第8話 鳥を描く者



火曜日の午前中、鷺沼鏡二とシエラ・スレイドは再び犠牲者たちの家を訪れていた。警察の検証が終わり、現場のテープも外されていたが、遺族が整理を進める前に、もう一度詳細を調べたかったのだ。


ウィロビー夫人の寝室は、既に姪のエリザベスによって片付けられ始めていたが、壁に掛けられた一枚の絵画が鏡二の注意を引いた。


「これは...」


それは小さなキャンヴァスの油絵だった。赤い背景に黒い鳥が描かれており、独特の迫力があった。下方には「G・M」というイニシャルだけが記されていた。鳥の眼光は鋭く、まるで見る者を じっと観察しているようだった。


「きれいな絵ね」シエラは言ったが、同時に奇妙な違和感を覚えた。


エリザベスが声をかけてきた。「叔母さんは、この村の画家の作品を特に大切にしていました」


「この絵の作者はご存知ですか?」鏡二は尋ねた。


「ギルバート神父ですわ」エリザベスは答えた。「趣味で描かれているそうです。最近、叔母さんは神父の絵を何枚も購入していました」


鏡二はさらに質問した。「他にも神父の作品をお持ちですか?」


「ええ」エリザベスは別の部屋に案内した。「居間にも」


居間には確かに、同じスタイルの絵が二枚掛けられていた。いずれも赤い背景に黒い鳥。微妙に鳥の形や位置は異なっているが、全体の構図と色使いは共通していた。


次に訪れたクラーク氏の家では、驚くべき発見があった。書斎の壁には、まったく同じスタイルの絵画が四枚掛けられていた。すべてが赤い背景に黒い鳥を描いたもので、同じく「G・M」の署名があった。


「クラークさんは、美術が好きだったんですね」シエラは感心した。


メアリー・クラークは悲しそうな表情で答えた。「夫は最近、神父の絵に夢中になっていました。何かに惹かれるようにって。毎日のように絵を眺めては、『この色使いには何か意味がある』と言っていました」


鏡二は注意深く絵画を観察した。どれも微妙に鳥の形や位置が異なっているが、色使いは驚くほど統一されていた。赤の濃淡、黒の質感、そして何かを暗示するような鳥の視線。


「神父の絵はいつ頃購入されたのですか?」


「先月初めから集め始めました」メアリーは答えた。「ちょうど体調を崩し始めた頃と重なります」


学校に戻ると、二人は美術教師のヘレン・ベイカーを訪ねた。彼女は経験豊富な教師で、村の芸術活動にも詳しかった。


「ギルバート神父の絵ですか」ヘレンは微笑んだ。「彼は素晴らしい才能の持ち主です」


「神父が絵を描くことは有名なんですか?」


「村ではよく知られています」ヘレンは説明した。「特に最近、彼の作風が変化しました。以前はもっと明るい色調だったのに」


「変化?」


「五年前くらいからでしょうか。突然、赤と黒を多用するようになりました」


彼女はファイルを取り出し、写真を見せた。確かに、神父の個展の写真だった。新旧の作品が並べて展示されており、明らかな変化が見て取れた。


「何か特別な出来事でもあったのでしょうか」


「さあ」ヘレンは首を傾げた。「でも、その頃から彼の作品はより人気が出始めました。特に村の年配の方々が熱心に集められています」


「最近、彼の作品を購入された方は?」


「そうですね...」ヘレンは考えた。「最近ではウィロビーさんとクラークさんが熱心に集められていましたね。他にはマーサ・ウィリアムズさんも」


シエラは即座に反応した。「ウィリアムズ夫人!」


「彼女も今、不眠で悩んでいます」鏡二は意味深長に言った。


その日の午後、二人は決断した。神父の工房を訪ねることにしたのだ。


教会の横の古い建物の一角が、神父の工房になっていた。扉を開けると、油絵の具と松脂の混じった独特の匂いが漂ってきた。明るい北側の窓からは、柔らかな光が差し込んでいた。


「いらっしゃい」ギルバート神父が振り向いた。白いスモックを着た彼は、まさに制作中のようだった。パレットには赤と黒の絵の具が中心に置かれていた。


工房の中は、彼の作品であふれていた。壁という壁には、キャンヴァスが並び、イーゼルにも数枚の作品が置かれていた。大きなものから小さなものまで、様々なサイズの作品が所狭しと配置されていた。


驚いたことに、多くの作品が赤と黒を基調としていた。風景画、村人の肖像画、静物画—すべてに共通する色使いがあった。


「素晴らしい作品ばかりですね」鏡二は感嘆した。


神父は謙遜した。「趣味にすぎません」


肖像画コーナーには、村人たちの顔が並んでいた。そこで鏡二は奇妙な共通点に気づいた。どの肖像画も、モデルの目の表情が不自然なのだ。皆、何かに怯えているような、恐怖を湛えた目をしていた。


「これらの肖像画は?」


「村の方々です」神父は説明した。「芸術を通じて、彼らの本質を捉えようとしています」


シエラは別の絵に注目していた。「これは誰ですか?」


彼女が指差したのは、子供の肖像画だった。五、六歳の男の子が描かれており、金髪で青い目をしていた。しかし、この子の目も、他の肖像画と同様に恐怖に満ちていた。


「古い作品です」神父は即答した。「もう何年も前に」


「モデルは?」


「...村の子供でした」神父は視線を逸らした。


その時、シエラは何気なく口笛を吹いた。例の上昇と下降のメロディを。無意識に出た音だった。


瞬間、神父の顔色が変わった。彼は明らかに動揺し、筆を落としてしまった。絵の具が床に飛び散った。


「どうされました?」鏡二は尋ねた。


「いいえ、何でも」神父は筆を拾いながら答えた。「最近、よく眠れなくて」


しかし、彼の手は震えていた。額にも汗が浮いていた。


鏡二は部屋をさらに観察した。その時、彼は重要な発見をした。ある絵画のパターンが、シエラの口笛のリズムと一致することに気づいたのだ。


それは抽象的な作品だったが、赤い線が上下に動き、黒い点が一定のパターンで配置されていた。上昇、下降、そして微かな上昇。まさに口笛のリズムと同じだった。


「これは興味深いですね」鏡二は指差した。「音楽的なパターンを感じます」


神父は即座に反応した。「美術と音楽は密接に関連しています」


「特にこの作品には、明確なリズムを感じます」


「それぞれの芸術形式には独自の表現があります」神父は説明を避けるように答えた。


神父の額にはさらに汗が浮かんできた。「さて、そろそろ時間が」


鏡二は更に質問を重ねた。「このパターンには特別な意味があるのですか?」


「特にありません」神父は強く否定した。「純粋に美的な配置です」


その時、シエラが再び無意識に口笛を吹き始めた。


「やめなさい!」神父は突然叫んだ。パレットを落とし、床に絵の具が飛び散った。


二人は驚いて神父を見つめた。


「申し訳ない」神父は自分を取り戻そうとした。「最近、音に敏感で...疲れているんです」


しかし、明らかに取り乱していた。


鏡二は冷静に問いかけを続けた。「神父さま、あなたの絵には特殊なパターンが隠されているようですね」


「何を言いたいのですか」神父は防御的になった。


「音楽と視覚芸術の組み合わせによる心理的効果」鏡二は説明した。「これは古くから研究されています」


神父は顔面蒼白になった。「私の作品は純粋に...」


「1944年の出来事と関係があるのでは?」


その言葉に、神父は完全に平静を失った。


「出ていってください」彼は叫んだ。「今すぐ!」


「落ち着いてください」鏡二は諭した。


しかし神父は扉を開け放ち、「お引き取りください!」と繰り返した。手は震え、声も上ずっていた。


二人は工房を後にせざるを得なかった。


外に出ると、シエラが尋ねた。「先生、どういうことですか?」


鏡二は考えを整理しながら答えた。「視覚と聴覚の組み合わせによる暗示効果です」


「どういう意味?」


「人間の脳は、複数の感覚からの刺激を同時に受けると、その記憶がより強く刻まれます」鏡二は説明した。「神父の絵には、音楽的パターンが隠されている」


「だから、絵を見ると口笛を思い出す?」


「正確には、絵を見た時に特定の音楽パターンを聞くと、深層心理に何らかの影響を与える仕組みかもしれません」


二人は図書館に向かい、視覚聴覚複合暗示について調べた。


「戦時中」鏡二は重要な文献を見つけた。「心理戦の一環として、このような技術が研究されていました」


「具体的には?」


「絵画と音楽を組み合わせ、捕虜の精神を弱める試みが行われたという記録があります」


シエラは震えた。「もしかして、この村でも...」


「可能性は高い」鏡二は頷いた。「そして、その技術が現在、悪用されているのかもしれません」


その夜、鏡二は自室で神父の絵画のスケッチを描いた。パターンの解析を試みるためだ。赤鉛筆と黒鉛筆を使い、彼が見た配色パターンを正確に再現した。


確かに、ある規則性が見えてきた。赤い部分の配置、黒い鳥の視線の方向、そして背景の陰影。すべてが音楽的リズムを持っているように見えた。


鏡二は専門書と照らし合わせた。「この配色とパターンは、不安や恐怖を引き起こすことが知られている組み合わせだ」


彼はさらに発見した。「赤は警告や危険を象徴し、黒は死や秘密を表す。この組み合わせは、無意識的に見る者を不安にさせる」


また、鳥の目の描き方も独特だった。すべての鳥が、左上を見つめるように描かれており、これは心理学的に不安定さを生じさせる構図だと知られていた。


シエラは家で母親と話していた。


「お母さん、神父さんの絵を見たことある?」


エイミーの表情が曇った。「あれは...見ないようにしていたわ」


「どうして?」


「あの絵を見ると、昔のことを思い出すから」


「昔って?」


「...もういいの」エイミーは話題を変えようとした。


「お父さんは神父の絵、持ってるの?」シエラは追及した。


エイミーは動揺した。「知らない...」


その夜、村には異様な静けさが漂っていた。多くの家では、神父の絵画が壁からひっそりと下ろされていた。直感的に、人々はその絵に潜む何かを感じ始めていた。


鏡二は書斎で、一つの結論に達していた。


「神父は意図的に、心理操作のための作品を制作している」


彼の手元には、様々な証拠が集まっていた。絵画のパターン、犠牲者たちの所有していた作品、そして神父の異常な反応。


「しかし、なぜ今になって?」


この疑問が、彼の頭から離れなかった。


翌朝、水曜日。


村には新たな不安が広まっていた。「神父の絵を家に飾ってはいけない」という噂が、まことしやかに囁かれ始めていた。


一部の村人は、絵を教会に返却し始めた。しかし、一部の人々は、逆に絵をより大切に守り始めた。まるで、何かの魔力に取り憑かれたように。


シエラは学校で、同級生から驚くべき情報を聞いた。


「ギルバート神父の絵には、魔法がかかってるんだって」


「誰が言ってたの?」


「おばあさんが。昔から村ではそう言われてたんだって」


これらの情報を総合し、鏡二は確信を深めていった。神父は単なる芸術家ではない。彼は高度な心理操作の技術を持ち、それを作品に込めていたのだ。


しかし、最大の疑問は残っていた。1944年の出来事との関連、そして現在の連続死の真の目的は何なのか。


鏡二は次のステップを計画し始めた。神父の過去を更に詳細に調査する必要があった。特に、彼が「ゲイブリエル・モリソン」として知られていた若い頃について。


霧は再び村を包み始めていた。まるで、全ての秘密を守ろうとするかのように。


次の日曜日まで、あと四日。


時間は刻々と過ぎていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る