第2話 沈黙の老医師
朝の霧が薄らぎ始めた火曜日の午後、鷺沼鏡二は書斎の重厚な机に向かっていた。ここは時代が止まったかのような空間だった。
天井まで届く本棚には、医学書、精神病理学の専門書、心理学研究論文集が整然と並び、その間に古びた楽譜が壁一面を埋め尽くしていた。モーツァルト、バッハ、ドビュッシー——それぞれの楽譜には赤いペンで精密な書き込みがあり、特定の音符には重要性を示す印がつけられている。
窓際の巨大なオーク材の机には、1944年から1945年にかけての古い新聞記事が整理され、几帳面に日付順に並べられていた。黄ばんだ紙面には「SECRET GERMAN POW CAMP IN COUNTRYSIDE」「PSYCHOLOGICAL WARFARE RESEARCH」という見出しが躍り、下には捕虜収容所の写真が掲載されていた。鏡二は銀縁の眼鏡越しに、虫眼鏡を手に、その記事を注意深く読み込んでいた。
彼の背景は村人の間で伝説となっていた。四十年前、精神医学研究のためロンドン大学に留学した若き日本人医学生。その後、英国王立精神科医協会の若手研究者として頭角を現し、特に「音楽と精神の関係性」について革新的な論文を発表した。しかし、何か決定的な出来事があった後、グレンミストの静かな村に移り住み、今では隠遁生活を送っている。
書斎の壁には、王立協会からの名誉賞状、ロンドン大学の特別教授証、複数の医学賞の盾が掲げられていた。しかし、鏡二自身はそれらを見ることすらせず、ただ古い記事と向き合っていた。
午後三時を過ぎた頃、控えめなノック音が静寂を破った。
三回の軽いノック。短い沈黙の後、また三回。まるで音楽のリズムのような規則性を持った音だった。
「どなたですか」鏡二は古い新聞から視線を上げ、静かに尋ねた。
「昨日お話しした、シエラ・スレイドです」少女の澄んだ声が答えた。「口笛のことで... もう少しお話を聞いていただけますか」
鏡二は眼鏡を外し、丁寧に拭いてから机に置いた。そして、ゆっくりと立ち上がった。白いシャツの袖口から、いつも着用している黒い手袋が覗いていた。彼は書斎を横切り、重厚なマホガニーの扉に手をかけた。
扉を開けると、そこにはシエラが立っていた。制服姿の彼女は、学校から直接来たようだった。大きな青い目には昨日の不安が薄れ、代わりに決意の光が宿っていた。両手には学校鞄をしっかりと抱えている。
「どうぞ、入ってください」鏡二は丁寧に招き入れた。「コートをそこのラックに」
シエラは恐る恐る、しかし好奇心に満ちた様子で書斎に足を踏み入れた。部屋の荘厳さと同時に独特の温かみに、彼女は目を見開いた。まず目に飛び込んできたのは、壁を埋め尽くす無数の本と、その間に整然と貼られた楽譜。そして、部屋の隅に佇む重厚な黒いグランドピアノ。ベーゼンドルファー製で、艶やかな外観は何十年もの歳月を経た深みを感じさせた。
「これ、全部先生の本なんですか」シエラは素直な驚きを表現した。
「そうです」鏡二は穏やかに答えた。「一生かけて集めたものですね」
「すごい...」シエラは本棚の背表紙に目を走らせた。「『精神病理学概論』『音楽療法の実践』『戦時心理学研究』...」
「座ってください」鏡二は窓際の革張りの椅子を勧めた。「何か飲み物はいかがですか。紅茶でも」
「いいえ、結構です」シエラは遠慮がちに答えた。「あんまり長く時間を取るつもりはなくて...」
「時間は大切なものです」鏡二は微かに微笑んだ。「しかし、本当に重要な話の時には、時間をかけるべきです」
そう言いながら、彼は古い茶器セットから中国茶を準備した。龍井茶の繊細な香りが部屋に漂い始める。シエラは初めて嗅ぐ香りに、少し驚いたような表情を見せた。
「グレンミストに来て四十年になりますが」鏡二は茶を注ぎながら語った。「ここの朝の霧は、故郷の山々を思い出させてくれます」
「先生は日本のどこから?」シエラは興味津々で尋ねた。
「京都です」鏡二は目を細めた。「千年の都、と言われる街。あなたぐらいの年頃まで、そこで過ごしました」
小さな茶碗を二つ、彼は机に置いた。
「さて」彼は彼女の向かいに座り、真剣な表情になった。「昨日の口笛について、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」
シエラは鞄から小さなノートを取り出した。几帳面な丸文字で、音のパターンが書き留められていた。
「私、思い出せる限り書いてみたんです」彼女は真剣に説明を始めた。「最初の音は短くて、でもとても尖っています。『ピュィー』って感じで。それから、長く下がっていく音。『フゥゥゥゥゥー』って。時には波打つように揺れながら下がっていきます。そして最後に、また短く上がって終わり。『ピュッ』」
鏡二は目を閉じ、その音のパターンを頭の中で再現しようとした。額にわずかな汗が浮かぶ。
「音の全体から受ける印象は?」彼は静かに尋ねた。「感情的な印象です」
「優しいんです」シエラは眉を寄せながら答えた。「でも、すごく悲しくて。聞くと、胸の奥がキュッて締め付けられるような... それと同時に、どこか懐かしい感じもして」
鏡二は深く息を吸い込み、立ち上がった。そして、部屋の隅のグランドピアノに歩み寄った。ピアノの蓋を開けると、象牙と黒檀の鍵盤が現れた。歳月を経た鍵盤は、無数の指先に磨かれ、独特の輝きを放っていた。
「このように?」鏡二は指先で、上昇と下降のフレーズを弾いた。高音域から低音域へ、そして再び高音域へ。しかし—
「いいえ、違います」シエラは首を振った。「もっと、こう... 柔らかく、流れるように」
鏡二は再び試みた。今度は音をレガートに繋げ、ペダルを効果的に使用した。
「もう少し近いです!」シエラは椅子から身を乗り出した。「でも、最後の上昇音は、もっと短く。そして、下降音の途中に、ほんの少しビブラートが」
鏡二は何度も何度も試した。シエラは都度、より細かな修正を要求した。音の強弱、テンポの微妙な揺らぎ、音の響きのニュアンス—
音楽室のような静けさの中、二人は音を追求し続けた。
「これです」十五回目の試みで、ようやくシエラが満足そうな表情を見せた。「これが、私が聞いた音」
鏡二は鍵盤から指を離し、深い考えにふけった。額の汗をハンカチで拭う。
「この音の組み合わせは...」彼は慎重に言葉を選んだ。「普通の口笛としては、非常に珍しい構造です」
「どういうことですか?」シエラは前のめりになった。
鏡二は本棚から『音楽心理学研究』という専門書を取り出し、特定のページを開いた。「音楽理論的に分析すると、これは短調の旋律に特徴的な音程配列を持っています。特に、人間の感情に強く訴えかける音の組み合わせとして知られています」
シエラは真剣に本のページを覗き込んだ。複雑な楽譜と数式が並んでいる。
「さらに言えば」鏡二は続けた。「これらの音程は、心理学的に不安や憂愁を引き起こす特定の周波数関係を含んでいます。まるで、聴く者の深層心理に直接働きかけるよう設計されているかのように」
「設計?」シエラは首を傾げた。
「音は、使い方によっては強力な心理的ツールになります」鏡二は机に戻り、また別の本を開いた。「音楽療法の研究では、特定の音楽が患者の感情状態を劇的に変化させることが証明されています。戦時中には、音による心理戦の研究も行われていました」
シエラの目が鋭くなった。「戦争... ウィロビー夫人も戦争のことを話していたそうです」
「音は時に、記憶よりも正直なものです」鏡二は慎重に言葉を選んだ。「特に、強い感情と結びついた音は、何十年経っても人の心に深く刻まれます」
二人は再び椅子に戻った。外では霧が再び濃くなり始め、窓ガラスを曇らせていた。
「私、怖いんです」シエラは正直に打ち明けた。「みんな私のことを変だと思ってる。父さんも信じてくれない。でも、本当に聞こえたんです」
鏡二は黙って彼女を見つめた。少女の目に浮かぶ不安と、同時にそれを克服しようとする強さを見て取った。
「信じます」彼は断固として言った。
「本当に?」シエラの声に希望が混じった。
「ええ」鏡二は頷いた。「聴覚の認識パターンには、視覚よりもはるかに客観的な要素があります。特に、あなたが描写した音のパターンは、偶然の産物とは思えません」
シエラの肩から緊張が抜けていくのが分かった。
「ありがとうございます」彼女は小さく、しかし心からの感謝を込めて言った。
鏡二は窓際の本棚から、もう一冊の専門書を取り出した。『聴覚と心理的暗示』というタイトルの分厚い本だった。
「これは、音が人の行動や判断に与える影響について研究した書籍です」彼は本を開きながら説明した。「1940年代、心理戦の一環として、音の心理的効果が科学的に研究されていました」
「どうやって?」シエラは興味津々で尋ねた。
「特定の音や音楽を聞かせることで、兵士の士気を高めたり、逆に敵の戦意を削いだりする試みが行われていました」鏡二はページをめくりながら続けた。「音は、使い方によっては言葉よりも強力な心理的影響力を持つのです」
シエラは一瞬、何かに気づいたように目を見開いた。「先生は、そういう研究をしていたんですか?」
鏡二は本を閉じた。「私の研究は音楽療法でした。しかし...」彼は言葉を切った。
「でも?」
「過去の経験が、時に現在と重なり合うことがあります」鏡二は窓の外を見つめた。「もしこの村で何かが起きているとしたら、それは過去からの反響かもしれません」
外の時計塔が四時を告げた。霧は一層濃くなり、村の輪郭は完全に見えなくなっていた。
「もう帰らないと」シエラは慌てて立ち上がった。「父さんが帰ってくる前に家にいないと」
「待ってください」鏡二は言った。「もし本当に何かがこの村で起きているのなら、それを解明する手伝いをさせてください」
シエラは驚いて振り返った。「本当ですか?」
「ええ」鏡二は立ち上がり、机の上の新聞記事を見せた。「私も、この村の過去について調べています。あなたの聞いた音は、何かの手がかりかもしれません」
シエラは希望に満ちた表情で頷いた。「はい、お願いします」
「ただし」鏡二は厳しい表情になった。「これは慎重に進めなければなりません。もし本当に何者かが音を使って人々に影響を与えているとしたら、それは非常に危険なことです」
「分かりました」シエラは真剣に答えた。
彼女は帰り支度を整えた。コートを手に取り、鞄を持つ。その時、彼女の視線が再び鏡二の手に向けられた。
「先生、なぜいつも手袋を?」
鏡二は一瞬、わずかに表情を曇らせた。
「ごめんなさい、失礼なことを」シエラは慌てて謝罪した。
「いいえ」鏡二は静かに言った。「隠す必要もないことかもしれません」
彼はゆっくりと右手の黒い手袋を脱いだ。
シエラは思わず息を呑んだ。鏡二の手には、古い火傷の痕が広がっていた。手のひらから指先まで、まだら模様の傷痕。一部はケロイドになり、皮膚の質感が変化している部分もあった。
「これは...」シエラは言葉を失った。
「遠い過去の出来事です」鏡二は手袋を再び嵌めながら言った。「いつか、すべてお話しする時が来るかもしれません」
「関係があるんですか? この村で起きていることと」
「分かりません」鏡二は窓の外の霧を見つめた。「しかし、過去は時として、予期せぬ形で現在に影響を与えます」
シエラは黙って頷いた。これ以上は聞くべきではないと直感した。
「明日、また来てくれますか」鏡二は優しく尋ねた。「もう少し、音のパターンを分析してみたいのです」
「はい、ぜったい」シエラは明るく答えた。
彼女は扉に向かった。しかし、途中で振り返った。
「先生」
「はい?」
「ありがとうございます。信じてくれて」
鏡二は穏やかに微笑んだ。「真実を見つけることが、私たちの責務です」
シエラは扉を出た。足音が廊下に響き、やがて遠ざかっていった。
重い扉が閉まり、再び静寂が書斎を支配した。
鏡二は手袋をした手で、深く顔を覆った。四十年前の記憶が、シエラの存在によって、鮮明に蘇り始めていた。あの日の炎。絶望的な叫び声。そして、今シエラが聞いているのと全く同じ口笛の音—
彼は机に戻り、再び古い新聞記事を見つめた。1944年8月15日の記事。その日、この村で何かが起きた。何か、誰もが忘れたがっていること。
窓の外では、霧が濃さを増していた。まるで、村の過去の秘密を隠蔽しようとするかのように。
鏡二はピアノに再び向かい、シエラの聞いたという音のパターンを丁寧に弾いた。
その音は、確かに聞き覚えがあった。
四十年前、この村で起きた悲劇の最中に聞こえていたのと、全く同じ音が—
彼は深く息を吐き、グランドピアノの蓋を閉じた。象牙の鍵盤が再び闇に包まれた。
過去は過去だ。しかし、もしそれが現在に影を落としているとしたら? もし、あの時の悲劇が繰り返されようとしているのだとしたら?
シエラという少女は、何かに巻き込まれようとしているのかもしれない。彼女を守ることが、自分に残された最後の贖罪の機会になるのだろうか。
日が完全に沈み、書斎は薄暗くなった。鏡二は古風なスタンドライトをつけ、再び新聞記事に向かった。
今度こそ、真実を解き明かさなければならない。あの時できなかったことを。
外では、どこからともなく、小さな口笛の音が聞こえ始めていた。
鏡二は窓際に歩み寄り、霧の彼方を見つめた。
音は確かに聞こえる。四十年前と、全く同じ音が。
「本当に、また始まるのか...」彼は呟いた。
書斎の振り子時計が、五時を告げた。重い錘の音が、静寂の中に響いた。
そして、その針音の隙間から、どこかで口笛が鳴り続けていた。優しく、哀しく、そして恐ろしいほどに美しい音が。
鷺沼鏡二は手袋をした手で、その音の起源を探るように耳を澄ませた。
真相は、この霧の向こうにあるはずだ。今度こそ、必ず。
霧は村全体を覆い、過去と現在の境界を曖昧にしていた。まるで、時間そのものが融解してしまったかのように。
鏡二は傷痕の残る手を見つめた。過去の傷は癒えたように見えても、時に疼く。今のこの村のように。
音は止むことなく、霧の中を漂い続けていた。
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