第5話 記憶と暗示
水曜日の朝、グレンミストの霧はいつになく深かった。鷺沼鏡二は、村の老人ホーム「セントマーガレット」を訪ねた。この施設は、古いマナーハウスを改装したもので、村の高齢者が余生を過ごす場所だった。
「アリス・ブラウンさんと面会したいのですが」鏡二は受付で申し出た。
看護士は名簿を確認した。「ブラウンさんは、午前中は比較的しっかりされています。ただ、最近少し落ち着きがなくて...」
「ありがとうございます」
鏡二は廊下を歩きながら、壁に飾られた古い写真に目を向けた。1940年代から50年代の村の写真が並んでいた。その中に、若き日のアリス・ブラウンの写真も含まれていた。教室で生徒たちに囲まれた彼女は、優しげな微笑を浮かべていた。
アリス・ブラウンの部屋は、窓際にあった。九十歳を超える彼女は、車椅子に座り、霧に霞む景色を眺めていた。
「ブラウンさん」鏡二は優しく声をかけた。「鷺沼です。少しお話をさせていただけますか」
アリスはゆっくりと振り向いた。濁った目が、鏡二を捉えた。
「あら、先生」彼女は微笑んだ。「久しぶり」
鏡二は適当な椅子を引き寄せ、彼女の前に座った。
「1940年代のこの村について、お聞きしたいのです」
アリスの表情が一瞬、硬くなった。「古い話ですね」
「最近の出来事と関係があるかもしれません」鏡二は慎重に言葉を選んだ。「ウィロビーさんやクラークさんの...」
「ああ」アリスは深く息を吸い込んだ。「また始まったのね」
「また?」
アリスは窓の外を見つめた。「30年前のことですね。特に1944年のことは...」
その瞬間、彼女の呼吸が変化した。まるで、口笛を吹こうとするような、特徴的な息遣いになった。
「フゥー...フゥー...」
鏡二は即座に気づいた。それは、シエラが聞いたという口笛と同じパターンだった。
「ブラウンさん」彼は落ち着いた声で尋ねた。「今、何を思い出していますか」
アリスは震えていた。「日曜日の朝...教会で...」
彼女は口ごもり、言葉を切った。
「教会で何があったのですか」
「言えない」アリスは首を振った。「約束したから」
「誰と?」
「私たちみんなで」彼女は涙ぐんだ。「村のために」
鏡二は別のアプローチを試みた。「最近、村で口笛の音を聞いた方がいるそうですね」
アリスは急に興奮した。「聞こえたの? また聞こえたの?」
「ええ」
「ダメ」彼女は両手で耳を塞いだ。「あの音を聞いてはダメ」
鏡二は立ち上がり、窓際に行った。「なぜですか」
「あの音は...人を...」アリスは震えながら続けた。「人の心を操るから」
訪問を終えた鏡二は、老人ホームの外でシエラと合流した。彼女は学校から直接来ていた。
「先生、聞いてください」シエラは興奮気味に言った。「学校で聞いたんです」
「何を?」
「友達が言ってたんです。30年前、この村で子供が消えたって」
鏡二は考え込んだ。「詳しく教えてください」
「1944年の夏だって。戦争で混乱してたから、ちゃんと調べられなかったんだけど」
二人は鏡二の家に向かった。書斎で、鏡二はシエラに重要なことを説明し始めた。
「シエラさん、人の記憶というものは、非常に複雑で操作されやすいものなんです」
「操作?」
鏡二は本棚から一冊の専門書を取り出した。「記憶は、事実を録音するテープレコーダーではありません。むしろ、語り手によって編集される物語のようなものです」
「どういうことですか?」
「例えば」鏡二は説明した。「トラウマ的な出来事の記憶は、無意識のうちに改変されることがあります。心が自分を守るために、事実を歪めたり、隠したりするのです」
シエラは真剣に聞き入った。
「また」鏡二は続けた。「外部からの暗示によっても、記憶は変化します。特に、特定の音や匂い、視覚的な刺激と結びついた暗示は、強力な効果を持ちます」
「アリス先生が見せた反応も?」
「そうです」鏡二は頷いた。「彼女の反応は、音による暗示の典型的な症状でした」
その時、鏡二は重要な提案をした。
「シエラさん、あなたが聞いた口笛の音を、もう一度ピアノで再現してみませんか」
二人はグランドピアノに向かった。
「前回よりも、もっと正確に再現したいのです」鏡二は言った。
シエラは集中した。「最初の音は、ここから...」
彼女は高音域の一つの鍵盤を指差した。鏡二はそれを弾いた。
「違います。もう少し短く」
鏡二は音の長さを調節した。
「いいです。次は下降」
鏡二は音階を下りながら弾いた。
「もう少しゆっくり」
試行錯誤を繰り返すうち、あの不気味な旋律が再び書斎に響いた。
「これです」シエラは確認した。
鏡二は同じパターンを何度も弾いた。そのたびに、何か奇妙な感覚が部屋に漂った。
「この音の組み合わせは」鏡二は楽譜に書き留めながら言った。「短調の特定の音程関係を使用しています」
「特別なの?」
「ある研究では」鏡二は説明した。「この特定の音程配列は、聴く者に不安や憂愁を引き起こすことが報告されています」
シエラは震えるような寒気を感じた。
「さらに」鏡二は続けた。「この音は、無意識の領域に直接作用する可能性があります」
「だから、夜中に聞くと怖いんですね」
「おそらく」鏡二は考え込んだ。「これは意図的に設計された音のパターンかもしれません」
ピアノから離れ、二人は再び古い新聞記事を広げた。
「1944年」鏡二は年代を確認した。「この年に、村で重大な事件が起きた」
「消えた子供と関係が?」
「可能性はあります」
鏡二は机の引き出しから、自分の古い手帳を取り出した。
「私が初めてこの村に来た時」彼は振り返った。「村の人々は、戦争について語りたがりませんでした」
「普通じゃないんですか?」
「程度の問題です」鏡二は説明した。「この村の沈黙は、異常でした。まるで、全員が同じ秘密を共有している感じでした」
シエラは考えた。「暗示によって、記憶を操作されていた?」
「可能性はあります」鏡二は頷いた。「集団に対して暗示をかけることは、専門的な技術があれば可能です」
その時、ドアベルが鳴った。
「期待していない訪問者です」鏡二は不審がった。
扉を開けると、ハロルド・スレイドが立っていた。彼の表情は昨日よりもさらに厳しかった。
「娘はここにいるか」
「はい」鏡二は答えた。
「連れて帰る」ハロルドは押し入ろうとした。
「お父さん」シエラが現れた。「何しに来たの?」
「家に帰れ」ハロルドは娘の腕を掴んだ。「今すぐだ」
鏡二は冷静に介入した。「話し合いが必要ではありませんか」
「あなたと話すことはない」ハロルドは怒りをあらわにした。
「なぜそんなに怒ってるの?」シエラは尋ねた。
ハロルドは言葉に詰まった。「...お前は分かっていない」
「何が?」
「この村の...」彼は口ごもった。「いや、もういい」
シエラは必死に考えた。「お父さん、『赤い絵と鳥の影』って何?」
その言葉は、ハロルドを凍り付かせた。
「どこでその言葉を...」
「クラークさんが残したメモに」
ハロルドは深く息を吸い込んだ。「忘れろ」
「なぜ?」
「お前のためだ」彼は悲痛な表情で言った。「過去を掘り返すな」
その時、鏡二は重要な質問をした。
「スレイドさん、1944年に何が起きたのか、ご存知ですか」
ハロルドは彼を睨みつけた。「知らない」
「本当に?」
「...知らない」ハロルドは繰り返した。
しかし、その言葉は嘘のように聞こえた。
ハロルドは娘を連れて帰ろうとしたが、シエラは抵抗した。
「お父さん、本当のことを教えて」
「これ以上は無理だ」ハロルドは諦めた表情になった。「好きにしろ」
彼は一人で帰っていった。
残された二人は、沈黙の中で考えた。
「父親のことを心配しています」鏡二は言った。
「私も」シエラは頷いた。「でも、どうしたらいいか分からない」
その夜、シエラは家で母親と話した。
「お母さん、お父さんのこと心配」
エイミー・スレイドは娘を抱きしめた。「私も」
「何か知ってるの?」
母親は長い沈黙の後、小さな声で答えた。「シエラ、時には知らない方がいいこともあるの」
「でも—」
「お父さんを信じて」エイミーは言った。「彼は、私たちを守ろうとしているの」
その夜中、シエラは再び口笛を聞いた。
今度は、父親の書斎から確実に聞こえた。
彼女は廊下に出て、書斎の前で立ち止まった。扉の隙間から、微かな明かりが漏れている。
中では、ハロルドが何かを口ずさみながら、書類を整理しているようだった。
その口ずさみは、まさにシエラが聞いた口笛と同じパターンだった。
翌朝、シエラは鏡二にこれを報告した。
「確信が持てました」鏡二は深刻な表情で言った。「この音は無意識に人の行動を支配します」
「でも、どうやって?」
「1944年、この村で何か心理実験が行われた可能性があります」鏡二は考えながら答えた。「音による暗示を使った実験かもしれません」
シエラは今理解したことに恐怖した。「みんな、今でもその暗示にかかってるってこと?」
「可能性はあります」鏡二は頷いた。「特に、その実験に関わった人々は」
その日の午後、鏡二はシエラに特別なテストを提案した。
「先程お聞かせした音楽パターンを、違う方に聞かせたらどう反応するか確認したいのです」
「誰に?」
「村の人々に」
二人は村の中心部に行き、何人かの老人たちに口笛の音を聞かせてみた。
結果は驚くべきものだった。
音を聞いたほとんどの年配者が、同じような反応を示した。呼吸が浅くなり、手が震え、額に汗がにじんだ。
ある老人は恐怖に駆られて、「もう聞かせないでくれ」と懇願した。
「これは確信できました」鏡二は言った。「村の高齢者たちは、確かにこの音によって心理的トラウマを抱えています」
しかし、ギルバート神父に音を聞かせた時、彼の反応は異なった。
「美しい旋律ですね」神父は平然と笑顔を浮かべた。「どのような楽曲でしょうか」
鏡二はその反応に注目した。「ご存知ありませんか」
「いいえ」神父は首を振った。「ただ、少し古い賛美歌に似ている気がします」
シエラも鏡二も、神父が嘘をついているとは断定できなかった。
しかし、不審を抱いたのは確かだった。
その日の夕方、二人は重要な決断をした。
「次の日曜日」鏡二は言った。「何かが起こる可能性が高い」
「どうすればいいですか」シエラは尋ねた。
「監視します」鏡二は答えた。「特に、教会と村の中心部を」
「私にできることは?」
「注意深く観察してください」鏡二は言った。「特定の行動パターンや、音に対する人々の反応を」
シエラは頷いた。彼女の中で、探偵としての本能が研ぎ澄まされ始めていた。
その夜、空には満月が浮かんでいた。霧は珍しく薄く、月明かりが村全体を優しく照らしていた。
しかし、その美しい光景とは裏腹に、村には不穏な緊張が漂っていた。
人々は早くから家に閉じこもり、できるだけ音楽や音に触れないよう心がけていた。
特に、若い母親たちは子供たちに「口笛を吹かないように」と厳しく言い聞かせていた。
村の空気は、再び重くなり始めていた。
次の日曜日まで、あと四日。
時計は確実に、運命の時に向かって刻み続けていた。
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