第5話 追跡
◇◇◇
<視点:ナツキ>
あれから、一週間が過ぎた。
僕は、味気ない日常に戻っていた。
朝起きて、大学へ行き、深夜のコンビニバイトをして、狭いアパートに帰る。
以前はこれが当たり前だったはずなのに、今はすべてが色褪せて見える。
頭の中には、リナとして過ごした日々の記憶が、鮮明に焼き付いて離れない。
シルクの感触、ローズの香り、満たされた幸福感、そして──あの、身を切るような喪失感。
自分の部屋にいても、まるで自分が自分でないような感覚がつきまとう。
身体は男のものなのに、心の一部はまだ、あの満たされた“私”を求めている。
気づけば、スマートフォンの検索履歴は「リナ モデル」「リナ ランジェリー」といった言葉で埋め尽くされていた。
画面の中に映る、自信に満ちた美しいリナの姿。
特に、自分が身に纏った、あの紫のレースのランジェリーを着こなす彼女の写真を見つけると、胸が締め付けられるような感覚に陥る。
あの感覚を、もう一度。
たとえ幻でもいいから、触れたい。
衝動的に、僕は、オンラインストアで、あの時と同じ紫のレースのブラジャーとショーツのセットを注文してしまった。
届いたところで、自分が着るわけではない。分かっている。
ただ、手元に置いておきたかった。あの記憶の欠片に、少しでも触れていたかったのだ。
袋を開けることもできず、ただクローゼットの奥にしまい込む。
虚しさは、少しも埋まらなかった。
◇◇◇
<視点:リナ>
一方、リナもまた、日常を送っていた。
モデルとしての仕事は順調で、相変わらず多くの撮影をこなし、雑誌の表紙を飾ることもある。
恋人のハヤトとも、週末には穏やかな時間を過ごしている。
傍から見れば、彼女は何も変わらず、充実した日々を送っているように見えるだろう。
しかし、彼女の内には、あの日以来、ずっと消えない喪失感が巣食っていた。
ふとした瞬間に、心が空っぽになるような感覚。
満たされているはずなのに、どこか物足りない。
理由のわからない寂しさが、時折、胸をよぎるのだ。
以前はもっと、日々の小さな出来事に心からの喜びを感じられていたはずなのに。
今は、どこか一枚、薄い膜がかかったように、すべてが遠くに感じられる。
仕事での達成感も、ハヤトと過ごす時間でさえも、心の芯まで響いてこない。
(私、何を探してるんだろう……何を失くしてしまったんだろう……)
その答えは、彼女自身にもわからなかった。
ただ、漠然とした欠落感が、彼女の輝きに微かな影を落としていた。
◇◇◇
<視点:ハヤト>
(最近のリナ……)
週末、リナの部屋で一緒に映画を見ている時、ハヤトはふと隣に座る彼女の横顔を見つめた。
以前よりさらに綺麗になったし、仕事もすごく順調みたいだ。
それは嬉しい。すごく嬉しいんだけど──。
なんていうか、時々、すごく「完璧」すぎる気がするんだ。
感情の起伏が少なくなったような……?
前はもっと、些細なことで笑ったり、拗ねたり、ドジしたり、甘えてきたり……
そういう、人間らしい隙みたいなものが、もっとあった気がする。
今のリナは、どこか一枚ベールを纏っているみたいで、
本当の心に触れられていないような……そんな寂しさを感じることがある。
考えすぎかな?
仕事が忙しくて疲れているだけかもしれない。
俺が知らないところで、何か悩んでいるんだろうか……。
「……どうかした?」
リナが不思議そうな顔でこちらを見る。
「ううん、なんでもない。綺麗だなって思って」
慌てて笑顔を作る。
彼女を信じなきゃな。俺が不安にさせちゃダメだ。
でも、ほんの少しだけ、胸騒ぎがするんだ。
この穏やかな時間が、いつか壊れてしまうんじゃないかって。
◇◇◇
<視点:ナツキ>
そんなある日、ナツキの元に一通のメールが届いた。
先日ランジェリーを注文したオンラインストアからだった。
『【当選おめでとうございます!】リナさんファン感謝デー・特別握手会ご招待のお知らせ』
「え……?」
メールを開くと、そこには、ランジェリー購入者特典として抽選が行われ、
僕がその「リナとの握手会」に当選した旨が書かれていた。
会場は都内のデパートのイベントスペース。日時は、今週末。
「リナに……会える……?」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
あのリナに、もう一度会える。
融合していた時ではない、モデルとしての彼女に。
直接、顔を見て、言葉を交わせるかもしれない。
一週間、ずっと彼女の幻影を追い求めていたのだ。
これは、千載一遇のチャンスではないか?
あの喪失感を埋める、唯一の手がかりかもしれない。
しかし、次の瞬間、興奮は急速に冷めていく。
冷静になって考えれば、これは「ランジェリー購入者」向けのイベントだ。
当選した自分は、男だ。
男が、女性用ランジェリーを購入し、そのモデルの握手会に参加する。
(……行けるのか? 僕が?)
会場で、他の参加者たち……おそらくほとんどが女性だろう……の中で、
自分はどんな目で見られるだろうか。
そして何より、リナ本人はどう思うだろうか。
男性ファンがいること自体は、モデルとして理解しているかもしれないが、
ランジェリーを買ってまで会いに来た男に対して、奇異な感情を抱かないだろうか。
あの、美しく、気高いリナに、不審者だと思われたら……?
行きたい。一目でもいいから、会いたい。
この胸の空虚さの原因を確かめたい。
でも、怖い。
場違いな自分が行くことで、彼女を不快にさせてしまうかもしれない。
当選通知の画面を見つめながら、僕は激しく躊躇していた。
失われた感覚への渇望と、現実の壁との間で、僕の心は大きく揺れ動いていた。
◇◇◇
<視点:リナ>
(SNS、更新しなきゃ……)
リナは、マネージャーとの打ち合わせを終え、所属事務所のソファでタブレットを開いた。
今週末のファン感謝デー握手会。
ファンへの感謝と、イベントへの期待を伝えよう。
「今週末のファン感謝デー握手会、とっても楽しみにしています🥰
いつも応援ありがとうございます!」
まずは定型文を打ち込む。
今回のイベントは、自身がモデルを務めるランジェリーブランドの購入者特典。
(そういえば、マネージャーさんが言ってたな……男性のお客さんも、結構いるって)
ギフトなのか、コレクターなのか。理由はともかく、ありがたいことだ。
普段なら、特に意識しないかもしれない。
でも、今の、この理由のわからない喪失感を抱えている自分にとっては──
性別に関係なく、自分の仕事や存在を肯定し、応援してくれる全ての人が、等しく尊い存在に思えた。
心が、繋がりを求めているのかもしれない。
無意識に、彼女は言葉を付け加えていた。
「私がモデルを務めるランジェリー、たくさんの方に手に取っていただけているとスタッフさんから聞きました✨
購入してくださった皆様、女性も男性も、本当にありがとう!」
打ち込んでみて、少しだけ「あれ?」と思う。
普段より少し丁寧すぎるかもしれない。
でも、不思議としっくりきた。
今の自分の気持ちには、この言葉が一番合っている気がする。
(うん、これでいいかな)
彼女は、その衝動の本当の理由には気づかないまま、投稿ボタンを押した。
ファンとの交流が、この漠然とした寂しさを、少しでも和らげてくれることを願いながら。
「会場で会えるのを楽しみにしていますね💕 #リナ #ファン感謝デー #ランジェリー」
◇◇◇
<視点:ナツキ>
諦めかけていたその時、スマートフォンの通知が鳴った。
SNSアプリの通知。フォローしているリナが、新しい投稿をしたようだ。吸い寄せられるように、アプリを開く。
そこには、リナの美しい笑顔の写真と共に、握手会への意気込みが綴られていた。
そして、その最後に──
「購入してくださった皆様、女性も男性も、本当にありがとう!
会場で会えるのを楽しみにしていますね💕」
(……え? 女性も、男性も……?)
僕は、その一文に釘付けになった。
リナは、男性が購入していることを知っていた。
そして、それを当たり前のこととして受け止め、感謝の言葉を述べている。
もちろん、これは不特定多数に向けた言葉だ。僕個人に向けられたものではない。わかっている。
でも──。
(……いいのか? 行っても……)
リナ自身が、こうして「男女関係なく」と発信してくれている。
それは、まるで暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように、僕の心の中にあった躊躇いや不安を、すっと溶かしていくようだった。
場違いかもしれないという恐怖よりも、リナがそう言ってくれるなら、という安心感。
そして、やはり彼女に会いたいという強い気持ちが、再び込み上げてくる。
彼女がそう言ってくれるなら、大丈夫だ。
僕は、ファンの一人として、堂々と会いに行けばいいんだ。
「……行こう」
呟きは、決意に満ちていた。
スマートフォンの当選通知を、今度は確かな意志を持って見つめる。
週末、僕はリナに会いに行く。
この喪失感を埋めるためか、それとも、新たな何かを確かめるためか。
それはまだわからない。
けれど、一歩踏み出す勇気を、彼女自身が与えてくれたのだ。
心臓の鼓動が、期待に速まっていた。
◇◇◇
握手会当日。
会場であるデパートのイベントスペースは、華やかな雰囲気に包まれていた。
リナの美しい写真パネルが飾られ、特設ブースの前には長い列ができている。
ナツキは、その列の最後尾にそっと加わりながら、周囲を窺った。
やはり女性が多いが、ちらほらと男性の姿も見える。
とはいえ、単独で来ているのは自分だけのようだ。
気まずさを感じながら、目立たないように、自分が最後の一人になるように調整する。
列が進み、ついに自分の番が来た。
深呼吸をし、ブースの中へ足を踏み入れる。
目の前に、リナがいた。
間近で見る彼女は、写真よりもずっとオーラがあり、
そして、どこか儚げな美しさも漂わせていた。
「こんにちは」
柔らかな声と共に、彼女が微笑みかける。
差し出された、白く、形の良い手。
(リナの……手……)
融合していた時、自分のものとして動かしたはずの手。
クリームを塗り込み、ネイルを施した手。
それに今、外側から触れようとしている。
恐る恐る、自分の右手を伸ばし、その手に触れた。
瞬間、微かな電流が走ったような感覚。温かい。
そして、驚くほど滑らかな肌触り。記憶の中の感触と、寸分違わない。
同時に、リナもまた、予期せぬ感覚に襲われていた。
彼の手が自身の手のひらに触れた瞬間、まるでパズルのピースがぴたりと嵌まるような、奇妙な「共鳴感」があったのだ。
電気的なものではない、もっと深く、魂が触れ合うような、そんな錯覚。
視線が、絡み合った。
彼の瞳。他のファンが向ける憧憬とは違う、もっと深い色。
真摯で、少し切なそうで、そして、なぜか……こちらの心の奥底まで見透かしているような、不思議な深さ。
(知らない人… なのに、触れた瞬間、ずっと探していた何かが見つかったような、でも同時にすごく不安になるような… なんなの、これ…?)
リナは内心で呟く。
初めて会うはずなのに、どうしようもなく懐かしい。
そして同時に、この一週間、ずっと彼女を苛んできた、あの理由なき「喪失感」が、
これまでで最も強く、鋭い痛みとなって胸を抉る。
まるで、失ったもののかけらが、今、目の前に現れたかのように。
「あ、あの……!」
ナツキの声が上ずる。
「い、いつも、応援してます! あの……SNSの投稿、嬉しかったです……!」
しどろもどろに、それだけ言うのが精一杯だった。
リナは、動揺を悟られまいと、必死でプロの笑顔を保つ。
「まあ、ありがとうございます! 嬉しいです。そう言っていただけると励みになります。これからも、頑張りますね」
丁寧で、温かい、完璧なファンへの対応。
けれど、握られた手の力が、ほんの僅かに強まったのを、ナツキは感じた。
そして、彼女の瞳の奥に、またしても、一瞬だけ、説明のつかない感情──
戸惑い? 懐かしさ? ……が揺らめいたように、ナツキには感じられた。
「お時間でーす」
スタッフの無情な声。
名残惜しさを感じながらも、ナツキは手を離し、一礼してブースを後にした。
わずか30秒。
触れた手の温もりと、一瞬見えた彼女の瞳の揺らぎ。
それだけが、やけにリアルな感触として残っていた。
リナは、僕に気づいたのだろうか?
いや、そんなはずはない。
けれど、あの瞬間、確かに何か、言葉にならない繋がりを感じた気がした。
◇◇◇
<視点:佐藤(マネージャー)>
(今の男性ファン……)
握手会が終わり、片付けを見守りながら、マネージャーの佐藤は、
最後に対応していた青年のことを思い出していた。
他のファンとは少し違う、妙に真剣な、切なげな目をしていた気がする。
そして何より、彼と握手している時のリナさんの様子が、
一瞬だけ、いつもと違ったような……?
(……気のせいかしら)
最近のリナさんの様子が、どこかおかしいのだ。
大きなスランプではないが、輝きが翳り、時折、魂が抜けたように遠くを見ている。
あのSNSの投稿も、普段なら書かないような「男性も」なんて一文をわざわざ加えていたし……。
何か、心に引っかかることがあるのかもしれない。
あの青年が何か関係しているとは考えにくいけれど……。
少しだけ、注意しておいた方がいいのかもしれない。
佐藤は、マネージャーとしての勘のようなものを感じながら、
リナの待つ控室へと向かった。
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