5-6 転入生、離れる距離

放課後の教室は、文化祭準備の熱気で満ちていた。

ペンキの匂い、ガムテープのパチンという音、笑い声や指示の声が入り混じる。


「じゃあこのパネル、サヤカちゃんと久我くんで描いてくれる?」

「こっちの小道具班は、ケイタ頼んだよ!」


クラスメイトの声が飛び交うなか、ユイは教室の端で絵の具のパレットを洗いながら、その光景をぼんやりと見つめていた。


リョウとサヤカは、黒板前に設置された作業台で何か話し合っている。

リョウの横顔は真剣そのもので――

サヤカは、リョウの手元を覗き込みながら、ふっと笑っていた。


「リョウくん。これ、ちょっと色足りないね。私、絵の具とってくるね」

「ありがとう。助かるよ、瀬戸さん」

「こうやって"リョウくんと、2人で作業する"の楽しいな」


(……“瀬戸さん”って呼んでるのに、向こうは“リョウくん”なんだ)


釣り合っていない距離感が、胸の奥にじんわりと沈んでいく。


(……距離、近いな)


手元の水音が止まり、気づけば、ペンダントが胸元で静かに揺れていた。


(……最近、ずっと気分が悪い。視界も……ぐらぐらする)

 

ユイは少し離れた席で、パネルの下書き用紙を整えながら、その様子を眺めていた。何故か、手の震えが止まらない。


「なんか、瀬戸さんってさ、リョウくんにグイグイじゃない?」

隣からエミリがひそひそ声で話しかけてきた。


「え……そうかな?」

思わずユイが返すと、エミリは笑いながら肘で小突いてきた。震えていた手をそっと隠した。


「だってさー、呼び方からして“リョウくん”だよ? 他の人、苗字で呼んでるのに」

「……たしかに」


ユイが苦笑すると、エミリは頷いた。

「まぁでも、リョウくんも別に嫌そうじゃないし……そこが逆に気になるよね~」


その言葉に、ユイはまた少し視線をサヤカとリョウの方へ戻した。

二人は黒板前で、看板のデザイン案を話し合っている。

笑顔のサヤカに、リョウもときどき優しく頷いていた。


(……わかってる。リョウくんは、誰にでも優しい。けど……)


その胸の奥に、ほんの小さな棘のようなものが、じわりと残った。


「ユイ、大丈夫? 顔色…やばくない?」

エミリが心配そうにのぞき込む。


「あ……ううん。ちょっと、疲れただけ」


 ▽


 準備がひと段落し、ユイとリョウは静かな場所で少し休んでいた。

まだ日が高く、空はほんのりと茜色に染まり始めている。


ユイは缶のお茶を持ったまま、となりに座るリョウにちらりと目をやる。

リョウはポケットからスマホを取り出し、画面を確認していた。


その動きが、なぜだか気になった。


「……誰かから連絡?」

ユイが問いかけると、リョウは一瞬だけ手を止めて、


「うん、ちょっとだけ……サヤカさんから、文化祭の確認事項……みたい」


軽く答えたその声には、特別な色はない。

けれど、ユイの胸の奥がざわめいた。


(なんで、こんなに気になるんだろう……)


視界の端が、ぼやけて揺れる。


――胸元のペンダントが、じんわりと熱を持ちはじめた。


「っ……」


痛みではない。けれど確かに、体の奥から何かが押し寄せてくる。

頭の奥に、小さな鈍い痛み。額にじっとりと汗がにじむ。


「ユイさん? 大丈夫?」

「……うん、ちょっと寝不足かも。ごめんね」


笑顔を浮かべながら答えたが、手は缶を握る力さえ弱くなっていた。

世界が静かに傾き始めていることに、ユイ自身、気づきはじめていた。

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