第4話 分離

リナの部屋、リナの身体、リナの日常。

融合した「私」は、そのすべてに驚くほど早く順応していた。


夜。柔らかなシルクのナイトウェアに身を包み、ローズ系の香りのボディクリームを丁寧に肌に塗り込む。

鏡に映る、手入れの行き届いた滑らかな肌。

上品なヌードベージュのネイルが施された指先。

この身体を慈しむ感覚が、素直に心地よい。


リビングのソファに深く腰掛け、スマートフォンを手に取る。

メッセージアプリを見ると、彼氏の「ハヤト」からメッセージが届いていた。


『今日の撮影、どうだった?うまくいった?』


指が自然に動き、返信する。

リナの感情が、そのまま「私」の感情になっているかのように。


『うん、すごく順調だったよ!アニヤのフィッティングも手応えがあったよ。

早くハヤトにも見せたいな、あの深紅のランジェリー』


『おお、それは楽しみだ! 今週末、会えるの楽しみにしてるよ』


『私も♡』


彼との、穏やかで愛情のこもったやり取り。

心が温かいもので満たされていく。


仕事の充実感、手入れされた身体の心地よさ、そして、愛する人との繋がり。


(ああ……なんて満たされているんだろう……)


心の底から、そんな感情が湧き上がってくる。

この生活、この瞬間が、たまらなく幸福だと感じる。


かつてのナツキの人生では、決して味わうことのできなかった種類の、深く、豊かな幸福感。


それはもはや、借り物の感覚ではなく、リアルな「私」の感情として、ここに存在している。


……だが、その幸福感の深さと裏腹に、

ナツキとしての意識の片隅から、どす黒い感情が、無視できない大きさで込み上げてくるのを、「私」は感じ始めていた。


罪悪感だ。


(これは……私……いや……僕の人生じゃないわ)


この身体も、この部屋も、この仕事の成功も、ハヤトからの愛情も――

すべて、リナという一人の女性が、懸命に生きて築き上げてきたものだ。


それを、僕(ナツキ)が、彼女に何の断りもなく成り代わり、まるで自分のもののように享受している。


彼女が本来受けるはずだった賞賛を、「私」が受け取り、

彼女が感じるはずだった幸福を、「私」が感じている。


これは、一種の「搾取」ではないのか?

彼女の人生を、僕は盗んでいるのではないか?


ハヤトからの優しいメッセージに心が温まるたびに、罪悪感が鋭い棘のように突き刺さる。


彼が愛しているのは「リナ」であって、

その身体の中にいる「ナツキ」ではないのだ。


彼を騙している。その事実に、胸が締め付けられる。


美しいナイトウェアに身を包み、高級なクリームで肌を慈しむ。

その行為自体が、彼女のプライバシーへの侵略のように感じられてくる。


彼女の無意識の領域に土足で踏み込み、

そのすべてを自分の快楽のために消費しているのではないか?


(こんなことを続けて、いいはずがない……)


この幸福感は、あまりにも「重い」。

それは、僕(ナツキ)が本来負うべきではない、他人の人生への責任と、罪の意識を伴っている。


このまま彼女の人生を盗み続け、幸福感に浸っていることは、倫理的に間違っている。


(一度、離れなきゃ……)


それは、実験や好奇心からではなかった。


この、耐え難い罪悪感から、一時的にでも逃れたいという、切実な思いからだった。


彼女の人生をこれ以上汚さないために。

そして、自分が何者であるのかを、たとえ厳しい現実の中であっても、再確認するために。


たとえ、この満たされた世界を手放すことになったとしても――

それが、今の自分が取るべき、唯一の道のように思えた。


フォーラムで見た「解除は可能らしい」という不確かな情報。

その方法が具体的に分からなくても、強く念じれば、あるいは――。


(……解除して……!)


深呼吸一つ。「私」の中のナツキの意識が、システムへの接続を試みるように、あるいはただ強く、分離を念じる。


今、感じている幸福を手放すことへの恐怖よりも、

この罪悪感を抱え続けることへの耐え難さの方が、わずかに勝っていた。


瞬間、世界がぐにゃりと歪むような感覚。


身体を包んでいた温かさ、シルクの滑らかな感触、微かに香るローズの匂いが、急速に薄れていく。


リナの意識、記憶、感情が、まるで潮が引くように「私」の中から遠ざかっていく。


豊かな胸の重みも、柔らかな曲線も、指先の繊細な感覚も、すべてが失われて――



<視点:ナツキ>

次の瞬間、僕は、見慣れた自分の部屋の、硬いベッドの上に横たわっていた。


着ているのは、融合前に着ていた、くたびれたTシャツとスウェット。


(……戻ったのか)


自分の手を見る。ゴツゴツとした、男の手だ。

磨き上げられたヌードベージュのネイルなど、どこにもない。


肌に触れる。カサついた、男の肌。

ローズの香りのボディクリームの滑らかさはない。


部屋を見渡す。リナのマンションのような洗練された雰囲気はなく、雑然とした、ただの男の部屋。


そして何より……心の中が、がらんどうになったような感覚。


さっきまで確かに感じていた、あの満ち足りた幸福感が、嘘のように消え去っている。


仕事の達成感も、恋人との温かい繋がりも、美しいものに囲まれる高揚感も、今はもうない。


罪悪感は……ある。だが、それ以上に、すべてを失ったことによる、圧倒的な空虚さが胸を満たしていた。


(……ない)


きらびやかなランジェリーも、肌触りの良いナイトウェアも、手入れされた爪も、滑らかな肌も。

女性として「見られる」ことを意識した、あの心地よい緊張感も。

ハヤトとの温かい時間も。


すべてが失われた。


代わりに残ったのは、形容しがたいほどの「喪失感」。


まるで、自分の大切な一部分が、ごっそりと抜け落ちてしまったかのような感覚だ。


さっきまでいた、あの華やかで、満たされた世界が、まるで夢だったかのよう。


(……これが、罰なのか……?)


罪悪感から逃れるために解除した結果が、この耐え難いほどの虚無感。


リナとして生きていた時間に感じていた幸福感は、たとえそれが「盗んだ」ものであったとしても、

僕にとってかけがえのない、リアルなものだったのだ。


それを失った代償が、この空虚さなのか。


元の男の身体に戻った今、感じるのは、色のない、味気ない現実だけ。


罪悪感に苛まれながらも感じていた、あの幸福感が、今はひどく懐かしく、

そして、失われたものの大きさを物語っていた。


罪悪感から逃れるための解除だったはずが、

その結果として訪れたのは、予想もしなかったほどの、深い喪失感だった。


僕は、ただ呆然と、自分の男の手を見つめることしかできなかった。


この空虚さを、これからどう埋めていけばいいのか、皆目見当もつかなかった。



<視点:リナ>

翌朝。

リナは、いつもより少し早く目が覚めた。


窓から差し込む柔らかな朝日が、静かな寝室を照らしている。

シルクのナイトウェアの感触も、肌触りの良いシーツも、何も変わらないはずなのに――


(……なに、これ……?)


身体を起こした瞬間、まるで心に大きな穴が空いたかのような、途方もない喪失感に襲われたのだ。


理由がわからない。昨夜は、彼(ハヤト)と穏やかなメッセージを交わし、満たされた気持ちで眠りについたはずだ。

悪い夢を見た記憶もない。


それなのに、今、胸の奥には、どうしようもないほどの空虚感が広がっている。


まるで、ついさっきまでここにいたはずの、何かとても大切な存在が――

温かい何かが、忽然と消えてしまったかのような感覚。


(……誰か、いた……?

ううん、そんなはずは……)


そんなはずはない。この部屋には自分一人だ。


けれど、昨夜の眠りの中で、あるいは今朝方まで――

自分の意識の中に、自分ではない誰かの気配があったような……?


好奇心に満ちた、少し戸惑っているような、

それでいて真摯な……そんな誰かの視線や思考の断片が、微かに記憶の淵に残っている気がするのだ。


(変なの……気のせいよね……)


頭を振って、その奇妙な感覚を追い払おうとする。


いつものようにバスルームへ向かい、鏡を見る。


そこに映る自分の顔は、いつも通りのはずなのに、どこか物足りない。


肌の手入れをし、ボディクリームを塗る。

その行為自体は習慣としてこなせるけれど、昨日まで感じていたような、

自分を慈しむ喜びや、満たされる感覚が湧いてこない。


クローゼットを開け、今日の服を選ぶ。

美しい服が並んでいるはずなのに、どれも色褪せて見える。手に取る気になれない。


スマートフォンをチェックしても、特に変わった連絡はない。

ハヤトの優しいメッセージも、いつもなら心を温めてくれるはずなのに、今日はどこか遠くに感じられる。


(どうしちゃったんだろう、私……)


すべてが揃っているはずなのに、何かが決定的に欠けている。


あの、名状しがたい喪失感。

まるで、自分の魂の半分をどこかに置き忘れてきてしまったかのような、心細さ。


リナは、理由のわからない不安と寂しさを抱えながら、ただ窓の外を眺めていた。


昨日までの、当たり前だったはずの充実感が、今はもう、手の届かない場所にあるように感じられた。


彼女自身も気づかないうちに、ナツキとの一時的な融合とその解除が、

彼女の心にも深い影を落としていたのだった。

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