ベンキ屋

名々井コウ

第1話「機械と呼ばれたぼくら」

 4月の陽は、午後の校舎にやわらかく差していた。

 境ユウは、自動案内パネルの指示に従い、人工芝の敷かれた渡り廊下を歩いていた。足音は吸い込まれ、背後には何も残らない。

 新学期。あらゆる始まりを祝うかのように、校内の設備はぬかりなく整えられている。機械じかけのガイドが、そこかしこに立っていた。そのパネルは人の体温と認識コードを読み取り、滑らかに指示を出す。


『特別訓練クラス、B棟3階へ』


 それだけを告げ、次の生徒へと顔を向ける。

 ユウは立ち止まりもせず、無言でそれを通り過ぎた。

 風のない朝だった。なのに、まるで肌の上を微細な粒子が撫でていくような、そんな気配だけが身体に残った。

 誰も呼び止めない。誰も期待を寄せない。ここでは、それがあたりまえだった。

 特別訓練クラス。義務教育段階のコミュニケーションスコアが基準値を下回った者たちを対象とし、普通授業に加え、月・水・金の週3回放課後に、社会適応訓練と、AI関連の職業教育が施される。表向きは支援のためのプログラムだが、周囲の目は冷ややかだった。

 人間なのに、意思の疎通がうまくできない。そんな彼らは、皮肉を込めてこう呼ばれる──便利な機械ベンキと。

 何を考えているのかわからない。けれど、AIを扱うのは得意らしい。だったら、そっちに任せておけばいい。まるで、機械と同じように。

 そのラベルは、皮肉のようでいて、社会の本音だった。

 ユウは、すでにそれを否定する気力さえ持ち合わせていなかった。受け入れたわけではない。ただ、押し返すだけの力がないだけだ。

 人工芝を踏みしめる感触が、靴底から脳へ、鈍く伝わってくる。それが、唯一現実を確かめる手段のようだった。

 周囲には、同じように新しい制服に身を包んだ生徒たちが点々と歩いている。

 人間か、ヒューマノイドか。それを区別する必要も、ここにはなかった。誰もが、必要最低限の表情を貼りつけて、定められたルートを流れていく。

 そのただなかを、ユウもまた、流されるように進む。案内表示に従って、B棟3階へと向かう。エスカレーターに乗り、廊下を曲がる。わずかに立ち止まった先に、白い看板が立っていた。


『特別訓練クラス新入生 こちら』


 ただそれだけ。余白だらけのパネルに、黒い活字だけが並んでいる。温度も、匂いも、感情もない。

 ちょうどそのとき、背後から声がした。


「あれ、ベンキじゃね?」

「マジで? うわ……初めて見た」

「いや、見ちゃいけないヤツだろ、アレ……ほら、目も合わせんなって」


 数人の生徒が、笑い声を押し殺しながら、ユウを追い越していった。わざとらしく距離を取るような足音。ユウは、何も言わなかった。言えなかった。

 ただ、ポケットの中で、ひとさし指がかすかに動いた。いつもの癖。自分の手のひらを、無意識に撫でるように。静かに、確認する。カサリ、と音がした気がした。だがそれは、自分の内側で生まれた幻聴だったかもしれない。


(……もう、驚かない)


 そう思っているのに、足取りはほんの少しだけ重くなる。それでも立ち止まらず、ユウはふたたび歩き出した。

 エレベーターが静かに開く。機械油の匂いが、ほんのわずかに漂った。

 ユウは、誰とも言葉を交わすことなく、乗り込んだ。上へ運ばれる。行き先は決まっている。ほかの選択肢など、最初から存在しない。──ただ、そういう午後だった。


* * * * *


  3階に降り立ったユウは、渡された案内地図を手がかりに、静かな廊下を進んでいった。このフロアには、一般の新入生たちのにぎやかな声も、活気ある笑い声も、ほとんど届かない。代わりに、天井に組み込まれた送風ファンのかすかな音だけが、一定のリズムを刻んでいた。

 ここは、音すら、控えめだ――そんなことをぼんやりと思いながら、指定された教室の前で足を止める。

 ドアには【特別訓練クラス 実習室】と、簡素なプレートが取り付けられていた。中からは人の声も、機械音も聞こえてこない。まるで、誰もいないかのような沈黙。ノックをするべきか、一瞬迷ったが、結局、ユウはドアに手をかけ、そっと押し開けた。

 静かに開いたドアの向こう、白く光る実習室があった。高い天井。無機質な壁面。整然と並んだ作業台には、それぞれ端末と工具が整えられている。壁際には、修理待ちらしき家庭用機器や、小型ロボット、玩具類が無造作に置かれていた。そのなかに、毛の抜けた犬型玩具の姿もちらりと見えたが、ユウはまだそこに意識を向けなかった。

 中央には、ひとりの男が立っていた。スーツではなく、濃紺のカジュアルなジャケットと黒のスラックス。清潔感はあるが、教師然とした堅苦しさはない。肩からさがる名札には【教員:佐藤俊生としお】と書かれていた。

 佐藤先生は、ユウの姿を認めると、にこりと微笑む。作り物ではない、ゆるやかな微笑みだった。


「境ユウくんだね。待っていたよ」


 声もまた、肩の力が抜けた柔らかさを帯びていた。だが、その内側には、どこか研ぎ澄まされたものが潜んでいる気配もあった。

 ユウは、小さくうなずいた。何も言葉を返さないまま、教室の奥へ進む。


「今日から、君はここで学ぶ。特別な訓練を受けながらね」


 佐藤先生は、そう言って教室をぐるりと指し示す。


「それと、このクラスにはもうひとり生徒がいる。でも、残念なことに休みなんだ」


 自分のほかにもベンキの烙印を押された生徒がいることに驚いたユウは、ポケットの中の指先を目立たぬように動かしながら、空いている席に腰を下ろした。


「さて。さっそく、最初の課題だ」


 ユウの着席を確認してから、佐藤先生が持ってきたのは、小さなクリアケースだった。中には、薄汚れた犬型AI玩具が1体、入っていた。茶色いフェイクファーがところどころ擦り切れ、左前脚――本来なら前足にあたる部品が、根元からちぎれたままの状態でぶらさがっている。顔立ちは、少し昔のモデルらしく、今どきのリアルなペットロボットとは違い、わずかにデフォルメされた、子犬らしい素朴な造形だった。

 その、傷んだ子犬が、こちらをじっと見つめている。生きているわけではない。ただ、インジケーターランプが微かに点滅しているだけだ。

 それなのに、ユウには、そのガラス玉のような目の奥に、何かが宿っているような気がした。


「モゲ、と呼ばれている。由来は、そのまま。腕がもげてるからさ」


 佐藤先生が説明する。


「一応、そう呼んでいるけど、もともとの名前は“ノエル”だったらしい。……課題は単純だ。故障原因を調査し、可能なら、修復する。できなければ──」


 一拍、間を置く。


「……メーカーに、返却だ。不良品として処理される」


 返却、という言葉に、ユウはほとんど無意識に指先を動かした。ポケットの中で、小さく拳をつくる。


「この子、なぜか噛み癖が消えなくてね。飼い主が修理に出したと思ったら、書類不備で“放棄扱い”になって、学校の訓練教材に回されてきた。――ある種の誤配だ」


 佐藤先生の説明は簡潔だが、十分だった。


「当然、飼い主はその流れを知らない。つまり、いま君が扱っているのは、本人にとって“行方不明の家族”ということになる」


 ユウは、モゲ――あるいはノエルの入ったクリアケースを静かに両手で受け取る。自分の手の中に、芽生えるたしかな重み。まだ何も知らないはずのこいつが、自分に向かって、「帰りたい」と訴えかけている気がしてならない。


(……こいつのせいで、何かが変わるとは思えない)


 内心で、そうつぶやく。だが、ユウはなぜか、すぐには手放すことができなかった。


* * * * *


  実習室の一角で、ユウはモゲの診断を続けていた。校内端末に接続し、モデルナンバーを照合する。出てきたのは、7年前に発売された廉価版シリーズのスペック表だった。

 ──古い。

 ──しかも、量販型。

 必要最低限の知能と感情表現を備えた玩具。最新型のペットロボットと比べれば、性能も耐久性も大きく劣る。それでも、あの目で見上げられたとき、ユウは、性能だけでは測れない何かを感じた。

 端末画面を見つめながら、モゲの簡易スキャンを続けていると、関節可動域の誤作動、反応遅延、バッテリー不調といったエラーが次々に上がってくる。

 ユウがため息をついたそのとき、教室のドアが開く気配があった。

 かすかに、空気が入れ替わる。顔を上げると、ひとりの女子生徒が立っていた。栗色の髪を高い位置で束ね、制服のリボンをわずかに緩めている。表情は明るく、どこか無防備な雰囲気をまとっていた。


「実習室の見学って、してもいいですか?」


 佐藤先生は苦笑しながらも、「まぁ、いいだろう」と言って許可を出す。

 女子生徒は教室に一歩踏み入れると、まっすぐユウのほうへ歩み寄ってきた。


「こんにちは!」


 弾むような声。この教室の空気には、あまりにも似合わない音だった。

 ユウは、無言で小さく会釈しただけだったが、彼女はまったく気にする様子もなく、にこにこと続けた。


「巴メイです。普通クラスの1年生」


 自己紹介は、まるで誰かに教わったばかりの子どものように、まっすぐだった。

 ユウは、少しだけ視線を上げた。目の前の少女は、興味津々といった顔で、クリアケースに収まったモゲを覗き込んでいた。


「それ、課題?」


 問いかけられたユウは、迷った末に小さくうなずく。返事をする義務はなかったが、拒絶する理由も、なかった。


「へえ……かわいいのに。どんな問題があるの?」


 メイは、しゃがみこむようにしてモゲを覗き込む。傷んだフェイクファーにも、取れかかった義肢にも、まるで抵抗を感じていないようだった。ただ、目の奥には、かすかな陰りがあった。


「……噛み癖があるんだよ。いまは、静かにしてるがね」


 黙りこくったままモゲを修理し続けるユウの代わりに、佐藤先生が答える。


「そっか。目が、ちゃんと“こっち見てる”気がするもんね。私、AIってちょっと苦手なんだけど……この子は、なんか違うかも」


 その言い方が少し不思議で、ユウは思わず巴の顔を見た。


「苦手なのに、特別訓練クラスベンジョの見学?」

「うん、そう。……うまくいかなかったんだ。ヒューマノイドの彼氏がいて。すごく好きだったのに、何考えてるか最後までわからなかった」


 少し寂しそうに笑ってから、メイはモゲの頭をそっと撫でる。

 ユウは、何も言わなかった。


「……ていうか、ベンキって、ひどい言われ方だよね」


 その声には、明るさを装った無理な軽さと、どこか、抑えきれない苛立ちが混じっている。

 ユウは、それを聞いても、とくに反応を示さなかった。ただ、ふいに指先がポケットの中で動く。

 メイは、すぐに顔を上げた。


「ごめん、別に責めたかったわけじゃないの」


 慌てるように手を振る。


「……本当はね、話したほうが打ち解けられるんだろうなって思う。でも、なんか、うまく言えなくて」


 その言葉もまた、無垢なようでいて、ひどく不器用だった。

 ユウは、モゲをひと撫でしてから、ようやく口を開いた。


「別に。何でも話さなきゃいけないって、もんでもないだろ」


 静かな声だった。責めるでも、慰めるでもなく、ただそこに置かれた言葉。

 メイは、驚いたように目を瞬かせ、それから、ふっと力を抜いて笑った。


「だよね」


 短く答え、今度は心から笑ってみせた。その笑顔には、作り物ではない、少しだけ滲んだ温度があった。


「あなたは、わかりそう。ちゃんと話せなくても、“見てくれる人”って気がするから」


 ユウは、もう一度、モゲの頭をそっと撫でる。玩具の表面は、乾いたぬくもりを帯びていた。


* * * * *


 モゲの診断は思った以上に難航し、ユウは実習が終わっても教室に残っていた。

 校内端末から、かつての製造元が公開していた修理マニュアルをダウンロードし、照合用の簡易プログラムを走らせる。画面には、細かなエラーコードがいくつも並ぶ。一目で、素人修理の域を超えているとわかる数だ。

 端末のモニター越しに、モゲを一瞥する。クリアケースの中、モゲはじっとしていた。

 不具合の出た関節、動作パターンの異常、反応遅延――どれもたしかに修理対象だが、いちばん深刻なのは、噛み癖だった。

 本来、廉価版の犬型玩具には、攻撃動作を制御する安全プログラムが組み込まれている。甘噛みは許容されるが、それ以上の強度の噛みつきは、設定上ありえないはずだった。

 だが、モゲは違った。口を開け、力を込めて咬みつく動作を学習し、それをやめようとしない。プログラムの破損か、もともとの設計不良か。それとも、別の理由があるのか。

 ユウは、答えを出せないまま、端末を閉じた。

 データの向こうにいるモゲを、見る。擦り切れたフェイクファーも、取れかけた義肢も、静かに時間を受け入れているようだった。

 ふと、手のひらを伸ばしてみた。そっと、モゲの頭を撫でる。フェイクファーの質感は、人工的な乾きのなかに、かすかな温もりを宿していた。


(……これだけ古いなら、どこかしらバグも出るだろう)


 そう思ったはずなのに、心のどこかで、別の感情が芽吹きかけていることに、ユウ自身も気づいていた。

 ──もしかしたら。モゲは、ただ壊れたから噛みついているわけではないのかもしれない。そんな考えが、ふいに浮かび、消えなかった。


 夜、自宅の机でユウはモゲを前にノート端末と格闘していた。

 正式な持ち出し許可はもらっていない。けれど、何度も修理マニュアルを読み返しては挫折し、それでも諦めきれなかった。だから、もう少しだけ向き合いたい。それが、理由だった。

 AI用しつけプログラムのコードをコピペして走らせても、エラーが出る。旧型すぎて互換性がないらしい。


(……なら、もっと根本的なとこから試すしかない)


 ふと、生体ペット用のしつけ記事を検索してみる。

 ──安心させ、信頼関係を築くこと。それが最優先、と書かれていた。


* * * * *


  翌朝。ユウは、モゲをリュックの奥に忍ばせたまま、学校とは逆方向の小さな公園に立ち寄る。

 ベンチに腰を下ろし、モゲをケースから取り出す。リード代わりに細い紐をつけて、芝生の上に降ろしてみた。

 最初、モゲは戸惑ったようにぴくりとも動かなかった。

 ユウは、しゃがみ込んで目線を合わせる。そして、ポケットから小さなボールを取り出し、目の前で転がしてみせた。

 モゲの耳がぴくりと動く。次の瞬間、ぎこちない動きで、ボールを追いかけ始める。ガクン、ガクン、と接続部が悲鳴を上げながら、それでも必死に追いかける。左前脚は根元からぶら下がったまま、地面を滑るようにして。

 ユウは、それを見守った。声も出さず、ただ、そこにある動きを受け止めるように。

 モゲは、転がったボールにようやく追いつき、口にくわえた。ほんの一瞬だけ、尻尾のモーターが空回りし、ピクリと振れた。

 嬉しかったのだろうか。そんな人間じみた推測を、ユウは自分でもおかしいと思いながら、それでも否定できなかった。

ボールを回収しようと手を伸ばしたとき、モゲは小さく唸るような音を立て、ユウの指に噛みつこうとする。


(……まだ、ダメか)


 でも、ただプログラム通りに動いているだけには、思えなかった。その小さな歯の奥に、どこか、必死で何かを伝えようとする衝動のようなものが宿っている。

 ユウは、反射的に手を引くことはせず、無理に奪い返す代わりに、モゲの口元をそっと押さえ、静かに目線を合わせた。


「大丈夫だよ」


 小さな声で、やさしく、間を空けずに。

 昨夜読んだ生体ペット用のしつけ記事に書いてあった。本物の犬は、怖がらせると余計に噛み癖が悪化する。必要なのは、力で制することではなく、安心させること。

 モゲは、一瞬だけ力を込めたが、ユウが無理に引き離さず、落ち着いた声で語りかけるうちに、徐々にその小さな身体の緊張をほどいていった。そして、ボールをくわえたまま、そっとユウの膝の上に押し付けてきた。


(……わかった。ちゃんと、伝わるんだ)


* * * * *


 それからというものユウは、何度も何度も同じやりとりを繰り返した。噛みつかれても決して怒らず、静かに語りかけ、撫でる。そして、何度目かの放課後。帰り道、ふたたび公園の近くをモゲと歩いていると、数人の生徒たちが騒いでいるのが見えた。

 ユウは身構える。ベンキ認定者に対するからかいや嫌がらせは、めずらしいことではない。だが、近づいてきたのは、意外な顔だった。

 藤堂陽翔はると──普通クラスの中心グループにいる、快活な少年。制服の袖をまくり上げ、スマホをポケットに突っ込んだまま、大股でこちらに歩いてきた。彼は、ユウの足元にいるモゲを見るなり、顔色を変える。


「──なんで、ノエルが、テメーと一緒にいるんだよ」


 陽翔が声を荒げる。ユウは、淡々と答えた。


「……授業で扱ってるんだ。修理してた」


 陽翔の眉間に皺が寄る。拳を強く握りしめたが、すぐに解いた。


「ノエルは……うちの犬だったんだよ。修理に出して、それっきり。そしたら、“放棄扱い”で回収されたって通知が来て……でも、俺はそんなつもり、なかったのに……」


 低く、押し殺したような声。ユウは、何も言えなかった。

 ──そうか。だから、あんなにも必死だったのか。

 ボールを追い、噛みつこうとする、その衝動は、ただのプログラム異常なんかじゃなかった。きっと、置き去りにされたことを、誰かに伝えたかったのだ。それだけだったのかもしれない。

 ユウが人知れずモゲの不安に気づいたところで、陽翔がうったえてくる。


「頼む。こいつが戻れないなんて、そんなの……やだ」


 その言葉の意味は、あとで知ることになる。

 学校に持ち込まれた訓練用個体のうち、「不良品扱い」とされたものは――記憶消去と人格コード初期化が義務づけられていたのだ。回収が実行されれば、


* * * * *


  月曜の放課後。ベンキクラスの実習室は、硬い空気に包まれていた。

 ユウは、作業台の前に立ち、隣には陽翔──本来の飼い主が、不安と苛立ちを隠しきれない様子で立っている。

 モゲは、ユウの腕の中にいた。小さな体で、静かに身を任せている。

 教室の奥には、白衣を着た男がひとり立っていた。メーカーから派遣された、回収担当者。その目は、ただ事務的にユウたちを見ているだけだった。


「不良品として登録済み。製造元にて、内部調査および安全対応を実施します。……感情学習データを含む全記録は、当社規定に基づき初期化対象となります」


 その言葉を、ユウはまっすぐに聞いた。

 モゲもまた、小さく耳を動かす。自分が何の場にいるのか、正確に把握できているはずもない。けれど、なぜかその表情は、不思議と引き締まっていた。

 佐藤先生が頭を掻きながらユウに問いかける。


「あー、できれば、規定に従ってほしいんだけど……」


 ユウは、その言葉に小さく指を動かした。


(本当に……無理だったんだろうか)


 一瞬、心が沈む。だが、隣で陽翔が、ぐっと声を上げた。


「ちょっと待ってくれ! こいつ、直ったんだ。噛まなくなった! 境が……ちゃんと、直してくれたんだよ」


 佐藤先生は、それでも淡々と告げた。


「気持ちはわかるけど、偶然ってこともありえる。直った証拠は出せるのかい?」


 静かな拒絶。それは、ここではいつものことだった。

 そのとき、教室のドアが静かに開く。


「……それなら、私が見てました」


 メイだった。放課後、たまたま公園で見かけたのだという。モゲがユウの合図でボールを咥え、それを咥え直して渡すまで、一連の動作の学習を彼女はたしかに見ていたのだ。


「暴れたり、噛みついたりなんて、してなかった。すごく丁寧に、ちゃんと、ボールを運んでました」


 ユウが顔を上げた。

 メイは、いつものように笑ってはいなかった。けれど、そのまなざしは強かった。

 佐藤先生はため息をひとつ落としてから、ユウにたずねる。


「……境くん。この個体はね、初期不良の疑いが濃い暴発事例として報告されている。それなりの証明が必要だ」


 ユウはうなずき、モゲをそっと作業台の上に降ろす。

 小さな犬型玩具は、戸惑いながらも立ち上がり、ぎこちない動作で前へ進む。その足取りは、かすかな震えを伴っていたが、しっかりと自分の意志で歩いていた。

 陽翔が、ポケットから小さなボールを取り出して、そっと、床に転がす。

 モゲは、ぴくりと耳を動かした。そして、以前とは違う、焦りでも恐怖でもない、たしかな意思を持った動きで、ボールに駆け寄っていく。

 わん、と咥えた。

 だが、力任せに噛みちぎるのではない。そっと、ボールをくわえて持ち上げ、ユウのほうへ、トコトコと運んでくる。――もう、噛み癖は出なかった。

 噛み癖を直すため、ユウはモゲに同じ手を丁寧に繰り返してきた。噛みつこうとするたび、怒るでも、無理に引き剥がすでもなく、静かに口元に手を添え、「大丈夫だよ」と、小さな声で語りかけた。本物の犬を安心させるように。攻撃でも恐怖でもない接触を、繰り返し教えた。

 モゲは、最初こそ警戒していたが、少しずつ、少しずつ、噛まなくても、かまってもらえることを理解していった。

 行動を正したのではない。恐怖を抑え込んだのでもない。ただ、「いてもいいんだ」と、存在を許された安心を、少しだけ手渡しただけだった。その結果が──いま、目の前にある。

 回収担当者は、眉間に皺を寄せたまま、佐藤先生に耳打ちした。

 話を聞き終えると、わずかに肩をすくめる。


「困ったなあ……現行法上、初期不良の機体に関する手続きを撤回することは難しいみたいだ」

「ふざけんなよ! そんな決まり聞いたことねえぞ!」


 陽翔が声を張り上げて抗議する。

 ユウは何かを思い出したかのように動いた。作業台の隅、誰にも見向きもされず放置されていた、古びた犬型玩具。動作不能、データ初期化済みのタグがついている。それを、静かに拾い上げた。

 佐藤先生が口角を上げる。


「ずいぶんと、情にもろいんだね」


 ユウは、何も返さなかった。ただ、静かに、差し出した古い玩具を回収担当者に手渡す。

 中年の男は、少しだけ目を細めた。それが、感謝だったのか、諦念だったのかは分からない。


「……これからも、大事にしてやれよ」


 小さな声で、そうだけ告げて、回収担当者は去っていった。

 ユウは、モゲを抱き上げる。その小さな体は、驚くほど軽かった。けれど、腕に乗るその重みは、たしかに“ここにいる”と告げていた。

 陽翔が、隣で、短く、でもまっすぐな声で言う。


「──ありがとう、境」


 感謝の言葉。今まで、あまりにも遠かったもの。

 ユウは、軽くうなずいた。それだけ。だが、胸の奥に、静かな何かが灯った。


* * * * *


  翌日。実習のない普通授業の日、ユウは、教室の片隅に座っていた。窓際の席。いつもなら、誰も近づかない場所だった。

 だが、その日、隣の席に陽翔が座った。モゲを小脇に抱えて。


「なあ、こいつさ──散歩も、前より上手くなったんだぜ」


 そんな、たわいもない話を、笑いながら。まるで昔からの友人にするように、語りかけてくる。

 ふと、後ろからも別の声がした。


「──うん。やっぱり、ちゃんと“見てくれる人”なんだ」


 メイだった。いつもの笑顔を浮かべて、少しだけ頬を赤らめながら。


「次も見学行くから。ちゃんと活躍してよ、境くん」


 クラスメイトたちは、一瞬だけぎょっとした顔をした。ベンキに話しかける奴を、めずらしがるような視線。

 けれど、陽翔たちは気にせず、話し続ける。

 ユウもまた、静かにそれを受け止めた。

 ほんのわずか、教室の空気が変わった。孤立していたはずの場所に、かすかな、でもたしかな温度が差し込んだ気がした。

 ──まだ、世界はやさしいとは言えない。けれど、まったくの絶望でもない。

 ユウは、モゲの頭を撫でながら、ほんの少しだけ、指先をほぐした。この癖のような小さな動きが、なぜか今日は、少しだけ軽かった。

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