枯れ葉。

石崎あずさ

序章

第1話 - 落ち葉の始まり

 西川にしかわ陽大はるとは、朝のホームルームが始まる十五分前、いつものように教室の窓際に立っていた。十月下旬、山間にあるこの中学校では、朝の空気がもう冬の手前の冷たさを帯びている。窓の外には、枯れ葉がゆっくりと風に舞っていた。


 校庭のイチョウは、もう半分以上が裸だった。陽大はふと、自分の掌を見つめた。あの木と同じように、自分も何かを失いながら、毎日をただ通り過ぎている気がした。


 「西川先生、プリント届いてました」


 教室のドアから、英語の加藤が顔を覗かせた。陽大は軽く会釈をして、淡々と返事をした。「ありがとう、あとで職員室で受け取ります」


 加藤が去ったあと、教室には再び沈黙が戻った。生徒たちがまだ登校してこない早朝の教室は、まるで使われなくなった劇場のように静かだ。陽大は黒板をちらと見た。そこにはチョークで誰かが描いた落書きがあった。

 ──「見つけて」──

 雑な筆致のその言葉が、なぜか朝の光の中で浮かび上がって見えた。


 「……誰だ、こんなの書いたのは」


 思わず声に出すと、空気が一瞬だけ重たくなったような気がした。だが、ただの子供のいたずらだろうと自分に言い聞かせ、黒板消しでさっと文字を消した。


 ホームルームが始まり、今日もまた変わり映えのしない授業と、落ち着きのないクラスのざわめきの中で陽大は過ごした。だが、ひとつだけ例外があった。


 ──新谷結花。


 クラス名簿にその名があるにもかかわらず、彼女は九月以降、一度も登校していなかった。不登校の理由ははっきりしない。家庭訪問も一度だけ試みたが、母親は「疲れてるんです、今はそっとしてやってください」と繰り返すだけだった。


 その日も放課後になり、職員会議を終えた陽大は、自転車を押しながら新谷家へと向かった。風は冷たく、落ち葉がタイヤに絡みつく。村外れの坂道を登った先、小さな林を越えた場所に、古びた平屋がぽつんと立っていた。

もう、名暮町立名暮中学校は見えない。


 チャイムを鳴らしても、反応はない。だが、カーテンの隙間からかすかに人の気配が見えた。


 「新谷さん、担任の西川です。学校から来ました」


 数秒の沈黙の後、扉がゆっくり開いた。現れたのは、妙に蒼白な顔をした少女。肩までの黒髪と、白いセーター。新谷結花だった。


 「……先生、だったんですね」


 掠れた声で彼女は言った。


 「……中に、入っても?」


 結花は一瞬だけ戸惑ったが、やがて無言でうなずいた。


 玄関を抜けた瞬間、陽大は妙な寒気を感じた。家の中は、まるで時間が止まっているようだった。カーテンは閉じきられ、空気が動いていない。リビングの一角に敷かれた布団。その脇の壁に、陽大は目を奪われた。


 ──枯れ葉。大量の枯れ葉が、糊で貼りつけられている。


 「これ、君が作ったの?」


 陽大が尋ねると、結花は頷いた。


 「……生きていたものだから。何かに、してあげないとって思って」


 彼女の言葉は、詩のようだった。


 その後、陽大は短い時間だけ彼女と会話し、元気そうな様子を見届けて帰路についた。だが、ふとした違和感が胸に残った。


 ──玄関の下駄箱の上に、埃をかぶった卒業アルバムがあった。

 ──開いてみると、「新谷結花」という名の少女が、そこにも写っていた。

 ──だがその卒業年は、五年前だった。


 「あれは……姉、ですかね?」と陽大は口の中でつぶやいた。


 帰り道、陽大の頭の中で、昼間の黒板の落書きが蘇る。

 ──「見つけて」


 風が強くなり、木々がざわめく音に混じって、誰かの囁き声のようなものが聞こえた気がした。振り返ると、誰もいない。けれど、足元には一枚の枯れ葉が舞い落ちた。


 そこには、小さく黒いインクで、何かが書かれていた。

 ──「あの道には、入ってはいけない」

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