第7話 精神と錯覚
土曜日の夜、鷺沼鏡二は書斎で一人、犠牲者たちの情報を整理していた。壁には白い紙が貼られ、その上には赤い糸で複雑な時間表が描かれていた。ウィロビー夫人とクラーク氏の最後の二週間の行動パターンが、精密な医学的観察眼で記録されていた。
「興味深い」鏡二は呟きながら、眼鏡の位置を直した。
両者に共通する症状が明確に浮かび上がっていた。死の三日前から始まる不眠、不安状態、そして特徴的な「朝方覚醒」パターン。午前三時から四時にかけて目覚め、そのまま眠れなくなる。これは典型的な抑うつ症状の一つだが、二人の場合はさらに特殊な要素があった。
鏡二は長年の医学経験から、これが単なる自然な症状ではないことを感じていた。あまりにもパターンが一致しすぎている。まるで、誰かがプログラムしたかのような精密さだ。
そこには、手書きで記されたメモも貼られていた。
「ウィロビー夫人:最後の2週間で朝4時に6回覚醒」
「クラーク:同じパターンで7回覚醒」
「共通点:両者とも覚醒後、口笛の音を報告」
机の上には、医学専門書と並んで、音楽心理学の文献も広げられていた。鏡二は音の心理的効果について、改めて研究していた。
翌朝、早朝にノックの音がした。玄関に出ると、シエラが立っていた。
「先生、おはようございます」
「早いですね。どうしましたか」
「今日は特別な日だから、早く来ました」
鏡二は彼女に協力を求めた。「シエラさん、今日は重要な調査があります」
「何ですか?」
「犠牲者たちの生活パターンを詳細に調べたいのです。村人たちから情報を集めていただけますか」
「分かりました」
午前中、シエラは村の中心部で情報収集に専念した。彼女の若さと無邪気さは、大人たちが警戒する話題にも自然に踏み込めた。
薬局では、薬剤師の未亡人メアリー・クラークが、心配そうに客と会話していた。
「エドワードは最近、よく眠れないと言っていました」メアリーは涙ぐみながら語った。「特に、朝早く目が覚めてしまって」
「何時頃ですか?」シエラは優しく尋ねた。
「三時か四時頃です。そんなことは今までなかったのに」
メアリーは続けた。「朝になると、『また例の口笛を聞いた』と言ってました。でも、私には何も聞こえないんです」
シエラはこの証言を注意深く記憶した。
パン屋では、ウィロビー夫人の隣人が似たような証言をした。
「マーガレットさんも、最後の週は夜中によく明かりがついていました。カーテンの隙間から見えるんです。夜更けに何か書き物をしているようでした」
「何を書いていたか、分かりますか?」
「いいえ、でも時々、『これを覚えていなければ』って呟いていたそうです」
教会前のベンチで休憩していると、老婦人が話しかけてきた。
「シエラちゃん、気をつけなさい。最近、村がおかしいのよ」
「どうして?」シエラは身を乗り出した。
「ウィロビーさんもクラークさんも、死ぬ前に教会で特別な懺悔をしていたの」
シエラは耳を疑った。「特別な懺悔?」
「ギルバート神父に呼ばれてね。長い時間、告解室にいたそうよ」
「どのくらい?」
「一時間以上って聞いてます。普通の懺悔はもっと短いのに」
老婦人は周りを見回してから、小声で続けた。「告解の後、二人とも様子が変だったって。真っ青な顔で出てきたそうよ」
昼過ぎ、シエラは収集した情報を鏡二に報告した。
「特別な懺悔...」鏡二は考え込んだ。「重要な手がかりかもしれません」
彼は書斎のホワイトボードに新たな情報を追加した。「特別懺悔」という文字が、赤い円で囲まれた。
「先生、これはどういう意味があるんですか?」
鏡二は専門書を開きながら説明した。「懺悔は、心理学的に見ると強力な暗示の場になりえます。特に、権威ある人物の前での告白は、被暗示性を高めます」
「神父が何かを...?」
「まだ分かりません」鏡二は慎重に言葉を選んだ。「しかし、可能性は否定できません」
彼は本棚から別の書籍を取り出した。「心理操作の歴史」というタイトルだ。
「宗教的な権威は、時に人の心理を支配する強力な道具になってきました」鏡二は説明を続けた。「中世の魔女狩りも、現代の洗脳も、その基本原理は同じです」
シエラは真剣に聞き入った。「でも、神父がそんなことを...」
「可能性を探るのが私たちの仕事です」鏡二は答えた。「先入観を持たず、事実を積み重ねることが大切です」
午後、鏡二は重要な実験を提案した。
「シエラさん、音に対するあなたの反応を科学的に測定してみたいのです」
書斎の一角に、即席の実験装置が設置されていた。古い心電図計、血圧計、そして簡易的な脳波記録装置。彼の医学的知識と手先の器用さが、数時間でこれらを組み合わせた臨時の測定機器を作り上げていた。
「ただ椅子に座って、音を聞いてください」
シエラは装置に繋がれた。電極が額と胸に貼られ、指先には血圧センサーが取り付けられた。
「準備はいいですか?」
シエラは頷いた。「はい」
鏡二はピアノに向かい、あの口笛のパターンを弾き始めた。最初は単純な旋律を。
「何か感じますか?」
「特に...」
「では、速度を変えてみます」
鏡二は徐々にテンポを遅くした。二度目の繰り返しで、シエラの呼吸が浅くなった。
「続けます」
三回目の繰り返しで、シエラの身体に明確な変化が現れた。心拍数が急に上昇し、皮膚電気反応も異常を示した。心電図の波形が不規則になり始めた。
「どんな感じですか?」
「気分が...重く」シエラは訴えた。「何か思い出そうとしているような」
彼女の額に汗が浮かび始めた。
「もう少し続けます」
鏡二は音の強弱を変化させた。強音と弱音の対比が、シエラに更なる反応を引き起こした。
「先生...」シエラの声が震えていた。「怖い...」
鏡二は即座に演奏を止めた。「大丈夫ですか?」
シエラは深呼吸した。「はい...ただ、このメロディを聞くと、言いようのない不安が...」
鏡二は興奮を抑えながら記録した。生理的データは明確な反応を示していた。音の周波数パターンが、確かに何らかの脳内反応を引き起こしていた。
「これは驚くべき発見です」彼は装置を外しながら言った。「この音は単なる音ではない。記憶を呼び起こすトリガーになっている」
「どういうこと?」
「人間の脳は、特定の音と感情を強く結びつけて記憶することがあります」鏡二は説明した。「この音は、過去の何らかの体験と関連づけられているようです」
シエラは震えるような寒気を感じた。「みんな、同じ体験をしたってこと?」
「可能性は高い」鏡二は頷いた。「1944年、この村で起きた出来事に関わっているのかもしれません」
その時、窓の外から教会の鐘が聞こえた。六時を告げる鐘の音は、いつもよりも重苦しく響いた。
「そういえば」シエラは思い出した。「今日は土曜日ですね」
「ええ」鏡二は時計を確認した。「ギルバート神父の行動を観察する絶好の機会です」
日が傾き始めると、二人は教会に向かった。神父はこの時間、必ず教会にいるはずだった。
教会は薄暮の中で黒々とした影を落としていた。石造りの壁には、夕陽の最後の光が斜めに差し込んでいた。内部はすでに薄暗く、ステンドグラスからの最後の光が床に色とりどりの模様を描いていた。
彼らが入ると、ギルバート神父が祭壇の前で祈りを捧げていた。床には聖書が開かれ、蝋燭の炎が揺らめいていた。
「失礼します」鏡二は静かに声をかけた。
神父は振り向いた。いつもの温厚な表情だったが、その目には一瞬、警戒の色が浮かんだように見えた。
「こんな時間に珍しい」
「お聞きしたいことがあって」鏡二は慎重に切り出した。「最近の出来事について」
「悲しいことです」神父は溜息をついた。「ウィロビーさんもクラークさんも、敬虔な方々でした」
「二人とも、最近特別な懺悔をされていたそうですね」
神父の表情が微かに強張った。「告解の内容はお話しできません」
「もちろんです」鏡二は頷いた。「ただ、何か共通点はありましたか?」
神父は長い沈黙の後、慎重に答えた。「過去の罪悪感に悩まされていました」
「具体的には?」
「戦時中の出来事についてです」神父は告解室の方を見た。「あの時代、誰もが何かを抱えています」
その時、教会の時計が七時を告げた。七回の重苦しい音が、天井高く響き渡った。
「申し訳ありません」神父は立ち上がった。「今から塔での祈りの時間なのです」
「塔?」シエラが尋ねた。
「はい」神父は微笑んだ。「毎週土曜日の習慣です」
神父は塔への階段を上り始めた。石段を上る足音が、重厚な空間に反響した。
二人は教会を後にした。外はすっかり暗くなっていた。
「怪しい」シエラは直感的に感じた。
「確かに」鏡二は頷いた。「しかし、まだ証拠は不十分です」
その晩、二人は異なる場所にいたが、同じ時刻に同じものを目撃した。
教会の塔から、かすかな光が漏れていた。そして、僅かな風に乗って、あの口笛の音が聞こえてきた。
シエラは窓際から、鏡二は庭から、その音を確認した。
翌朝、日曜日。
村は今までで最も重い緊張に包まれていた。人々は早朝から外出を控え、窓を閉め切った。
午前七時、教会の鐘が鳴った。いつもより早い時刻だった。
八時になっても、九時になっても、事件の報告はない。村人たちは安堵と同時に、不安を抱いていた。パターンが破れたことは、予測不能な何かが起こる兆候かもしれない。
午前中、シエラは鏡二の家を訪れた。
「誰も死んでいません」彼女は報告した。
「パターンの変化」鏡二は考え込んだ。「これは警告かもしれません」
「警告?」
「犯人が気づいた可能性があります」鏡二は説明した。「私たちの調査に」
その日の午後、重要な出来事が起きた。
村の郵便配達人トーマス・フィンチが、不眠を訴えて医院を訪れたのだ。
「先生」彼は疲れ切った表情で言った。「もう三日、まともに眠れない」
ペンス医師は診察を始めた。「症状は?」
「朝の三時頃、必ず目が覚める」トーマスは震えながら答えた。「そして、口笛が聞こえるんです」
医師は眉をひそめた。「ウィロビーさんやクラークさんと同じ症状です」
鏡二はこの情報をシエラから聞いて、即座に行動した。
「次の犠牲者かもしれません」
二人はトーマスの家を訪ねた。彼は六十五歳で、独身だった。簡素な家に一人暮らし。リビングには大量の本が積まれ、窓際には古びた双眼鏡が置かれていた。
「最近、何か特別なことはありましたか?」鏡二は尋ねた。
「特別なこと...」トーマスは考えた。「先週、ギルバート神父に呼ばれて、告解をしました」
シエラと鏡二は視線を交わした。
「どのような内容でしたか?」
「戦時中のことです」トーマスは顔を覆った。「もう忘れたいのに」
その夜、三人は口笛を聞いた。トーマスは自宅で、シエラは自室で、そして鏡二は書斎で。
しかし今回は、音のパターンが微妙に異なっていた。より複雑に、より不協和音を含んでいた。
翌朝、月曜日。
トーマスはさらに衰弱していた。目の下には深いクマがあり、手は絶えず震えていた。
「助けてください」彼は鏡二に懇願した。「この音が止まらない」
鏡二は催眠療法を提案した。「意識の深い部分に直接アプローチします」
トーマスは同意した。鏡二は彼を深い催眠状態に導いた。
「トーマスさん」鏡二は静かに尋ねた。「口笛の音は、いつから聞こえ始めましたか」
「三日前」トーマスは朦朧とした意識で答えた。「告解の後」
「何を告解したのですか」
トーマスの額に汗が浮かんだ。「1944年...8月...」
「何があったのですか」
「子供が...」トーマスは苦しみ始めた。「子供が消えた」
「どんな子供?」
「ドイツ人の...捕虜の子供」
鏡二は重要な手がかりを得た。催眠を解除すると、トーマスは何も覚えていなかった。
その日の夕方、鏡二はシエラに重要な発見を伝えた。
「1944年、この村で子供が消えました」
「誰の子?」
「ドイツ人捕虜の子供」鏡二は説明した。「おそらく、村の秘密の核心はそこにある」
二人は次の行動を計画した。
「明日、火曜日」鏡二は言った。「まず村の古い記録をもう一度調べましょう」
「村のアーカイブですね」
「そして、可能なら神父の行動を監視します」
その夜、村は完全な静寂に包まれた。しかし、教会の塔からは、僅かな光が漏れ続けていた。
鏡二は書斎で、音楽心理学の専門書を読み返していた。特定の音が、トラウマ的記憶と結びついて、人の精神を支配する可能性。
「音楽は時に、最も強力な心理操作の道具になる」彼は自分に言い聞かせるように呟いた。
窓の外では、霧が再び濃くなり始めていた。
次の日曜日まで、まだ六日。
しかし、村の空気は既に、差し迫った危機を告げていた。
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