第3話 第二の日曜日


一週間が経過した。グレンミストの日々は、表面上は平穏に流れていた。しかし、村人たちの間には、ウィロビー夫人の死以来漂い始めた不安が、霧のように徐々に濃さを増していた。


そして、再び日曜日の朝がやってきた。


時計の針が午前七時を指す頃、教会の鐘が鳴り響いた。しかし、今朝の鐘の音は、先週と微妙に異なっていた。まるで鐘自体が不安を感じているかのように、どこか歪んで聞こえた。


シエラ・スレイドは、自室のベッドで目を覚ました。窓の外では、予想通り濃厚な霧が村を包んでいた。彼女は時計を確認しながら、先週の日曜日に聞いたあの口笛のことを思い出していた。


口笛は今朝も聞こえた。午前五時頃だった。シエラは正確な時刻を覚えている。なぜなら、あの音で目が覚めたからだ。今回は前回よりも長く続いた。上昇音、下降音、そして沈黙。それが三回繰り返された。


朝食の席で、シエラは両親に告げた。


「今朝も聞こえたの。口笛が」


ハロルド・スレイドは新聞から目を上げ、娘を鋭く見つめた。「またその話か」


「本当なの」シエラは冷静に答えた。「鷺沼先生も信じてくれた」


「あの日本人に何を話したんだ?」父親の口調に怒りが混じった。


「口笛のこと。そしたら、音楽と心理学の関係を教えてくれた」


「いいか、シエラ」ハロルドは前のめりになった。「あの人には近づくな。村のことを知りすぎている」


「何を知ってるっていうの?」


「お前には関係ない」父親は冷たく答えた。「教会に行く準備をしなさい」


しかし、その朝、教会への道のりは、いつもとは大きく異なっていた。


村の中心部、クラーク家の前に警察の車両が停まっていた。数人の警官が慌ただしく出入りし、周囲には心配そうな村人たちが集まり始めていた。


バロウズ警部が姿を現し、開口一番こう言った。


「エドワード・クラーク氏、六十五歳。今朝、自宅で亡くなっているのが発見された。状況から、自殺と見られる」


村人たちの間に、恐怖の囁きが広がった。


「また日曜日に...」

「ウィロビー夫人に続いて...」

「続くかもしれない」


シエラは群衆の中に、鷺沼鏡二の姿を見つけた。彼は少し離れた位置から、静かに状況を観察していた。彼の手にはいつもの黒い手袋がはめられ、表情は変わらず穏やかだが、その目には鋭い光が宿っていた。


シエラは彼の側に寄り、小声で囁いた。


「今朝も聞こえたんです。口笛が」


鏡二は軽く頷いた。「何時頃?」


「五時くらい。三回繰り返されました」


「同じパターン?」


「はい。でも、今回は少し音が長かったような...」


鏡二は周囲を確認してから、シエラに言った。「警部が現場検証を終えたら、少し観察させてもらえるか確認してみます」


バロウズ警部は、いつもと同じく結論を急いでいた。「明白な自殺だ。クラーク氏は薬剤師だった。毒物の知識も豊富だった。最近、抑うつ傾向があったという証言もある」


「お待ちください」鏡二が進み出た。「もう少し、現場を確認させていただけませんか」


警部は眉をひそめた。「あなたは?」


「鷺沼と申します。医師です」


「医者なら、法医学者ではないでしょう」警部は冷たく答えた。「警察の仕事には干渉しないでください」


しかし、クラークの妻メアリーが泣きながら言った。「先生、お願いします。主人を見てください。何かがおかしいんです」


警部は仕方なく譲歩した。「五分だけです」


鏡二はシエラを伴って、クラーク家に入った。薬局を兼ねた住宅は、薬品の匂いに満ちていた。リビングには数冊の本が散乱し、椅子が一脚倒れていた。


二階の書斎では、エドワード・クラークが机に伏せて息絶えていた。彼の手には一冊の本が握られており、顔色は病的に白かった。窓は堅く閉ざされ、薬品の空き瓶が机の上に転がっていた。


鏡二は慎重に近づき、クラークの様子を観察した。


「手の筋肉の状態を見てください」彼はシエラに小声で指摘した。「普通の毒物死とは異なる痙攣パターンです」


シエラは恐る恐る覗き込んだ。確かに、クラークの手は奇妙に捻れていた。


「顔の表情も」鏡二は続けた。「恐怖というより、深い悲しみを湛えている」


その時、シエラの目が床の隅に止まった。「先生、あれ」


小さな紙片が、暖炉の近くに落ちていた。鏡二はそれを拾い上げた。


楽譜の断片だった。五線譜に音符が書かれており、マージンには赤いインクで「Remember」という文字が記されていた。


鏡二は眼鏡を掛け直し、楽譜を精査した。その目が鋭く光った。


「これは...」彼は声を潜めた。「先日あなたが聞いた口笛と同じパターンの楽譜です」


シエラは息を呑んだ。「本当?」


「ええ。音程も、リズムも一致します」


バロウズ警部が部屋に入ってきた。「時間です。外に出てください」


鏡二は楽譜の断片を見せた。「これは重要な証拠かもしれません」


警部は一瞥しただけで言った。「ただの紙切れでしょう。クラーク氏は音楽愛好家でした」


外に出ると、村人たちが固まって話していた。その会話の中に、シエラは聞き逃せない言葉を見つけた。


「私も聞いたの、今朝」一人の老婦人が言った。「口笛のような音」


「私もよ」もう一人が答えた。「五時頃」


「不吉だわ」三人目が震えながら言った。「二週連続で日曜日に...」


鏡二はシエラに目配せし、二人は話し合いに加わった。


「どのような音でしたか?」鏡二は老婦人たちに尋ねた。


「高くて、低くて、また高く」一人が説明した。


「悲しい音だった」もう一人が補足した。


シエラは確認した。「上がって、下がって、また上がる?」


「そうそう、そんな感じ」


鏡二は深刻な表情になった。音を聞いた証人が増えていることは、何かが確実に起こっていることを意味していた。


メアリー・クラークが家から出てきた。目は涙で真っ赤だった。


「先生」彼女は鏡二に訴えた。「主人は最近、おかしかったんです。不眠症で、毎晩悪夢を見ていました」


「どのような悪夢でしたか?」


「戦争の夢だと言っていました。でも、主人は戦争に行ってません。医療従事者でしたから」


鏡二は考え込んだ。戦争。ウィロビー夫人も戦争について語っていたという話があった。


「お聞きしたいのですが」鏡二は慎重に尋ねた。「ご主人は最近、特定の本を読んでいませんでしたか?」


メアリーは頷いた。「書斎の本棚から、何冊か持ち出していました。戦時中の村の記録とか」


鏡二とシエラは許可を得て、クラークの書斎を再び訪れた。本棚を調べると、確かに隙間があった。


「『グレンミスト戦時記録』」シエラは空いたスペースのラベルを読んだ。「『1940-1945年の地域住民記録』」


「これらの本は、村の図書館にありますか?」鏡二は確認した。


「分からないけど...」シエラは考えた。「図書館に行って確認できます」


警察が現場検証を終え、遺体が運び出される頃には、村人たちの不安は頂点に達していた。


「次の日曜日は誰が...」という囁きが、霧の中に漂っていた。


その日の午後、シエラは約束通り鏡二の書斎を訪れた。二人は楽譜の断片と、口笛の音の関係について話し合った。


「確信が持てました」鏡二は言った。「この音のパターンは偶然ではない。何者かが意図的に使用している」


「でも、誰が? どうやって?」


「分かりません」鏡二は考え込んだ。「しかし、この音には人の心理に影響を与える力がある。それは科学的に証明されています」


シエラは思い出した。「クラークさんの奥さんが言ってた。最近、夫が戦争の悪夢を見ていたって」


「戦争...」鏡二は古い新聞記事を取り出した。「この村には隠された過去がある」


「どんな?」


「まだ全容は分かりません」鏡二は慎重に答えた。「しかし、1944年から1945年にかけて、この村で何か重要な出来事があった」


日が傾き始めた頃、シエラは家に帰らなければならなくなった。別れ際、鏡二は彼女に言った。


「次の日曜日まで一週間です。もし本当にパターンがあるなら、再び何かが起こる可能性がある」


「怖いです」シエラは正直に告白した。


「恐れることは悪いことではありません」鏡二は穏やかに言った。「それは警戒心を高め、危険から身を守ることにつながります」


その夜、村には異様な静けさが漂っていた。いつもの霧は相変わらず濃く、しかし人々の心には、霧よりも深い不安の影が押し寄せていた。


各家庭では、明かりが早めに消され、人々は不眠の夜を迎えることになった。特に、村の高齢者たちは戦時中の記憶に苦しめられ、悪夢に悩まされた。


シエラの家でも、雰囲気は重かった。


「シエラ」母親のエイミーが不安そうに言った。「あまり事件に関わりすぎないで」


「でも、口笛は本当に聞こえるの」


「分かってる」エイミーは娘を抱きしめた。「でも、村には触れてはいけない過去がある」


「お母さんも知ってるの?」


エイミーは一瞬、言葉に詰まった。「...古い話よ。もう忘れられているはずの」


翌朝、シエラは学校の図書館を訪れた。司書のミス・ブラウンに尋ねると、『グレンミスト戦時記録』は既に貸し出されていた。


「誰に?」


「エドワード・クラークさんですよ」ブラウンは答えた。「先週の火曜日に」


シエラは凍り付いた。クラークが亡くなる五日前だ。


その日の放課後、シエラは鏡二にこの発見を報告した。


「やはり」鏡二は考え深げに言った。「犠牲者たちは、何かを調べていた」


「でも、何を?」


「それが分かれば、すべてが見えてくるかもしれません」鏡二は立ち上がった。「図書館に本が戻るのを待つより、村の古老に直接話を聞くべきかもしれません」


「誰に?」


「アリス・ブラウン」鏡二は考えながら答えた。「彼女は戦時中、この村で教師をしていた。今は老人ホームにいます」


翌日、水曜日の午後、シエラと鏡二は村の老人ホームを訪れた。アリス・ブラウンは九十歳を超え、車椅子で生活していたが、頭ははっきりしていた。


「30年前のことですね」彼女は二人の質問に答えた。「あの頃の村は...」


突然、彼女は口笛のような呼吸音を出し始めた。


「大丈夫ですか?」シエラは心配した。


アリスは目を見開き、恐怖に染まった表情で言った。「聞こえる... あの音が」


「どんな音?」鏡二は優しく尋ねた。


「日曜日の朝... 教会で」


「教会?」


しかし、アリスは首を横に振り、黙り込んでしまった。「言えない。約束したから」


何度か質問を試みたが、彼女はそれ以上語ろうとしなかった。


老人ホームを出ると、外は既に薄暗くなっていた。


「何か隠している」シエラは言った。


「ええ」鏡二は頷いた。「村全体が、何かを隠そうとしている」


帰り道、二人は教会の前を通りかかった。古い石造りの教会は、夕闇の中でさらに重々しく見えた。


「教会...」シエラは呟いた。「アリス先生が言っていた」


「日曜日の朝」鏡二が加えた。「二人の死が起きた時間帯です」


その時、教会の中から音楽が聞こえてきた。パイプオルガンの深い音色。しかし、その中に—


「先生」シエラは緊張した。「聞こえました?」


鏡二は息を止めて耳を澄ませた。「はい。オルガンの音に混じって...」


口笛のような音が、確かに聞こえた。


二人は教会に近づいた。扉は少し開いていた。中を覗くと、ギルバート神父がオルガンを弾いていた。


彼は二人に気づき、演奏を止めた。


「いらっしゃい」神父は穏やかに言った。「祈りの時間ですか?」


「いいえ」鏡二は答えた。「美しい音楽に惹かれて」


神父は微笑んだ。「音楽は魂を癒します」


「先ほどの曲は?」


「古い賛美歌です」神父は楽譜を示した。「この村の伝統的な」


鏡二は楽譜を見て、表情を変えた。その楽譜には、シエラが聞いた口笛と同じパターンが含まれていた。


外に出ると、霧は一層濃くなっていた。


「偶然でしょうか」シエラは不安そうに尋ねた。


「分かりません」鏡二は答えた。「しかし、調べる価値はあります」


その週の残りの日々は、村全体が不安の中で過ごされた。特に高齢者たちは、戦時中の記憶に悩まされ、医者に睡眠薬を求める人が増加した。


村唯一の総合医、ペンス医師は語った。「最近、不眠症の患者が増えている。みな、悪夢を見ると言っています」


「どのような悪夢ですか?」


「戦争の記憶です。でも、彼らは戦争に行っていない。ここで何かがあったんでしょう」


金曜日、シエラは再び口笛を聞いた。今回は昼間、学校の帰り道でだった。


慌てて鏡二の家に駆け込んだ。


「今度は昼間です!」彼女は息を切らして報告した。


鏡二は厳しい表情になった。「パターンが変化している。これは警告かもしれません」


「警告?」


「次の日曜日が近づいているからです」


週末が来た。土曜日の夜、村は異常なほど静まり返っていた。人々は早くから家に閉じこもり、日曜日の朝が来ることを恐れていた。


シエラは眠れなかった。窓の外を見つめ、霧の中に何か動くものがないか確認し続けた。午前三時を過ぎた頃、彼女は再び口笛を聞いた。


今度は違った。


音は一つではなく、複数だった。まるで合唱のように。


シエラは起き上がり、窓際に寄った。


遠くの教会の方角から、複数の口笛が聞こえる。それは不気味な和音を奏でながら、村全体を震わせているような錯覚を起こさせた。


翌朝、日曜日。


午前七時、教会の鐘が再び鳴った。


村人たちは恐怖に震えながら、外の様子を窺った。


誰が次の犠牲者になるのか。


霧は今までで最も濃く、数メートル先の視界も効かない状態だった。


しかし、まだ誰も死んでいなかった。


人々は安堵と同時に、さらなる不安を抱えていた。パターンが破れたことは、予測不能な何かが起ころうとしている兆候かもしれない。


その日の午後、村には奇妙な緊張が漂っていた。


次の日曜日まで、まだ一週間ある。


しかし、何かが確実に変化していた。


音は、もはや単なる音ではなくなっていた。


それは村人たちの心に深く浸透し、過去の記憶を呼び覚まし、未来への恐怖を増幅させていた。


霧の中で、村は震えていた。


次に何が起こるのか、誰にも分からなかった。

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