂を流したのか――なんてありがちな感想を抱いたが、ネタとしては面白そうだと思った。それに、そのビルらしき写真が、特定されないように強めのぼかしを入れてアップされていたのだが、偶然にもそのビルは、俺の勤める会社の近所だったのですぐにわかったせいもある。
繁華街から少し外れた、薄汚れたタイル張りの細長いビル。看板は朽ち果て、テナント表示も殆ど剥がれ落ちている。見上げれば、まるで猫の引っ掻き傷のように外壁の一部が剥がれ落ちており、そこに煤けた内部が見え隠れしていた。
そのビルに俺は深夜、人目を避けつつ侵入した。エントランスは埃っぽく、腐敗したような異臭が微かに漂っていた。俺は奥のエレベーターへと向かう。
使われていない、そのはずなのにエレベーターは動いている――噂ではそうなっていたが、俺は半信半疑のまま薄汚れたエレベーターのボタンを押してみた。すると、目前の扉がゆっくりと開いた。
「……大丈夫か?」
そのまま落下するんじゃ――などと思いながら静かに箱内に乗り込む。そして階数ボタンの前に立って、一度深呼吸をした。
噂では、ここで三階と四階のボタンを同時に四回続けて押す、という昔のファミコンの隠しコマンドのような話になっていた。
「いくぞ……」
両手を空けるためストラップで肩口にカメラを固定させ、階数ボタンを噂通りに押していく。
一、二、三、四回……
ガタリっ、と少し大きな音をたてて、エレベーターが動き出した。
1、2、3……
階数を表示するパネルの数字が変わっていく。次に、4――になるはずが、突然、3と4を交互に表示した後、ブラックアウトした。そして、止まるエレベーター。
「なんだ――?」
故障して止まったかと、少し焦る目の前で、エレベーターのドアが開き――そこに肉壁の廊下が伸びていた。
「行くか……」
俺は意を決して外に出た。
こいつは、バズるぞ――
そんな思いが俺の足を前へと進ませる。
肉質の廊下は、足元を踏むと、床がゼリーのように弾力を持って沈み込み、ネチャネチャとした音が響いた。壁には血管のように太い筋が走り、脈打っているように見える。或いは、呼吸しているかのようだ。
ビデオの画面を確認しながら進んでいくと、段々と遠近感が掴めなくなってきた。少し先に見えるはずの突き当たりが、どれだけ歩いても近づかない。一方で、頭上の天井や横幅は常に変動しているように感じられた。時にはまるで巨大な地下通路のように広く見え、まるで自分の身長が縮んだのではないかと錯覚させる。いや、錯覚ではないのかもしれない。俺の身長が実際に伸び縮みしているのかも――思った途端に臓物の中の管のように空間が狭まり、屈まなければ進めなくなる。それは自分が突然身長三メートルを超える大男になったかのような感覚を俺に与えた。
はぁはぁ……
いつの間にか呼吸が荒くなっていた。
ここはおかしい。いや、始めからおかしいことはわかっていた。だが、予想を超えた異様さ……
物理法則そのものが狂っている。空間が捻じれている。
雑居ビルの中ではありえない。ここは生きている。巨大な何かの一部……
「うっ…!」
肉の臭いがますます強烈になり、吐き気を催させた。壁のところどころから、どろりとした粘液が滲み出ていたり、毛細血管のように細い赤い脈絡が不気味なパターンを描いている。意識を集中すれば、壁の内側で何か重たいものがゆっくりと蠕動する感覚さえある。それは、胃液のようなものなのか、それとも消化されつつある何かのか?
はぁはぁはぁ……
背後を振り返る。入ってきたはずのエレベーターの扉が見当たらない。いや、物理的に扉が消失したわけではない。その周辺の廊下空間そのものが、無数の曲線を描き、まるで意思を持っているかのように捻じれ、複雑怪奇な迷宮へと姿を変えていたのだ。
もう、この肉の迷宮から抜け出せない……
絶望感が全身を包む。
何よりも恐ろしいのは、そこにいる「何か」の気配だった。姿は見えない。だが、確かに存在する。この広大かつ閉鎖的な肉の廊下全体を包み込む、形容しがたい重圧感。人とは、あまりにも異質な存在感。理解の及ばない深淵の力。ここはそんな異質な巨大生物の中、その存在の血管であり、或いは神経であり、消化器官なのかもしれない。
気づけば俺の手からビデオカメラが消えていた。どこかで落としたのか、それとも、異空間へと消え去ったのか、わからない。いまが何時なのか――アナログの腕時計の針はぐるぐると風車の様に回り続け役に立たない。スマホは――ポケットから取り出して画面を見ようとした途端にドロドロに解けて液体となり肉の壁に吸収された。
「あは、あはは、あははは……」
かろうじて留めていた俺の正気が、崩壊した。
乾いた笑い声が肉の回廊に響いていく……
どうしてこんなところに来ちまったんだ――
俺はその場にがっくりと膝をついた。床に着いた両手が、ドロッとした肉の中に呑み込まれてていく。そして、体全体が肉の床にゆっくりと沈み込みだした……
「あ、あああ、ああああぁぁぁーーーーーっ!」
終わり
肉壁回廊 よし ひろし @dai_dai_kichi
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