7/蔦
その日、僕は新しい『触感』を探しに、街を歩くことにした。いつものようにメモ帳と鉛筆、そして標本にできそうな物を採取するための小さな袋をポケットに忍ばせる。
何か、時間が作ったもの。人の手が直接触れる機会は少ないけれど、確かにある、個性的な肌合い。そんなものがいい。
考えていると、家の前で明るい声に呼び止められた。
「センくん! どこ行くの?」
コハルだ。今日も元気いっぱいの声だった。その声が、僕の思考を破って飛び込んできた。彼女は、僕が外に出ようとしているのを見て、すぐに駆け寄ってきたらしい。僕の隣に並び、上目遣いで僕を見上げる。その距離感に、僕は少しだけ落ち着かなくなる。
「……ちょっと、調べ物にね」
僕はいつものように、言葉少なに答えた。
「調べ物? なに? 今日は何を調べるの?」
コハルの瞳は、探求心で輝いているように見えた。その光が、また僕の目に焼き付く。彼女は、僕の奇妙な『調べ物』に、いつも純粋な興味を示してくれる。それが、僕にとっては少し意外で、そして、少しだけ嬉しいことだった。
今日の対象は、少し離れた古い小学校の裏門の壁に絡まっている、ツタの感触にしようと考えていた。レンガの壁に、太いツタの幹と、そこから伸びる細い巻きひげ、そして柔らかな葉っぱ。様々な触感が一度に味わえるだろう。
「古い壁のツタ」
僕は、正直に答えた。やっぱり変だと思われるだろうか、と少し身構えた。
「ツタ? へえ! 面白そう! 私もついていっていい?」
コハルの反応は、いつも僕の予想……いや、経験からの予測を裏切る。躊躇なく「面白い」と言って、一緒に行きたがる。僕の世界は、彼女にはどう見えているのだろう。僕のこの、少し変わった世界を、彼女は本当に受け入れてくれているのだろうか。
「いいよ」
僕はそっけなく頷いた。内心では、彼女がついてきたいと言ってくれたことに、微かな驚きと、どこか暖かくなるような感覚があった。でも、それを表に出すのは苦手だ。
僕たちは並んで歩き始めた。隣を歩くコハルからは、柔らかな体温と、風に乗ってくる、あの心地よい微かな香りがする。彼女の髪が、歩くたびにふわりと揺れる。視覚はぼやけていても、その動きの軽やかさ、彼女の全身から放たれる明るい気配は、僕の肌で感じ取れるようだった。それだけではない。彼女の存在そのものが、僕の鈍い感覚を刺激し、世界が少しだけ違って感じられる気がした。
古い小学校の裏門に到着した。目的の壁は、年月を経て色がくすんだ赤レンガでできていて、その大部分を緑色のツタが覆っていた。僕の目には赤と緑の明確な対比は見えないけれど、それでも、二つの異なる質感が壁を覆っていることは、視覚的にも、なんとなく認識できた。
僕は壁の前に立ち、ツタに触れた。まず、地面近くの太い幹。触れると、木の皮のようなゴツゴツとした感触の中に、微かな湿り気と弾力がある。時間をかけて太くなった、生きている幹の感触だ。そこから伸びる細いツタは、指でなぞると少しざらつきがあり、壁に張り付くように伸びる巻きひげは、触れると硬く、しかし弾力も持っている。そして、無数の葉っぱ。表面は滑らかで、葉脈が微かに盛り上がっている。葉の裏側は、表とは違い、微かな産毛のようなもので覆われていて、触れるとベルベットのように柔らかい感触がした。
「……へえ。こんなにフワフワしてるんだな」
一つの植物なのに、場所によってこんなにも違う触感がある。僕は、それぞれの感触を指先で丁寧に確かめ、脳裏に刻み込んでいく。
コハルは、僕がツタに触れている様子をじっと見ていた。そして、真似をするように、おずおずとツタに手を伸ばした。
「わ、ほんとだ! この葉っぱの裏、フワフワ!」
コハルは、葉っぱの裏側を指先で触りながら、嬉しそうに声を上げた。その声が、壁に反響して、いつもより近くに聞こえた。彼女は、僕のように時間をかけてじっくりと感触を確かめるのではなく、直感的に、面白そうな部分に触れていく。
コハルの指先が、僕が触れている葉っぱのすぐ隣に来た。僕たちの指が、同じツタの葉に、僅かな距離を置いて触れている。
コハルの手。小さくて、丸みを帯びた指。ツタの葉に触れる、その透き通るように白い肌。
指先の、ベルベットのような葉っぱの裏の感触。それは確かに面白い感触だった。けれど、僕の意識は、その葉っぱの感触から、コハルの指先の肌へと吸い寄せられていく。
あの、白く滑らかな肌。
触れたい。一度芽生えたその衝動は、コハルと一緒にいる時間が増えるにつれて、どんどん強くなっていく気がした。彼女のすぐ隣にいる時、彼女の肌が視界に入る時、そして今のように、同じものに触れている時。指先が、コハルの白い肌に向かって、微かに震えるような錯覚に陥る。
彼女の肌の感触を知りたい。あたりまえだけど、これは僕の触感図鑑にない未知の領域だった。
でも、躊躇があった。もし、僕が彼女の肌に触れたら、コハルはどんな反応をするだろう。驚く? 嫌がる? 変な目で見られる? 僕のこの、少し歪んだ好奇心を、彼女はどう思うだろうか。僕のこの、人とは違う「触れたい」という気持ちは、きっと誰にも理解されない。まして、コハルに、そんな目で見られたくない。彼女の、僕に向けられる曇りのない笑顔が、失われるのが怖かった。あの、僕の世界を少しだけ明るくしてくれる笑顔が。
触れることによって得られる、未知なる感触。それと引き換えに、彼女との関係が壊れてしまうかもしれないという不安。指先が、コハルの白い肌に近づきたいと疼く。けれど、その一線を越える勇気が出ない。
僕は、触れていたツタから、すっと指を離した。そして、固く拳を握りしめた。手のひらに爪が食い込む感触は、僕を、この衝動と不安が渦巻く現実につなぎ止めるようだった。
コハルは、まだ無邪気にツタの葉っぱに触れている。僕の内心の葛藤には気づいていないようだったが、ふと僕の顔を見て、少しだけ不思議そうな表情をした気がした。その無垢さが、僕の葛藤をさらに際立たせる。
彼女の髪や、白い肌に触れたい。その欲求は強い。けれど、それ以上に、コハルに嫌われたくない、という気持ちが、今の僕をかろうじて引き止めていた。
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