正しい別れ方

夏凜

さよならを片付けながら

 冷蔵庫の中に、卵が三つと、少ししなびたパセリが残っていた。

 今日で、一緒に暮らすこの部屋を彼が出て行く。そう決めてからの数日間、私たちは必要以上に言葉を交わさなくなった。けれど、今夜だけは違った。最後の夜だから、と、彼が言った。


「オムレツ、作ろうか」

「うん。じゃあ、私が玉ねぎ切る」


 包丁の音が静かな台所に響く。換気扇のまわる音と、そのリズムに溶けるように、玉ねぎの甘い匂いが広がっていく。


 彼と暮らし始めたのは、ちょうど五年前の春だった。最初は何もかもが楽しかった。洗濯物の干し方一つとっても、お互いの癖を見つけるたびに笑い合っていた。それがいつの間にか、「違い」に変わっていった。埋めようとしても、どうしても残る隙間。その存在に気づきながらも、私たちはずっと目をそらしていた。


「別れってさ、正しくあれるのかな」


 彼が炒めながらつぶやいた。

 私は玉ねぎを刻む手を止め、彼の横顔を見つめる。


「うん、あろうとすることはできると思う。正しい別れっていうのがあるなら、たぶんそれは“嘘をつかないこと”じゃないかな」


「でも、優しさって時々、嘘に似てない?」


「似てる。でも、たぶん違う」


 彼がうなずいたのか、どうかは分からなかった。

 フライパンの上で卵がゆっくりと形を変えていく。表面に火が入る頃には、もう何も言葉がなかった。




 テーブルに並べられた二つの皿。

 ケチャップで何も書かれていない黄色のオムレツが、やけに静かに見えた。


「最後に一緒に食べたのが、オムレツって、ちょっと地味だね」

「ううん、ちょうどいいと思う」


 彼が小さく笑った。その笑いに少しだけ昔の面影が残っていて、胸がきゅっと締めつけられた。もう“好き”じゃない。けれど、“嫌い”にもなれなかった。そんな宙ぶらりんな気持ちを、言葉にすることは難しかった。


「人を好きになるのに、理由なんて要らないのに、別れるときはどうしてこんなに理由を探さなきゃいけないんだろうね」

「それは……誰のせいでもないって、自分に言い聞かせるためじゃない?」


「倫理って、難しいね。恋愛に持ち込むには」


「でも、だからこそ必要なんじゃない? 好きだから何してもいいわけじゃないし。……別れるときだって、ちゃんと責任を持ちたい」


 言いながら、涙が出そうになるのをこらえた。

 最後くらい、泣かずに終わりたいと思った。




 夜が更けていく。

 使い終わった皿を洗い、乾かして、元の場所に戻す。何度繰り返したかわからないその動作が、今夜はやけに重たく感じられた。


 ふと、声が漏れた。


「ねえ」


「うん?」


「最後に、一つだけ聞いてもいい?」


 彼がコップを拭く手を止めて、こちらを見る。

 私は視線を合わせないまま、言った。


「……私のこと、好きだった?」


 彼は少しだけ黙って、それから、静かにうなずいた。


「すごく好きだった」


「ありがとう」


 ありがとう。たぶん、この言葉をちゃんと伝えたのは、初めてだったかもしれない。

 その瞬間、彼の目尻が少しだけゆるんだように見えた。けれど、私も彼も、もうそれ以上は言葉を選ばなかった。




 翌朝、彼は私より少し早く起きていた。

 台所には、昨日のオムレツの残りと、インスタントの味噌汁。味噌汁の湯気がまっすぐに立ちのぼっていて、それがまるで、まだここに「温度」が残っている証みたいだった。


「最後の朝ごはん、ね」


 私たちはそれを無言で食べた。

 目の前にある器の向こう側に、もうすぐ“過去になる人”が座っているという実感が、じわじわと胸にしみてきた。




 玄関で、彼が靴を履く。

 その手の動作も、何百回と見てきたのに、今日はまるで知らない誰かのものみたいだった。


「じゃあ、行くね」


「うん……気をつけて」


 扉が閉まる。

 音は小さかったのに、その静けさが、この部屋に“終わり”を満たした。


「もう戻ってこない……」



 キッチンに戻ると、洗い残されたコップが一つだけ残っていた。

 彼がいつも使っていた、青いマグカップ。私はそれを手に取り、丁寧に洗った。指先に少しだけ残る彼のぬくもりのようなものを、洗い流すように。


 水を止めると、部屋は本当に静かになった。

 時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。


 正しい別れ方なんて、本当はどこにもない。

 けれど少なくとも、私たちは自分たちのやり方で、それを考え続けた。

 何が正解だったかなんて、きっとわからない。

 けれど、ちゃんと向き合った。それだけは確かだった。


 だから今は、少しだけ、胸を張っていい気がした。

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