第6話 村の封印
金曜日の午後、グレンミストは珍しくからりと晴れていた。しかし、村人たちの心には、天気とは裏腹に重い雲が垂れ込めていた。鷺沼鏡二とシエラ・スレイドは、村の外れにあるジョージ・ホプキンスの家に向かっていた。
ジョージ・ホプキンスは村の古老の中でも特に高齢で、八十五歳になろうとしていた。彼の家は古い木造建築で、外壁には長年の風雨に耐えた痕跡が刻まれていた。四十年以上前の戦争を知る数少ない人物として、村人たちからは敬意と共に、一定の距離を置かれていた。
門を開けると、中庭では白髪の老人が庭仕事をしていた。厚い眼鏡の奥の目が、訪問者を警戒するように見つめた。
「ホプキンスさん」鏡二は穏やかに声をかけた。「お話をさせていただけますか」
ジョージは手にしていた剪定はさみを置いた。「何の用だ」
「村の歴史について」鏡二は答えた。「特に戦時中の出来事について」
老人の表情が硬くなった。「古い話は聞かせられない」
シエラは前に出た。「お願いします。最近、村で起きていることと関係があるかもしれないんです」
ジョージは二人を見回した。「お前さんは...スレイドの娘か」
「はい」
老人は深く息を吐いた。「入りなさい」
彼らは古ぼけた居間に案内された。暖炉には写真が飾られ、本棚には古い書籍が並んでいた。部屋の空気には、長年の記憶と秘密が染み込んでいるようだった。
「お茶でも飲みなさい」ジョージは言った。「話は後だ」
彼は手慣れた様子で紅茶を準備した。ポットから湯気が立ち上り、アールグレイの香りが部屋に漂った。湯気の立つカップを二人に配ると、彼自身も古びたアームチェアに腰を下ろした。
「さて」ジョージはゆっくりと話し始めた。「何が知りたい」
鏡二は慎重に言葉を選んだ。「1940年代、この村で何か特別なことは起きなかったでしょうか」
老人は長い沈黙の後、答えた。「戦争中、村には秘密があったな」
「どのような?」
「言えん」ジョージは首を振った。「村を守るための約束だ」
「約束?」シエラは前のめりになった。
「戦争が終わったとき」ジョージは遠い目をした。「村の大人たちは皆で誓った。過去は過去として封印すると」
鏡二は深く理解していた。「集団的な沈黙」
「そうだ」ジョージは頷いた。「そうすることが、村のためだった」
その時、シエラの目が暖炉の写真に止まった。幾つかの古い写真の中に、特に目を引くものがあった。背広を着た男たちに混じって、聖職者らしき人物が写っていた。
「この写真は?」彼女は尋ねた。
ジョージは目を細めた。「聖歌隊特別練習、1943年だ」
鏡二は写真に近づいた。「特別練習とは?」
「ああ」ジョージは茶を一口飲んでから説明した。「戦時中、村には特別な任務があってな。音楽も、その一部だった」
写真の中には確かに、最近亡くなったウィロビー夫人やクラーク氏の若き日の姿があった。若々しい笑顔の彼らは、悲劇がこの先に待っていることなど知る由もなかった。そして、一人の見慣れない男性も写っていた。中背の男で、きつい眼光を持ち、一人だけカメラを直視していた。
「この方は?」鏡二は指差した。
ジョージの表情が一瞬、曇った。「アーサー・グッドマン。彼が...」
「彼が?」
老人は深く息を吸い込んだ。「いや、何でもない」
鏡二は写真をさらに注視した。グッドマンの隣には、今のギルバート神父によく似た若い男性が写っていた。明らかに若き日の神父だった。
「この方は?」
「ギルバート」ジョージは短く答えた。「今の神父だ」
シエラは驚いた。「神父もいたんですか」
「ああ」ジョージは頷いた。「彼はもう七十を超えているが、今も元気だ。長い間、この村で暮らしている」
その時、玄関の戸が開く音がした。
「ホプキンスさん、いらっしゃいますか」
シエラの母親、エイミー・スレイドの声だった。
「ああ、エイミーか」ジョージは答えた。「入りなさい」
エイミーは居間に入ってきて、娘を見て眉をひそめた。彼女の顔色は青ざめていた。
「シエラ、何をしているの」
「古いことについて聞いていたの」
エイミーは明らかに動揺していた。「帰りましょう、シエラ」
「でも、お母さん」
「今すぐよ」エイミーは娘の腕を掴んだ。
鏡二は冷静に介入した。「少し落ち着いてください」
エイミーは彼を睨みつけた。「あなたがシエラを巻き込むから」
「私は何も巻き込んでいません」鏡二は穏やかに答えた。「シエラさんは自分で選択しています」
ジョージは場を取り持とうと試みた。「エイミー、そう興奮するな」
しかし、エイミーの表情は変わらなかった。「ホプキンスさん、私の娘をこれ以上、過去の泥沼に引きずり込まないでください」
「お母さん!」シエラは抗議した。
エイミーは娘を連れて帰ろうとしたが、その時、彼女が口にした言葉は重大だった。
「あの人たちに近づくな、シエラ」
「あの人たち?」シエラは尋ねた。
「過去を掘り返す人たち」エイミーは悲痛な表情で答えた。
鏡二は注意深く観察していた。エイミーの反応は、単なる心配以上のものを示していた。彼女もまた、何かを知っているようだった。
結局、シエラは母親に連れて帰られた。鏡二は一人、ジョージと向き合った。
「すみません」ジョージは謝った。「エイミーは心配性でね」
「当然の反応でしょう」鏡二は理解を示した。「しかし、何か重要な情報を隠されていることは分かります」
老人は深い溜息をついた。「知ることが幸せとは限らない」
「それでも知らなければならないこともあります」鏡二は静かに答えた。
ジョージは暫く沈黙した後、ポツリと言葉を漏らした。「1944年の8月...村は音に包まれていた」
「音?」
「口笛だ」ジョージは搾り出すように答えた。「毎晩、教会から聞こえた」
鏡二は身を乗り出した。「今、村で起きていることと同じ音ですか?」
老人は頷いたが、それ以上は語らなかった。
その夜、シエラは家で混乱していた。母親の異常な反応、父親の秘密、そして村全体を覆う不気味な雰囲気。
「お母さん」シエラは夕食の席で尋ねた。「なぜそんなに怖がってるの」
エイミーは静かに答えた。「歴史には、触れてはならない部分がある」
「でも、人が死んでるの」
「だからこそよ」母親は娘の手を握った。「これ以上、犠牲者が出ないように」
ハロルドは黙って食事をしていたが、明らかに緊張していた。フォークを持つ手が微かに震えていた。
翌日、土曜日。村には奇妙な空気が漂い始めていた。
特に注目すべきは、村で最も敬虔な信者として知られるマーサ・ウィリアムズ夫人の行動だった。八十一歳の彼女は、毎日欠かさず教会に行く習慣があったが、この日は様子が違った。
「先生」シエラは興奮気味に鏡二に報告した。「ウィリアムズ夫人が変なんです」
「どのように?」
「朝から、ずっと口笛を吹いているみたい」
鏡二は即座に反応した。「どんな口笛ですか」
「同じパターンの繰り返し」シエラは説明した。「上がって、下がって...」
二人は即座にウィリアムズ夫人の家に向かった。薔薇の庭で有名な彼女の家は、普段は手入れが行き届いているが、今日は様子が違った。
老婦人は庭で一人、揺り椅子に座っていた。確かに、口笛の音が聞こえた。シエラが聞いたのと全く同じパターンの音が、彼女の口から繰り返されていた。
「ウィリアムズ夫人」鏡二は慎重に声をかけた。
彼女は振り向いたが、その目は虚ろだった。瞳孔が広がり、焦点が合っていない。
「美しい音楽ね」彼女は夢見心地に言った。「昔、教会で聴いた...」
鏡二はすぐに彼女の症状を理解した。催眠状態だ。
「いつからこの音楽が聴こえますか」
「昨夜から」彼女は微笑んだ。「美しい夢を見たの。若かった頃に戻った夢」
「どんな夢ですか」
「教会で歌った歌」彼女は続けた。「みんなで輪になって...でも、何か恐ろしいことも起きて...」
その瞬間、彼女は震え始めた。「いいえ、言えない。約束したから」
鏡二は静かに問いかけを続けた。「その約束は、誰としたのですか」
彼女は答えずに、再び口笛を吹き始めた。同じパターンが、果てしなく繰り返される。
二人は彼女を一人にして、その場を離れた。
「大変です」シエラは心配した。「彼女も...」
「まだ分かりません」鏡二は考え込んだ。「しかし、何かの引き金が引かれた可能性があります」
村に戻ると、人々の間に不安の声が広がっていた。
「ウィリアムズ夫人が口笛を吹いているらしい」
「不吉な前兆だ」
「次の日曜日、また誰かが...」
恐怖は伝染するように、村全体に広がっていった。パブでは、古い話が蘇り始めていた。
「1944年の夏に、確かに何かが起きた」
「誰も正確なことは知らない」
「いや、知っている人はいる。ただ、口を閉ざしているだけだ」
その日の夕方、鏡二は重要な発見をした。古い村の記録を整理している最中、1944年8月15日の日付を発見したのだ。
「8月15日」彼は呟いた。「日本の終戦記念日」
しかし、ここ英国での重要性は何だろうか。
シエラも一緒に調べていた。「先生、見て」
彼女が示したのは、古い教会の記録だった。そこには「Special Service - 1944.8.15」と記されていた。
「特別礼拝...」鏡二は考えた。
図書館の古い記録の中には、その日に関する奇妙な記述があった。「村は完全な静寂に包まれた。しかし、教会からは美しい歌声が聞こえた」
その晩、村のパブではひそひそと、昔の話が交わされていた。
「あの夏の夜、村中の人が集まって何かを誓ったそうだ」
「誰か一人でも破ったら、村は呪われると」
「それから毎年、口笛の音を聞くという話をする者がいた」
日曜日が近づくにつれ、村の緊張は高まっていった。特に、チャペルヒルドの丘に建つ古い教会には、誰も近づこうとしなくなった。
シエラの父ハロルドも、いつになく険しい表情を浮かべていた。
「約束というものは」彼は夕食の席で独り言のように言った。「時に人を救い、時に人を滅ぼす」
エイミーは不安そうに夫を見つめた。
「ハロルド...」
「大丈夫だ」彼は答えた。「ただ、古い傷が疼くだけだ」
その夜、シエラは再び父親の書斎から、あの口笛を聞いた。今回は、より長く、より哀しげな音色だった。彼女は廊下に出て、扉の前に立った。中から漏れる弱い光に、父親の影が揺れている。
彼女は決意した。次の日曜日まで、あと一日。真実に一歩でも近づかなければ。
月曜日の早朝、村は再び霧に包まれた。しかし、今回の霧には何か違いがあった。より重く、より濃密で、まるで村全体を封印しようとしているかのようだった。
教会の鐘は、いつもより長く、その音を響かせた。七回の鐘の音は、まるで警告のようにも聞こえた。
人々は祈りのように、同じ言葉を繰り返した。
「次の日曜日、何も起きませんように」
しかし、誰もがそれが叶わないことを、心の底では知っていた。
時の車輪は、確実に運命の方向へと回り続けていた。
村は過去の影に包まれ、封印は徐々に綻び始めていた。
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