触感図鑑

ネーヴェ

0/雨

 その日、世界は雨の音で満たされていた。


 二階の自室、小さく突き出た三角窓から、僕はそっと手を伸ばす。ガラスの縁を滑り落ちてくる水滴に指先を触れさせた。ひんやりとして、少し粘り気を感じる感触。地面に叩きつける雨粒は、それぞれが小さな衝撃となって指先に伝わる。その速度、強さ、そして一つ一つの微かな違いを、僕は指先で読み取っていた。


 世界は、色と音の洪水だと言う人がいる。確かに、雨上がりの虹は眩しいほどで、遠くの雷鳴は腹に響く、らしい。でも、僕にとって、世界はもっと、肌に触れるものの感触、指先でなぞるものの形、服と肌の間の空気の層、そういった「触れる」情報で構成されていた。なぜなら、僕の世界は少し、ぼやけていたからだ。

 窓の外に見える景色は、まるで水彩絵の具を溶かしすぎたように曖昧だった。

 信号の色は、注意深く見ないと見間違えることがあったし、夕焼けの色が他の人にはどう見えているのか、想像もつかなかった。空が赤やオレンジに染まるらしいことは知っていたが、僕にはせいぜい、灰色の濃淡が少し変わる程度にしか認識できなかった。

 小さな音は、耳の奥に届く前に霞んでしまい、雨の音の中に溶け込んでしまう虫の声や鳥のさえずりを聞き取るのは難しかった。

 甘いものは、舌に乗せても砂のような感触しかなく、味の区別がつきにくいから、僕はあまり食べることに興味を持てず、少しばかり痩せていた。

 匂いも、花や料理の複雑な香りは掴めず、ただ良い匂い、嫌な匂い程度の単純な情報しか得られなかった。

 その代わりに、僕の触覚は鋭かった。

 指先だけでなく、全身の肌が、世界の微細な変化を拾い上げていた。布地の織り目、家具の木目、風の温度、地面の凹凸、そして、あらゆるものの『肌触り』。それらを『触感図鑑』と名付けたノートに記録することが、僕にとっての世界との繋がり方だった。


 しとしとと降り続く雨の中、遠くからエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。聴覚は少し鈍いけれど、振動や低い周波数の音は捉えやすい。

 やがて、大きなトラックが家の前に止まった。引っ越し業者のトラックだ。すぐに、もう一台、乗用車が続いた。新しい隣人。

 車から、数人の人が降りてくる。業者らしい作業着の男たち、そして、傘を差した家族らしき人影。その中に、一人の少女がいた。

 肩までの黒髪が、しとしとと降る雨に濡れている。傘は差していないようだった。白い、レースのワンピース。その白さが、灰色の雨の風景の中で、妙に僕の目に留まった。

 彼女は、雨の中、まるで自分が雨そのものであるかのように静かに立っていた。しとしとと降り続く雨のような、静かで、どこか憂いを帯びたような雰囲気。

 曖昧な僕の視界でも、彼女の存在は鮮やかだった。雨に濡れた黒髪は、ただの黒ではなく、深い森の緑や、夜の空の色が混ざったような、複雑な光沢を放っているように、見えた気がした。白いレースのワンピースは、雨粒を受けて透けるわけではないけれど、その繊細な織り目や、雨を含んで少し重くなったであろう質感までが、僕の触覚に語りかけてくるようだった。

 彼女は、地面に落ちる雨粒をじっと見つめていた。その横顔は、まだ幼いのに、どこか遠い世界を見ているようで、雨のヴェールを通して、僕にはまるで幻想のように、神秘的に、そして信じられないほど美しく見えた。

 ドキリ、と心臓が跳ねた。それは、触感図鑑のページをめくる時の、あの探求心とは全く違う種類の動悸だった。彼女から目が離せない。彼女という存在が、僕の鈍い視覚を突き破って、脳裏に焼き付く。雨の音も、作業員の話し声も、全てが遠のいていく中で、ただ彼女の姿だけが、世界の中心に存在していた。


 この時、まだ彼女の名前も知らなかった。僕が、あらゆるものの肌触りを集めることに夢中な少年であることも、彼女は知る由もなかっただろう。

 そして、僕自身も、この出会いが、僕の世界、そして僕の触感図鑑の存在意義を根底から覆す、抗いがたい始まりになることを、まだ知らなかった。

 ただ、僕は、雨の中で佇むその少女に、理由もなく強く惹きつけられていた。それはもしかしたら、ある淡い感情の、幼く不確かな芽生えだったのかもしれない。

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