3-2 弓道場と記憶の断片

真夏の昼下がり、弓道場の空気は張りつめていた。

床には射場から差し込む日差しが、太い斜線を落としている。


「はい、次の人、離れのタイミング意識してー!」


的場からは、先輩の声が響いていた。

道場の端では的の位置を直している子がいて、巻藁には真剣な表情の1年生。

誰かが放った矢が的を外し、後ろで友人が「ドンマイ」と軽く肩をたたく。


いつもの、暑くて少しだけ騒がしい、でもどこか心地いい夏の弓道部の午後。


その中で、ユイと久我リョウは並んで立っていた。


「もうちょっと、的の中央……そう、そこ」


リョウの声は、周囲のざわめきの中でも、不思議とよく通る。

やわらかくて、まっすぐで――何より、優しい。


ユイは静かに頷き、弓を引く。

肩の力を抜いて、呼吸を整える。

彼の言葉に合わせるように、矢が放たれる。


――ピシィ。


木板に当たって、小さな音が響いた。中心からはわずかに外れている。


「悪くないと思います。少し押し手の角度だけ気をつければ、もっと安定します」


リョウが隣からそっと声をかける。

その目は、的ではなく、ユイの手元をしっかり見ていた。


(変わらないな、この距離感も)


ときめく。心臓が跳ねるような、この感覚も。

彼の言葉に、ユイは自然と笑みを返していた。


だが――


「……変ですね」


「え?」


リョウは小さく首を傾げ、ふとユイの手元に視線を落としたかと思うと、

ほんの一瞬、ユイの横顔をじっと見つめた。

それは、何かを探るような、もどかしいような目。


「なんか……今の構え、前にも見たことがあるような気がして」


静かな声。

そしてその言葉は、ユイの心に微かにざらつく波紋を残した。


彼はすぐに視線を戻し、小さく笑う。


「気のせい……かな。最近ちょっと寝不足で」


その笑みは変わらない。優しいままだ。

けれど、ユイの心は静かに波立っていた。


それは、自分だけの秘密だったはずの“時間のやり直し”に、

誰かの記憶のかけらが触れてしまったような――そんな感覚。


(まさか……)


弓を構え直しながらも、ユイの手の中には、微かな震えが宿っていた。





「え、コズミックランド? あー、ごめんなさい。たぶん行けないです。お盆前に、祖父の家に帰省する予定があって」


久我リョウの声はいつも通り丁寧で、やわらかかった。

でも、その言葉は明らかに、はっきりと“行けない”ことを告げていた。


昼休み、購買前のベンチ。パンの袋を開ける音と、誰かの笑い声。

風が通る心地よい日だったのに、ユイの中でだけ空気がわずかに止まった。


「そっか、タイミング悪かったね」

ケイタがさらっと返す。気にしてない、という風に笑いながら。


ユイは喉に何か引っかかる感覚を抱えながら、リョウの表情を盗み見る。

彼は悪びれた様子もなく、静かに手元のパンをほぐしていた。


(……違う)


確かに、前の世界では――

その日、4人で行った。間違いなく一緒に笑って、リョウからペンダントをもらって。


でも今、その予定がなかったことになろうとしている。


「じゃあ、他のメンバー誘おっか」

エミリが明るく言った。声のトーンも笑顔もいつも通り。

「部活メンバーで行ける人、声かけてみるね。ユイ、行ける日また教えて?」


(……そうだよね、切り替えなきゃ)


ユイはゆっくり頷いた。

でもそのうなずきは、心の中で生まれた“わずかな亀裂”をどうにも隠せなかった。


「……うん。そうしよっか」


言葉に出した瞬間、ほんの少しだけ声が揺れたのが自分でもわかった。


制服の胸元に、ペンダントがふれている。

その感触だけが、世界に一つだけ残された“前の記憶”の証だった。



わずかな違い。

でもそれは、心の奥に小さなひびを入れるには、十分だった

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