第5話 未来の僕が教えてくれないこと

ノエルは、手のひらの中で光る“記憶石”を見つめていた。


蒼白く揺らめく魔力の粒子。それに触れれば、昨日の記憶が戻る。そんな直感があった。

だがそのとき、現れた未来の自分が言ったのだ。


『それに触れるな。……世界が壊れる』


たった一言。けれど、その声には、どうしても抗えなかった。


「……わかったよ。信じる」


石を持つ手に、ゆっくりと力を込める。


バキィ。


小さな破裂音とともに、記憶石は砕けた。

冷たい風が吹き抜け、空気が震えたような錯覚。

“ひとつの選択肢”が、この世界から消えた。そう感じた。

理由はわからない。ただ、未来の自分が放った警告だけが、胸の奥で何度も反響していた。


「選択を、誤ったな」


声がした。背後には、黒ローブの女。


「……なに?」


「君の未来は、もう一つ閉じた。だが、まだ残っている」


そう言い残し、彼女は闇に溶けるように姿を消した。


ノエルはその場に立ち尽くしていた。

何を守って、何を失ったのか

そのどちらも、今はわからない。


ただ、自分が誰よりも“自分のことを知らない”という事実だけが、心に重くのしかかっていた。


翌朝。ノエルは、再び路地裏に立っていた。


死体が、ない。

あの血の海も、焼け焦げた匂いも、何も残っていない。まるで、最初から何もなかったかのように。


「……俺の“過去改変”で消えた? いや、それなら……」


背後から声がした。


「探してた。ノエル、どうした? また記憶が……?」


リアムだ。


「リアム。昨日、この場所で……男の死体を見なかったか?」


「は? 何言ってる。お前が処理したんだろ? 昨日、自分で片づけるって言って。……顔、真っ青だったぞ?」


「……俺が……?」


頭の奥を、氷のような痛みが走った。

“昨日の俺”が何をしたのか、まったく思い出せない。だがリアムの言葉は、嘘ではない気がする。


「なあリアム。俺、昨日……誰かと話してたか? この路地で」


「誰かって……ああ、黒ローブの女? ちょっとだけいたな。怖そうだったけど、すぐどっか行った」


ノエルは息をのむ。


やはり彼女は“毎日”現れている。

自分が忘れても、彼女は覚えている。

そして、未来の自分も。


「……クソ。何が起きてる……? 俺の方が、“自分”を知らない……」


ノエルは、ふと思いついた。


記憶を取り戻すことはできない。だが、“昨日の自分の行動”を辿ることはできるはずだ。


「リアム。魔導師ギルドの記録庫って、夜なら警備が手薄だったよな?」


「おい、まさか……! また捕まるぞ!」


「……構わない。確かめたい。昨日の俺が、何をしていたのか」


ノエルの目に、焦燥と決意が宿っていた。


魔導師ギルドの記録庫は、夜の帳に包まれていた。


ノエルはフードを深く被り、裏口の魔法式を慎重に解除する。

手が震えていた。けれど成功した。それが、初めてではない気がした。


(……俺は、これを何度も繰り返してる?)


闇の通路を抜け、閲覧室へ。

照明は最小限。棚の隙間を縫うように進み、貸出記録の水晶端末を起動する。


目的の書名を入力禁術資料・記憶制御編


水晶に、青白い光が走る。


検索履歴に、自分の名前が残っていた。


「……貸出者名:ノエル・フェーン……貸出日:昨日……?」


現実が、脳の理解を追い越す。


昨日の自分が、この資料を借りていた。


ならば、“記憶に干渉する手段”を、俺はもう知っていたということになる。


「でも俺は……何も、覚えてない……!」


石棚を拳で叩く。怒りでもなく、恐怖でもなく、自分自身への激しい嫌悪だった。


(誰が俺を操ってる……? 本当に、俺は……俺なのか?)


背後で、気配がした。


「混乱しているようだな、ノエル」


黒ローブの女だった。音もなく現れ、まるで夜そのもののようにたたずんでいた。


「君は今、自分を疑い始めている。だが、それでいい。それこそが、答えへ至る唯一の道だ」


「答え……?」


「気づけ。追っているのは“犯人”ではない。君自身だ」


その言葉は、闇よりも冷たく、刃のようにノエルの心を貫いた。


自分を、追っている?


だとしたら、記憶を失った俺が“犯人”で、

“記憶を持った俺”がそれを追っているということか?


「……何度も、俺は自分を殺してる……?」


黒ローブの女は何も言わず、ただ静かに視線を落とした。

その頬に、ひと筋の光が流れた気がした。けれど次の瞬間には、もう消えていた。


ノエルの内側で、何かが崩れ落ちる音がした。


そしてそのとき、彼の胸元の魔導式がかすかに点滅を始めた

過去への“帰還”が、迫っていた。


あのとき、未来の自分が見せた、あの目。

あれは、俺が“これから見る”自分の目だ。

そう思ったとき、ノエルは初めて、本当の意味で震えた。

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