にわか雨
葉月瞬
掌編
にわかに雨が降ってきた。私は不本意にも駆け出した。白い半袖のワイシャツが、じっとりと濡れそぼる。自宅からはだいぶ離れたコンビニに、立ち寄る。雨宿りのつもりだった。私と同時に駆け込んだ人と、肩が触れ合った。ひとつ、鼓動が強く打った。顔を覗いてみる。男の人だった。私と同い年くらいの。瞳は青みがかった黒、遠くを見つめる透明な眼差しを天高く彼方へと送っている。どこか憂いを帯びているような、そんな気さえする。まつげが長く、耽美である。鼻梁は高く、口唇は薄い。どこか中性的で
「雨、止みませんね」
そう言って微笑みながら雨空を見上げた彼の顔は、眩しく揺れた。また一つ鼓動が打って、微かに振るえた。
「そうですね」
私も彼と同じ空を仰ぎ見る。不思議な天気だ。雲間から真っ青な空が覗いているのに、大粒の雨粒が容赦なく降り注ぐ。まるで、宇宙に散らばる小惑星のごとく。一過性のものだとは解っていても、憂鬱な気分になる。誰だって雨は嫌な気分になるだろう。気持ちが落ち込んだり、体のどこかが不調をきたしたり。雨が好きな人はごく僅かだと思う。だって、私の周りには「雨が好き」と言っている人は一人も居ないもの。
「雨なんて、嫌い」
ぽんっと口から溢れでる、感情。その無意識に紡がれた言葉に、ドキッとして口を手で覆う。そして、そっと隣の彼を盗み見る。彼は、時間が止まったように目を大きく見開いて、私を凝視していた。
「驚いた。僕も同じことを思っていたよ」
私と同じ? 気持ちがシンクロしたってこと?
私は、顔が火照るのを肌で感じた。この感情は、一体何?
「雨、上がったよ」
暫くの間、俯いて紅潮した顔を隠していた私の耳元に、ささやき声が吹き掛かってきた。
「ひゃっ!」
素っ頓狂な声で身を引くと、彼の顔が直ぐ傍にあるのに気付いた。もう、キスの距離感みたいな近場で。一瞬、期待してる自分がいるのを意識する。
「じゃあね」
彼は手を降って、私とは逆方向に歩き去った。
翌日も同じ時間に、にわか雨が降ってきた。そして、同じコンビニに走り込む。ほんのちょっぴり期待して横を見遣ると、彼がいた。
「雨、止みませんね」
昨日と同じセリフ。
「そうですね」
私は少しだけ安心して、空を仰ぎながら同じセリフを口にのせる。また、彼と同じ時間を共有できる。嬉しさが込み上げてきて、思わず「ふふっ」と口角を上げてしまう。
雨上がりにそれぞれ別々の方向へ歩き去るのも、昨日と同じ。私は、振り返るようなことはなかった。
翌日も、その翌日も、ずっと同じ場面が繰り返される。私は、それでいいと思っていた。なんというか、安心感がある。いつも同じで、どうにも居心地がいい。そして彼の隣は、ふわりと柔らかい時間が流れている。これはきっと、恋なのかもしれない。まだ、恋愛というものを経験したことがないから、よくわからないけれど。
いつもと同じ時間、同じ場所。
「また、降りましたね」
「ええ、そうですね」
そう、会話した後、彼と同じように空を仰ぎ見る。相も変わらず、不可思議な空模様を見せていた。そっと彼の顔を覗き込むと、顔がぼやけてよく見えない。おかしいな、昨日まではよく見えていたのに。昨日? 本当に、昨日のことだったのかな? 今日は昨日の翌日で、明日は今日の翌日。そのはずだけど、本当にそうだろうか。
私は、なんだか頭痛を覚えた。それにちょっと、熱っぽいかも。ううん。気のせいだよきっと。だって身体は、どこも何ともないし。
翌日も全く同じ場面。一つたりとて変わらない。もしかして、ループしてる?
「また会いましたね。もう、六回目です。七回目を超えると、もう戻れなくなってしまう」
不意に彼が、今までとは違う台詞を吐き出した。
「僕達は永遠の檻に閉じ込められてしまったのかもしれません」
「永遠の檻?」
「ループする時間、場所、といえばわかりやすいかな?」
「どうすれば出られるんですか?」
「あなたがここから出たいと思えば」
すると私の頭の中に、家族との不協和音や現世へのしがらみが溢れてきた。私はこのまま、この人と--。
「もう、出ませんか?」
「嫌だ! だって、ここを出ても、嫌なことしかないし! ずっとあなたの隣がいい」
「現実は……君を待ってくれている」
「そんなわけない!」
そんなわけない。だって、私の家族はほとんど形骸化していたし、私なんてお母さんのアクセサリーにもならない空気みたいなものだし。お父さんもお母さんも、優秀なお兄ちゃんの方ばかり向いている。お兄ちゃんは子どものころから優秀だった。なんでも卒なくこなし、頭脳も図抜けていた。周囲からは神童と呼ばれていたようで、お母さんもそれを誇らしくしていた。そればかりか、兄の優秀さを殊更に引き立てようと、もっと、もっとと習い事や家庭教師を増やしていった。家計は火の車だというのに。でも、私には何もなかったから、何もしてくれなかった。お母さんの自慢の種にはなれなかったし、家族の足手まといでしかなかったのだ。私は、疎まれていたのかもしれない。お母さんから。私なんて--、と考えていたら、不意に友達の
「安心感が欲しい」
一度口に出してから、はっとして口を噤む。
私が本当に欲しかったもの。安心感と居場所。いつでも安心できる場所。ほっとする居場所。それが、家族の中には無かった。でも、外にはできた。帰る場所があるとすれば、そこなのだ。杏子の隣、現実の世界。
ぼうっと彼の方を向く。視界の中に映っているはずの彼の端整な顔が何故かぐにゃりと歪にゆがみ、揺らいでいた。「どうしてあなたは、」そう言いかけて、やめた。それは聞いてはいけないことだと、何故か思った。
現実の世界への想いが、私の中で膨れ上がっていく。だんだんと、風船みたいに。それが彼を覆い隠し、見えなくなったと思えば、ぱんっと割れてしまった。この世界は代替だったんだ。代替でしかなかった。私にとってここは、現実であり、代替の世界でもある。ただの夢でないことだけは、確かだ。
「もう一度言うよ。もう、出ませんか?」
彼の言う、「もう、出ませんか?」という言葉が頭の中でリフレインする。「バイタル正常値に戻りました!」そして、現実の世界の言葉と絡み合う。この、女性の声は果たして、本当に現実のものなのだろうか? まだ、
「ここは、どこ?」
乾いてカピカピになった口腔を無理やり開いて、言葉を紡ぐ。上手く伝わっただろうか?
「意識戻りました!」
どうやら心配は杞憂に終わったようだ。私の、上の空な声を聞いて、心臓マッサージをしていた女性が声を張り上げた。周囲の人々も確認を取る。
現場は慌ただしかった。何が起きたのかと、私はしばらく無言で観察した。頭を起こそうとしてもたげたところで、手で制される。言外に、それ以上見てはいけない、という圧を感じる。
「動かないほうがいいですよ」
柔らかな声が降ってくるが、視界は制されたままだ。痛みで意識が遠のきそうになったが、途中でふっと和らいだ。恐らく麻酔が効いてきたのだろう。
私は意識を手放した。
遠くでお母さんの声が聞こえる。誰かと話しているようだ。誰だろう。とても、紳士的な男の人の声だ。専門用語がずらりと並んで、とても頭が良さそう。それと、規則正しい機械の音。ちょうど心臓の拍動とリズムを同じくするような。目を開けて最初に飛び込んできたのは、白いコンクリの天井と蛍光灯。人工的な清潔感があって、どこか人を不安にさせる天井だ。そして、どこか安心感のある、彼の微笑みが目の端に映る。私はそれに向かって微笑み返す。次に声のする方へ視線を移すと、白衣の中年男性が母と話をしているのが見える。長細い眼鏡が、理知性を強調しているようだ。先程から、医学用語という謎の呪文を羅列している。隣で聞いている母は、頷いてわかったふりをしているようだ。
私の視線に気づいたのか、白衣の男がこちらに向き直り、笑顔を向ける。
「意識が戻ったようですね」
彼の笑顔は、安心を得た笑顔だ。命はとりとめたぞ、と言わんばかりの。母も、安心を得たような顔を向ける。お母さんはこういう時だけ、いい母親ぶる。どうしてまだ、いい母親ぶるの?
傍にいた看護師にいくつかの指示を出して、白衣の男と母は部屋を出ていった。まだ、重要な話があるのだろう。何の話かは、想像に難くない。
私は、もう一度彼の笑顔を見ようと、顔を向ける。でも、そこには期待していたものはなく、代わりに看護師さんの笑顔があった。私は一瞬、顔を顰めた。それが、彼女の誤解を招いてしまったようだ。
「痛みを取るお薬を、点滴で入れてますからね。暫く安静にしていてくださいね」
そして、患者に安心感を与える微笑みを向ける。看護従事者としては、完璧だ。職業病の一種なのだろう。私はただ、彼の笑顔が見たかっただけなのに。だけど、そこに期待していたものが無くて、がっかりしただけなのに。言葉が無ければ、曲解されてしまう。人は、言葉が無ければコミュニケーションすら満足にとれない。そう思って、カピカピの口を精一杯に開いた。
「か、彼……は?」
やっとの思いで出た、言の葉。それは、くぐもった雑音紛れの発声で伝播した。私はひどく驚いた。まるで、私の声が私の声じゃないかのように思えたからだ。ちゃんと、伝わっているだろうか?
「彼? ここには私以外、誰もいませんよ?」
彼女は疑念の籠った笑顔をもう一度向けた。私は、「なぜ」という言葉を発することが、できなかった。半分は、解っていたのかもしれない。うすうす。だって、いるはずの人がいないかのように振舞われていた。母と医者の反応を見ても、疑念を挟む余地はない。
だけど、自分の身体が思うように動かない。そのことには、疑念の余地はあった。私は本当に、生きているのだろうか? 私は、私自身に、懐疑的になった。私は本当に、ここに帰ってきて良かったのだろうか? 本当に現実の世界で生きていていいの? よくわからないけど、彼がそれを望むなら、私はそうするしかない、と思った。
これは、恋、なのだろうか?
私には恋愛経験はない。私には恋愛などする資格がないからだ。空気でしかない私には、恋など贅沢品は許されない。私は兄の付属品なのだから。心の中で恋愛するしかない。妄想はいつだって私の味方だった。
無意識の内に、彼を探している自分がいる。しかし、目だけで彼を探すのは、至難の業だった。だけど不思議と、探している時には見当たらなかった彼が、見たい、と強く想ったとたん、目の前に現れた。忽然と。「私の、安心感がそこにいる」彼を見て私は、ふっと綻ぶ。恋の相手だ。隣にいて、いつでも安心できる。そういう存在のはずだ。だから私は、心がふっと軽くなるのを知覚した。
それから何回も手術をして、数か月が過ぎた。
三回目の手術の後、面会謝絶がとれたからか、友達が会いに来てくれた。友達、と言っても、杏子だけだが。杏子は
私は祝福したかったが、言葉を発することができなかった。まるで、声帯が焼け付いたように振るえないのだ。目の端に映る彼の笑顔が、どこか揺らいでいた。
面会謝絶が解けたとはいえ、長い時間面会できるわけではないらしい。花瓶に花を生け、学校での出来事や連絡事項をいくつか話した後、退出していった。二時間ぐらいだろうか。ベッド脇の備え付けのテーブルの上には、濃いピンク色と白とピンクの斑になっているオシロイバナが小さく縮こまって揺れている。夜に花弁が開くそれは、今は細く萎んでいる。濃い緑の大振りの葉の中にかくれんぼしているようで、どこか可笑しい。夕方になったら花が開くよ、と杏子は言って小さく笑った。明日はもっと、綺麗な花を持ってくるとも言っていた。毎日来るつもりなのだろうか?
「オシロイバナって、疑念という意味があるんだってね。恋を疑っているのかな」
不意に彼の声が降ってきた。私の愛しの彼は、鈴を鳴らしたようなトーンで続ける。
「彼女は本当に、君の親友なのかな?」
彼は真顔でそう、言及する。私の心の
「彼女は人の心の弱みに付け込んだ」
その言葉は、私に疑心暗鬼の種を植え付けるのには最適だった。だけど私は、
「だけど、たとえあの事故の結果、彼女が望むものを手に入れたとしても、それがたとえ以前より画策していたことだったとしても、私はそれを詰問することを望まない。それは、私の居場所を私自身の手で失わせることになるからだ。私は彼女を許さざるを得ない。恐れている現実を受け入れたくはないからだ。私には、彼女しかいないから。私は私の居場所を手放さない。それは、私が受け入れ難い現実に引き戻される、ということだから。私は、私を裏切らない。」と言った。それは、決意の表明だった。
あれから、彼は私のすぐ傍にずっと居続けてくれている。私のよき隣人であり、恋人であり、大切な居場所でもある。杏子と彼。現実の居場所と、虚構の居場所。合わせ鏡のように、同居している。彼の笑顔が眩しく揺れて、私はその顔に笑いかけた。すると、友人の杏子が素っ頓狂な声を上げた。
「
「え?」
「さっきからにこにこしているからさ」
「ううん。杏子と一緒にいるのが嬉しくてさ」
「そう」
私たちは、リハビリの日課である散歩を楽しみながら、歓談する。
杏子と一緒に居て、解ったことがある。彼女の目には彼が映っていないようだということだ。それは、必然だと理解していた。最初の頃は驚いたが、今ではもう、慣れた。
私は今日も今日とて杏子と行動を共にしている。親友だから。たぶん、これからもきっとずっと一緒にいるのだろう。わだかまりとも一緒に。私たちはコインのような存在なのだ。表と裏、どちらが欠けても成り立たない。そして、彼は私にとって、生きていくための主軸となるもの。彼は、私の希望そのものなのだ。だけど、とても寂しいとも感じる。彼は私だけのものだけど、私にしか見えないのは寂しい。この世界が、誰とも共有できないということなのだから。私と杏子とは表裏一体のコインのようなものだけど、世界の表と裏は共有できないのだ。これからもずっと。
「恵海、なんだか楽しそうね」
「うん。とっても楽しいよ」
「そう、良かった」
Imagenary Lover_
了
にわか雨 葉月瞬 @haduki-shun
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