14/静寂

 その日、僕とコハルは図書館に来ていた。僕が古い文献や資料を調べたいと言ったら、コハルが「図書館、行ってみたい!」と言ったので、連れてきたのだ。

 図書館の中は、独特の空気が満ちていた。古紙の、少し埃っぽい匂い。ページをめくる微かな音。そして何よりも、張り詰めたような、静けさ。その静寂は、僕の鈍い聴覚にとっては、かえって心地よかった。しん、とした空間にいると、他の場所では気づかないような小さな物音にも、意識が向くことがある。

 二人で並んで、広い閲覧席の一角に座った。僕の目の前には、借りてきた古い本の山がある。僕は、その表紙やページ、インクの質感などを指先で確かめながら、目的の情報を探していた。

 コハルは、僕の隣で、借りてきたらしい絵本をパラパラとめくっていた。カラフルなページが、僕の視界の端で動くのが分かった。時々、小さな声で「わぁ」とか「すごい」とか呟くけれど、僕の邪魔をしないように、静かにしている。その囁くような声が、静寂の中で妙に耳に残った。

 シーンとした空間に、僕たちの息遣いや、本のページをめくる音だけが響く。コハルのすぐ隣にいる。その距離感に、僕は慣れてきたようで、でも、まだ少しだけソワソワした。彼女から伝わる微かな体温。薄い石鹸のような、心地よい気配が、僕の周りの空気を満たしている。

 僕は、本に集中していたはずだった。古い紙の、少しザラザラとして、乾いた感触。活版印刷の、微かに盛り上がったインクの質感。

 ふと、視線が隣に向いた。

 コハルが座っている。膝の上には開いた絵本。図書館の、柔らかい照明の下で、彼女の白い太腿が、スカートの裾から覗いていた。

 ずっと本に焦点を合わせていた視覚はぼやけている。それでも、その白さ、柔らかそうな丸みが、僕の視覚を突き破って、脳裏に焼き付くようだった。陽の光を浴びているわけでもないのに、肌の表面が、微かに輝いているように見えた。その白さが、周りの古い本の茶色や、机の木目と、強い対比をなしていた。

 コハルの太腿。服に覆われていない、剥き出しの肌。

 触れたら、どんな感触がするのだろう。この、光を吸い込んだような肌は。

 硬い本の感触から、意識が離れていく。僕の指先が、吸い寄せられるように、コハルの太腿に向かって、ゆっくりと動き出した。衝動的ではなかった。強い欲望に駆られたわけでもなかった。ただ、あまりにも、目の前に「コハルの肌」という、未知なる「触感」が存在していて、それが僕の触覚への探求心を、抗いがたい力で引きつけていたからだ。まるで、美しい石ころを見つけた子供が、つい手を伸ばしてしまうように。

 僕は、隣に座るコハルの、絵本を見ている太腿に、そっと、てのひらで触れた。

 触れた瞬間、指先から、脳内へ言葉が奔流となって流れ込んできた。視覚も聴覚も、再び遠のいていく。

『コハルの太腿。温かい。柔らかさ、限界を超える。まるで溶けかけの雪のよう。絹の比ではない。生まれたての赤子の肌、あるいは、夢の中の感触。滑らかさ、一切の抵抗がない。表面に張りがあるが、深部は限りなく柔らかく、指を埋めたくなる衝動。弾力、優しく跳ね返す命の力』

 生命の輝きが触感として伝わる。完全。絶対。未知ではない。初めて触れたはずなのに、僕がずっと探し求めていた触感の具現化。

 あまりにも完璧な触感だった。脳内で言葉が次々と生まれる。これは、僕の触感図鑑に記録されるべき、最も重要なページだ。あの公園での偶発的な接触で感じた衝撃が、今回、能動的に触れることで、より詳細に、より鮮烈に、僕の触覚に刻み込まれた。

 コハルは、僕が触れたことに当然すぐに気付いた。絵本から顔を上げ、不思議そうな、でも嫌そうな顔ではない、いつものコハルの顔で、僕を見つめた。

「え、なあに? どうかしたの?」

 彼女の声が、僕の触覚の世界に割り込んでくる。彼女は、ただ不思議そうだ。僕の行動に驚きつつも、その裏にある何かを探ろうとしているような瞳だった。僕の行動を、変だと思っているかもしれないけれど、それに嫌悪感を示したり、怯えたりはしない。

 それは、僕が彼女の太腿に触れた行動に、性的な意図や、支配的な欲望がほとんど含まれていなかったからだろう。ただ純粋に、その触感を知りたい、という、僕の根源的な探求心から生まれた行動だったから。そして、コハル自身も、僕のその純粋さを、どこかで感じ取っていたのかもしれない。

 僕は、慌ててコハルの太腿から手を離した。僕の行動が、彼女を少しでも不快にさせなかったことに、安堵するような、でも、彼女が何も気付いていないわけではないかもしれないことへの、少しの罪悪感と、秘密を共有していないことへの寂しさのようなものが混じり合った、 複雑な気持ちだった。

「……いや、なんでもない」

 僕は、しどろもどろに答えた。顔が熱くなっているのを感じた。コハルは、まだ少し不思議そうな顔をしていたけれど、何かを納得したように小さく頷き、すぐに絵本に視線を戻した。その絵本の鮮やかな色(に見える何か)が、僕の目にチカチカと映った。

(なぜ、触れてしまったんだろう)

 僕自身、なぜあの時、彼女の太腿に触れてしまったのか、明確な理由は分からなかった。ただ『感触が気になったから』。でも、それは公園の鉄柵やツタの感触が気になったのとは、根本的に違った。

 それは、コハルの太腿だったからだ。

 あの明るくて、無邪気で、「面白いね」と僕の世界に入ってきてくれたコハル。僕に「好き」と言ってくれた、あの時の顔。僕の鈍い感覚を理解して、手を引いたり、肩に触れたりしてくれるコハル。

 自覚はなかったけれど、僕は確かに、コハルという存在そのものに、特別な関心を抱き始めていたのだろう。あの雨の日に目が離せなくなったことはあったけど、この関心は別にコハルが造詣的な美しさを持っているからでは決してなかった。それは、単なる友達として、という範疇を超えつつある、僕にとって未知の感情だった。そして、その感情が、僕の「触覚」への探求心と結びついて、コハルの肌という、究極の対象へと僕の手を伸ばさせたのだ。

 図書館の静寂の中で、僕は自分の手のひらをじっと見つめた。まだ、コハルの太腿の、あの温かく、柔らかく、そしてあまりにも完璧な滑らかさが、指先に残っているような気がした。それは、僕の触感図鑑の中で、最も鮮烈で、最も危険な、そして最も抗いがたい『触感』として、永遠に刻み込まれるだろう。

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