第9話 日曜の神と罠



水曜日の夕方、トーマス・フィンチは郵便局でいつものように仕事を終えていた。しかし、同僚たちは彼の様子の変化に気づいていた。疲労困憊した表情、震える手、そして時折ぼんやりと空中を見つめる虚ろな目。


「トーマス、大丈夫?」同僚のジョンが心配そうに尋ねた。


「ええ、ちょっと眠れなくて」トーマスは言い訳した。しかし、その声は弱々しかった。


「最近、君の様子がおかしい」


「問題ない」トーマスは強がったが、郵便物を整理する手は明らかに震えていた。


木曜日の朝、シエラは再び鏡二の書斎を訪れた。


「先生、トーマスさんについて心配なことがあるんです」


「どうされました?」


「昨日、郵便局で見かけたんですが、すごく具合が悪そうで...」


鏡二は即座に反応した。「今日中に彼の様子を確認しましょう」


その日の午後、二人はトーマスの家を訪ねた。彼は65歳の独身で、村の郵便配達人として40年以上働いていた。家は村の端にあり、整然としていながらも、どこか寂しげな雰囲気を漂わせていた。


ドアを開けたトーマスは、明らかに衰弱していた。目の下には深いクマがあり、頬は痩せこけていた。


「トーマスさん」鏡二は優しく声をかけた。「調子はいかがですか」


トーマスは窓際の椅子に座り、外を眺めていた。彼は振り向くと、疲れ切った表情で微笑んだ。


「先生...シエラちゃんも。いらっしゃい」


「どうされました?」


「眠れないんです」トーマスは正直に答えた。「もう四日間、ほとんど眠っていません」


シエラは前に出た。「口笛、聞こえますか?」


トーマスは一瞬、凍りついたように動きを止めた。額に汗が浮かんだ。「...はい」


鏡二は慎重に質問を続けた。「どのような音でしたか」


「上がって...下がって...また少し上がる」トーマスは空中で指を動かした。「この音が頭から離れない。特に、夜中の三時頃」


「いつから聞こえ始めましたか」


「先週の金曜日」彼は答えた。「ギルバート神父の告解の後からです」


鏡二とシエラは視線を交わした。パターンは確かに一致していた。


「トーマスさん」鏡二は提案した。「催眠療法をお試しになってみませんか。もしかすると、症状を和らげることができるかもしれません」


トーマスは考え込んだ。「本当に効果はあるんでしょうか」


「絶対とは言えませんが、試す価値はあります」


「分かりました」


鏡二は書斎に簡易的な催眠室を作り上げた。重いカーテンで窓を覆い、照明を落とした。机の上には、懐中時計が置かれていた。


「リラックスしてください」鏡二は優しく語りかけた。「私の声に集中して...」


彼は専門的な手順を踏んで、トーマスを深い催眠状態に導いた。最初は抵抗が見られたが、徐々に彼の呼吸は深くなり、筋肉の緊張が解けていった。眼球の動きが止まり、深い意識の底に沈んでいった。


「トーマスさん」鏡二は静かに尋ねた。「告解の時のことを思い出してください」


トーマスの眉間に皺が寄った。「...はい」


「どこにいますか?」


「教会...いいえ、神父の工房です」


「なぜ工房に?」


「特別な懺悔だと言われて...」彼は続けた。「秘密の告白をしなければならないと」


「どのような部屋ですか?」


「部屋は...赤い」


シエラは驚いて身を乗り出した。鏡二は静かに手で制した。


「赤い部屋?」


「赤い光...赤いカーテン...壁にはたくさんの絵」


「絵はどのような?」


「黒い鳥...私を見ている...目が私を追いかける」


「他には?」


「音楽が...ピアノの音...繰り返される...」


「どんな音楽?」


「聴いたことがある旋律...上がって...下がって...」


「その音楽を聴いて、どう感じましたか?」


「不安になる...でも、聴いていたい...」


トーマスは突然、苦痛の表情を浮かべた。「やめて...頭の中に入ってくる...」


「何が入ってくるのですか?」


「音...言葉...『覚えていろ』...『忘れるな』...」


「何を覚えていろと?」


「1944年...子供...私は見ていた...」


「どんな子供?」


「金髪の...泣いている...」


トーマスは激しく首を振り始めた。「いけない...言えない...誓った...」


鏡二は重要な手がかりを得た。しかし、トーマスの動揺が増しているのを見て、催眠を解くことにした。


「今から私が数を数えます。3で目が覚めます」


「1...2...3」


トーマスはゆっくりと瞬きした。「どうでした?」


「何か話されましたか?」


「いいえ、何も覚えていません」


これは催眠術の典型的な反応だった。被催眠者は、術後に自分の発言を忘れることがある。


「トーマスさん」鏡二は慎重に確認した。「赤い部屋のことは?」


トーマスは首を傾げた。「赤い部屋?」


やはり、彼は何も覚えていなかった。


トーマスを帰した後、鏡二はシエラに説明した。


「神父は特殊な環境で暗示をかけているようです」


「赤い部屋...」


「色彩心理学では、赤は興奮や緊張を高め、暗示を受けやすくします」鏡二は専門書を開いた。「また、黒い鳥の絵は恐怖を喚起し、心理的防御を弱めます」


「そして音楽で...」


「音と視覚の組み合わせによる複合暗示です」


その夜、鏡二は重要な決断を下した。日曜日の朝の礼拝に参列し、神父の説教を実際に聞いてみることにしたのだ。


金曜日の朝、シエラは学校で友人から教会の古い録音テープについて聞いた。


「うちのおばあさんが持ってるよ」友人は言った。「昔の礼拝の録音」


「どのくらい古いの?」


「20年くらい前かな」


昼休み、シエラは友人と共に彼女の家を訪ねた。老婦人は快く古いカセットテープを貸してくれた。


「20年前の説教ですわ」彼女は説明した。「当時の神父の素晴らしい説教を記録したかったのです」


放課後、シエラは鏡二の家に直行した。


「先生、これ」


彼女は高ぶる興奮を抑えながら、テープを手渡した。


「古い説教の録音?」


「20年前のです」


二人は即座に再生を始めた。録音は古く、音質は悪かったが、神父の声ははっきりと聞こえた。


最初の十分は普通の説教だった。しかし、二十分を過ぎた頃、鏡二は異常に気づいた。


「一時停止してください」


彼は眼鏡を外し、集中して音を聞いた。


「何か聞こえましたか?」


「説教の中に隠されたリズムパターンです」


鏡二は専門的な音響分析を始めた。波形を紙に描き、パターンを視覚化していった。神父の声の高低、抑揚、間合いすべてに規則性があった。


「これは...」


彼の手が止まった。紙に描かれたパターンは、まさにシエラが聞いた口笛のリズムと一致していたのだ。


「信じられません」鏡二は呟いた。「説教の中に、特定の音楽的パターンが組み込まれています」


「どういうことですか?」


「聞き手が意識しないレベルで、特定のリズムを刷り込んでいるんです」


彼は続けた。「これは非常に高度な技術です。音の高低、抑揚、間合い—すべてが計算されています」


シエラは震えた。「みんな、これを聞いていたんですね」


「はい」鏡二は深刻に頷いた。「長年にわたって」


その晩、鏡二は自身の発見を整理した。


神父は以下の手法を使用していた:


1. 礼拝での潜在的な音楽パターンの刷り込み

2. 視覚芸術(赤と黒の絵画)による恐怖の惹起

3. 特殊環境(赤い部屋)での直接的暗示


「これは組織的な心理操作です」彼は確信した。


土曜日、二人は作戦会議を開いた。


「トーマスさんを守らなければなりません」鏡二は言った。


「どうやって?」


「明日の朝、彼の家を訪ね、教会に行かないよう説得します」


「もし行ったら?」


「追跡します」鏡二は決然として答えた。「そして、どんな手段を使ってでも阻止します」


その夜、村は異様な静けさに包まれていた。多くの人々は、明日何が起こるかを不安に思いながら眠りについた。


シエラは自室で、明日の準備をしていた。運動靴、そして鏡二からもらった笛。緊急時の連絡用だ。


鏡二は書斎で、医学的な応急処置キットを準備していた。もし最悪の事態になれば...


教会の塔では、ギルバート神父が深夜まで準備に追われていた。明日の説教原稿、そして特別な訪問者への対応。


霧は徐々に濃くなっていた。


村は、運命の日曜日を静かに待っていた。


時計の針は、確実に朝6時へと近づいていた。


夜明け前、最も濃い闇の中で、村は最後の静けさを保っていた。


やがて、教会の鐘が一回、二回、三回...


新しい日曜日が始まろうとしていた。

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