第9話 君の髪の色

学校生活にも慣れ始めた五月のある日。

中間テストに向けて夜遅くまで勉強していた新は、見事に寝坊してしまった。


「やば……遅刻だけは勘弁……!」


着替えもそこそこに、鞄を手に家を飛び出す。

風を切るように走り、なんとかいつもの交差点まで辿り着いたが、信号は赤。

(あとちょっとなのに……)


息を整えながら青を待っていると、不意に後ろから小さな足音が近づいてくる。

振り返る間もなく、その子は信号無視で横断歩道を駆け出そうとした。


咄嗟に新はその腕をつかんで、引き止める。


「危ないよ!」


「あ、すみません……急いでたから……」


振り返った少女は小柄で、中学校の制服を着ていた。

亜麻色の髪が朝日を受けてきらりと光る。その髪色は──あまりにも見覚えがあった。


(この色……まさか)


脳裏に、詩織の顔が鮮やかに浮かび上がる。


「お兄さん?」


少女は不思議そうに大きな瞳でこちらを見つめてくる。


「あ、ううん、大丈夫。ところで君はどこへ行こうとしてたの?」


「あっ、そうだった! お姉ちゃんがね、お弁当忘れちゃって……届けに行こうとしてたの」


そう言って、背負っていたリュックから、見覚えのある弁当箱を取り出す。


「お姉ちゃん、最近すごく楽しそうにお弁当作ってるから、届けてあげないと可哀想で……」


「そっか……もしよかったら、俺が代わりに届けようか? 君も遅れちゃうだろうし」


少女は少し考えた後、お弁当を差し出してきた。


「それじゃあ……お願いします。お姉ちゃんの名前は三津原詩織です。……じゃあ、お願いしますね、お兄さん!」


元気よくそう言って、少女は来た道を慌てて戻っていった。


「怪我しないように、気をつけてな」


「ありがとう、お兄さん!」


(……あの髪の色は、遺伝なのかな)


そんな場違いなことを考えながら、新も再び足を速めて学校へと向かった。



---


「三津原さん」


なんとか遅刻を免れた新は、教室で詩織に声をかけた。


「どうしましたか、朝宮君? あれ、そのお弁当……」


「うん、途中で妹さんに会ってさ。遅刻しそうだったから、代わりに届けるよって受け取ったんだ」


「それは……ありがとうございます。助かりました」


「そういえば、その髪の色って……遺伝なんだよね?」


「はい。母がフィンランドの人なんです。曾祖母もそちらの人だったみたいで……」


「なるほど……だからこんなに綺麗なんだね。……あっ、ごめん、いきなり褒めちゃって」


「いえ……ありがとうございます。その……自慢なんです、この髪」


詩織は、腰まで伸びた亜麻色の髪を指でそっと撫でながら、少し寂しげな表情を浮かべた。


「お父さんとお母さんがくれた、大切な髪ですから」


「三津原さんの……」


その先を言おうとした瞬間、教室にチャイムの音が響く。


「……そろそろ席に着かないといけませんね」


詩織は、新が口にしようとした言葉から逃れるように、自分の席へと戻っていった。


その時、彼女が一瞬だけこちらを振り返った。

その瞳には、入学式の桜を見ていたあのときと同じ、どこか切なげな──哀しみをたたえた光が宿っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る