第七話:女神の涙(却下)と、嬉しい悲鳴
「おおっ! ちゃんと泡立つぞ、リリア!」
「はい! 汚れも、水だけよりずっとよく落ちますね。それに、なんだか手がスベスベするような……?」
「本当だ! ハーブの良い香りもするし、これは成功だな!」
店の裏にある小さな洗い場で、俺たちは完成したばかりの試作品――乳白色の石鹸を試していた。前回の黒くて臭い塊とは雲泥の差だ。きめ細かい泡が立ち、汚れをしっかりと落としてくれる。洗い流した後には、ほんのりと爽やかなハーブの香りと、なぜか肌がしっとりするような感覚まで残った。
「ラード草の油って、すごいんだな……」
「あの市場のお婆さんに感謝ですね」
これは間違いなく商品になる。俺は確信した。
問題は、どうやってこれを安定して作り、そして売っていくかだ。
「もう少し形を整えたいな。あと、このままじゃ味気ないから、包装も工夫したい」
「量産するとなると、もっと大きな鍋と、材料の安定供給も必要になりますね。特にラード草の油と、良質な灰汁が」
リリアが的確に課題を指摘する。本当に、彼女がいなかったらどうなっていたことか。
「油と灰汁は、またあのお婆さんに相談してみるか……。定期的に仕入れさせてもらえると助かるんだが」
次に考えるべきは、商品名と価格設定だ。
「商品名なぁ……。『トール印の清潔石鹸』? いや、ダサすぎるか」
「トール様の名前が入っているのは、良いと思いますけど……」
「うーん……リリア、何か良いアイデアないか?」
「えっ、私ですか?」
リリアは少し驚いた顔をして、うーんと唸り始めた。
「……体を綺麗にする、神秘的なもの……えっと、『女神の涙』……とか?」
「……却下! 女神はあんなに軽いノリだったぞ!」
俺は全力で首を横に振る。あの女神のイメージが強すぎる。
「じゃあ……この街の名前を入れて、シンプルに『リューン石鹸』というのはどうでしょう? 親しみやすいかと」
「おお、それいいな! 分かりやすいし、覚えやすい!」
商品名は『リューン石鹸』に決定。
価格は……材料費と手間を考えると、あまり安くはできない。銅貨で……30枚くらいか? この世界の物価からすると、決して安くはないはずだ。日用品としては、やや高級品の部類に入るだろう。
「よし、次は見た目だ」
俺は石鹸の塊を、ナイフで均等な大きさに切り分けようとしたが、これが意外と難しい。断面はガタガタだし、大きさもバラバラになってしまう。
「……あの、トール様。よろしければ、私が」
見かねたリリアが、小さなナイフを手に取った。彼女が作業を始めると、驚くほどスムーズに、石鹸は同じ大きさ、同じ形の四角い塊へと切り分けられていく。手先の器用さが尋常じゃない。
さらにリリアは、店にあった端切れ布や麻紐を使って、一つ一つ丁寧に石鹸を包装し始めた。リボンのように紐を結び、小さなドライハーブ(これも店にあったもの)を飾り付ける。
あっという間に、ただの石鹸の塊が、お洒落な商品へと姿を変えた。
「……リリア、君、商売の才能あるよ! すごいじゃないか!」
「そ、そんな……! ただ、綺麗なものは好きなので……」
リリアは顔を真っ赤にして俯いてしまったが、その手元は誇らしげに見えた。彼女が自分の能力を発揮し、少しずつ自信をつけていく様子は、見ていて嬉しいものだ。
俺は手書きで簡単な説明書きを作成した。
『リューン石鹸:体を清め、肌を健やかに保ちます。優しいハーブの香り。病気の予防にも(?)。トール道具店謹製』
最後の(?)は、まあ、おまじないみたいなものだ。
準備は整った。
俺たちは、包装された『リューン石鹸』を、店のカウンター横の一番目立つ場所に並べた。説明書きも添えて。
「さあ、売れるといいな……」
「……はい」
期待と不安を胸に、俺たちは客を待った。
店の前を通りかかる人々は、物珍しそうに石鹸をちらりと見ていく。「なんだこれ?」「良い匂いがするな」そんな声は聞こえてくるが、なかなか足を止めてくれる人はいない。値段を見て、顔をしかめて去っていく人もいた。
「やっぱり、ちょっと高すぎたかな……」
「…………」
リリアも不安そうな顔をしている。
諦めかけた、その時だった。
身なりの良い、上品そうな婦人が店に入ってきた。彼女は真っ直ぐに石鹸のコーナーへ行き、興味深そうに手に取った。
「あら、これは何かしら? とても良い香りがするわね」
「い、いらっしゃいませ! それは当店オリジナルの『リューン石鹸』と申しまして……」
俺は練習した通り(リリアにダメ出しされながら)、石鹸の効果と使い方を説明した。婦人は熱心に耳を傾けていた。
「まあ、体を洗うための石……? 珍しいわね。でも、肌が健やかになるというのは魅力的だわ。一つ、試してみましょうかしら」
初めて、『リューン石鹸』が売れた瞬間だった!
銅貨30枚。決して大きな額ではないが、自分たちが作り出したものが認められたという事実に、胸が熱くなった。
数日後。
その婦人が、再び店を訪れた。
「こんにちは。この間の石鹸、とても良かったわ!」
開口一番、婦人は満面の笑みで言った。
「使ってみたら、本当に肌がすべすべになったのよ! それに、悩んでいた子供の汗疹も、なんだか良くなった気がするの! 今日はいくつかまとめて頂けるかしら?」
俺とリリアは顔を見合わせた。やった! 効果があったんだ!
婦人は石鹸を五つも購入し、「お友達にも勧めてみるわね」と言って帰っていった。
その日を境に、状況は少しずつ変わり始めた。
婦人の口コミが広がったのか、「噂の石鹸を試しに来た」という女性客が増え始めたのだ。特に、裕福な家庭の奥様方や、神殿で働く巫女さんなど、清潔さや身だしなみに気を遣う層に好評だった。
「トール様、石鹸の在庫がもうこれだけに……」
「まじか! 生産が追いつかないぞ!」
『リューン石鹸』は、俺たちの予想を上回る売れ行きを見せ始めた。店の収入も、以前とは比べ物にならないくらい増えている。嬉しい。嬉しいのだが……。
「リリア、ラード草の油、もうほとんどないぞ!」
「灰汁も、次にお婆さんのところに行けるまで持ちそうにありません……」
新たな問題が発生した。材料不足だ。
特にラード草の油は、あの市場のお婆さんから少量ずつしか分けてもらえない。このままでは、せっかくの人気に応えられない。
「もっと安定して材料を仕入れられるルートを探さないと……」
俺が頭を抱えていると、ふと、店の外の様子が気になった。
ここ数日、店の前を時々うろついている人影があるのだ。ゴロツキたちとは明らかに違う雰囲気。身なりの良い、商人風の男が、遠巻きにこちらの様子を窺っているような……。
気のせいだろうか? いや、何か引っかかる。
もしかして、うちの石鹸の情報を嗅ぎつけた同業者か? それとも……。
「……順調に行き始めたと思ったのに、また面倒事の予感か?」
材料不足、そして不穏な影。
スローライフへの道は、やはり一筋縄ではいかないらしい。俺の新たな悩みが、また一つ増えた瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます