第30話 雨上がりのアストリアと、永遠に甘い約束

 あの「真実の鏡」デザートが巻き起こした(主に宰相閣下の精神的混乱という名の)嵐が過ぎ去ったアストリア王宮には、まるで長年の澱が洗い流されたかのような、清々しく穏やかな空気が満ちていた。悪徳宰相は失脚し、その一派も一掃され、王宮には真の正義と…そして、ほんのり甘いお菓子の香りが漂い始めているような気がする。


 イザベラ王女は、憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔で、私の元へ別れの挨拶に来てくれた。

「マティルド様、この度は本当に、本当にありがとうございました。あなたと、あなたの焼きリンゴのおかげで、わたくしは自分の心に正直になる勇気をもらいましたわ」

 彼女の隣には、少し照れくさそうに、しかし幸せそうに微笑むエリオット騎士の姿がある。

「エルドラードに帰ったら、まずは父と兄に全てを話し、エリオットとの未来を…そして、そうね、やっぱり『王家御用達・絶品焼きリンゴ専門店』でも開こうかしら! もちろん、マティルド様にレシピの監修をお願いするつもりですけれど!」

 うん、そのお店、私もぜひ行ってみたいわ!


 そして、そんな爽やかな風が吹き抜けるアストリア王宮の、美しい春の花々が咲き誇る庭園で、レオニード殿下は改めて私に向き直った。その真摯な瞳は、アストリアの空よりも深く、そしてどこまでも澄み切っている。


「マティルド…君がいなければ、僕は国を、そして自分自身をも見失ってしまうところだった。君の作るお菓子は、人の心を癒し、勇気を与えてくれる。そして、君自身の優しさと、どんな困難にも立ち向かうその強さが、僕を…僕の心を支えてくれたんだ」

 彼は、そっと私の手を取った。その手は、王太子としての威厳と、一人の男性としての温かさに満ちている。

「だから、これからも、僕の隣で、その笑顔を見せてほしい。僕と共に、アストリアとディルフィアの、そして僕たちの未来を、甘くて、とびきり幸せなものにしていってくれないだろうか?」


 それは、まるで極上のスイーツのように甘く、そしてどこまでも誠実な言葉だった。私は、込み上げる熱い想いに思わず涙ぐみながら、しかし、とびっきりの笑顔で頷いた。


「レオニード様…はい、喜んで。あなたの隣で、美味しいお菓子と、たくさんの笑顔を、これからもずっと咲かせていきたいですわ」


 私たちの手は固く結ばれ、アストリアの春の陽光が、まるで祝福のスポットライトのように、優しく私たち二人を包み込んでいた。…そのロマンチックな瞬間を、少し離れた木陰から、フローラが「ひゃー!ついに!ついにゴールインですね、マティルド様ぁぁ!」と号泣しながら(そしてなぜか特大ハンカチでアルト様の顔を拭きながら)見守っていたのは、まあ、ご愛嬌ということで。


 マティルド・フォン・グリュースと、アストリア王国皇太子レオニード・フォン・アストリアの婚約は、アストリア国王陛下も心からの祝福をもって承認し、両国にとって、これ以上ないほどの吉報となった。ディルフィアとアストリアの絆は、もはやお菓子以上に甘く、ダイヤモンド以上に強固なものになったのだ。


 アルト様は、その報告を受けた際、「…これで、私の長年にわたる懸案事項(主にマティルド様の将来設計と、それに伴う私の胃腸への多大なる負荷)も、ようやく解決の目処が…いや、しかし、王妃教育のカリキュラム作成、国際儀礼の確認、両国の婚姻に関する法律の整備、そして何よりも祝賀式典の予算編成と警備計画が…」と、喜びと新たな心労で、それはもう非常に複雑な表情を浮かべていた。彼の胃薬との戦いは、どうやらまだ終わらないらしい。


 ***


 数ヶ月後。婚約の準備と、アストリア王妃となるための(ちょっとだけ退屈な)お勉強のために、私はレオニード殿下(と、もはや彼の定位置となったアルト様)と共に、愛する故郷ディルフィアへと一時帰郷していた。


 領内は、それはもう大変な騒ぎだった。「聖女様ご婚約おめでとう!」「アストリアの王子様、うちの聖女様を泣かせたら承知しねえぞ!」「祝・両国友好! 今夜はタルト祭りだー!」などと書かれた手作りの横断幕が街中に飾られ、領民たちの熱狂的な祝福で、毎日がお祭り状態。特にフローラは、「マティルド様と殿下のために、世界一大きくて、世界一美味しくて、世界一ラブラブなお祝いクッキーを作りますよー!」と、工房の巨大な窯が悲鳴を上げるほどの、ディルフィア領の形をした超特大クッキーを焼き上げ、領民たちに振る舞っては「マティルド様の愛の大きさはこのくらいですよー!」と叫んで回っている。…うん、そのクッキー、大きすぎて馬車じゃないと運べないレベルなんだけど。


 そんな賑やかなディルフィアの、私の工房。今は「マティルド国際製菓アカデミー付属・特別創作工房」なんていう、ちょっと立派すぎる名前がついているけれど、私にとってはいつまでも、最初の夢が詰まった大切な場所だ。

 そこで、私とレオニード殿下は、二人で仲良く(そして時々フローラが乱入してきて賑やかに)、私たちのウェディングケーキのデザインを考えていた。


「やっぱり、ケーキのてっぺんには、アストリアの青い薔薇と、ディルフィアの七色のフルーツを持った、私たちの可愛いマジパン人形を飾りたいですわね」

「いいね! 僕は、ケーキのそれぞれの段に、僕たちの思い出のお菓子を再現するのはどうかな? 君が初めて作ってくれたリンゴとシナモンのタルト、あの『真実の鏡』デザート、そしてもちろん、僕を虜にした桃と薔薇のムースも!」


 レオニード殿下が、デザイン画に描かれたベリーのクリーム部分を、子供のように指でこっそりすくって舐めようとしたので、私は「こら、殿下。つまみ食いは、ちゃんと完成してからにしてくださいまし!」と、未来の旦那様(予定)の頬を優しくつねった。


 その微笑ましい(?)光景を、工房の片隅で、アルト様とフローラが見守っている。

 フローラ「いやー、本当にめでたいですねー! まるで物語のハッピーエンドみたいです! あたしも早く、あんな風にケーキのデザインとか一緒に考えてくれる、素敵な旦那様を見つけたいもんです! ねー、アルト様? アルト様くらいカタブツだと、ウェディングケーキも予算とカロリー計算から入りそうですけど!」

 アルト「…フローラ工房長。あなたのその有り余る想像力とエネルギーは、ぜひともアカデミーの新作スイーツの開発と、工房の年間生産計画の達成に向けていただきたい。…ところで、先日、エルドラード王国から、エリオット騎士の名で、あなた宛に『貴工房の焼きリンゴのレシピについて、いくつか質問と、個人的なお礼がしたい』という、非常に丁寧な手紙が届いておりましたが」

 フローラ「え!? ホントですか!? やったー! これが国際ロマンスの始まりってやつですかね!?」


 ディルフィアの柔らかな日差しが、工房いっぱいに降り注ぐ。マティルドとレオニードの楽しそうな笑い声、フローラのはしゃぐ声、そしてアルト様の(どこか諦念を含んだ)ため息。

 私たちの未来は、きっとこのウェディングケーキのように、たくさんの愛情と、甘いサプライズと、そしてちょっぴりのユーモアで、どこまでもカラフルに彩られていくことだろう。


 聖女スイーツ令嬢の物語は、ここで一旦、甘くて幸せな香りに包まれて幕を閉じる。

 けれど、私の作るお菓子が、そして私の愛する人々とディルフィアの笑顔が、これからもたくさんの奇跡と幸せを、この世界中に届けていくことは、きっと間違いない。


 だって、美味しいものは、いつだって人を幸せにする、最高の魔法なのだから。

 そして、アルト様の胃薬の消費量が、本当に、ほんの少しだけ減ったかどうかは…それはまた、別のお話。ね!

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