12.特別な物

―千晃―

朝からずっと締め切っているカーテンの隙間から、ほんの少し光が差し込んだ。いつの間にか雨は止んだらしい。

寝癖のついた髪を手櫛で梳かしながら、ベッドから体を起こす。何もする気力が湧かないのは今に始まった事じゃないが、それにしても今日の気分は最悪だった。


―……言い過ぎた。


昨日のやり取りを、何度も反芻してしまう。

塞がりかけていた傷口を抉られた様な気分だった。

これ以上触られたくなくて、必要以上にきつい言葉を選んで……逆に彼の事を傷つけた。

俺が立ち去った後、彼はどうしたんだろう。泣き虫らしいから、もしかしたら一人で泣いていたかも知れない。バスケしようなんて、きっともう二度と言ってこないだろう。

そう仕向けたのは自分のくせに、後悔の念が渦巻いて消えなかった。

せっかく楽しそうにやっていたのに。もしも俺のせいで、バスケまで嫌になってしまったら……―。


重苦しいため息が口から溢れる。部屋の空気が悪い気がして、締め切っていたカーテンと窓を開けた。

見下ろした道路の端に、見知った顔を見つけた。向こうも俺に気づき、驚いた表情になる。

「千晃くんっ!」

「亜澄?」

窓をいっぱいまで開け、軽く身を乗り出す。

髪を一つに括った少女は、小学校のバスケクラブの部員で以前から顔馴染みだった。

「どした。何してんの」

「千晃くん、ちょっと川まで来て!」

「川?」

思わず道の向こうを見る。

ここからすぐの所に一本の川が流れている。浅い川だが、今日は雨が降って増水しているだろうし、あまり近づかないほうがいい場所だ。

「何で」

「湊先生が危ないかも知れない」

「は?」

思いがけない名前が出てきて、心臓が跳ねた。

「何……どういう事?」

「たぶん大丈夫だと思うけど、何かあったら怖いから来てほしい」

訳が分からなかったが、亜澄の焦った様子が気になり、とにかく行ってみる事にした。


着替えもそこそこに亜澄について行くと、すぐに川が見えてきた。後ろ姿で自信がないが、恐らく亜澄と仲の良い友だちらしき二人の姿も見える。

いつもは比較的澄んでいる川の色が、雨のせいで濁って見えた。流れも、少し速い。

―何故かその中へ、膝下まで浸かりながら入って行く、天城湊の背中が目に飛び込んできた。

「何やってんだ、あいつ……」

思わず呟く。亜澄が説明してくれた。

「ゆかりのハンカチが風で飛んじゃって、湊先生が取って来てくれるって言ったの」

「はあ?ハンカチ?」

「……取れたよ!」

空色のハンカチを手に、天城湊がぱっと振り返った。―その瞬間。

足を滑らせたのか、前のめりに川の中へ向かって、転倒する様子が目に飛び込んできた。


「―湊ッ!!」


頭で考えるより先に、体が動いた。

突っ掛けてきたサンダルを脱ぎ捨て、川の中へと駆け込む。

流れの中で研磨され、丸くなった小石に足を取られながら、夢中で湊の服を掴んで引っ張り上げた。

「っ、」

水を飲みかけたのか激しく咽せる湊の腕を強く掴み、岸まで引っ張って行く。

大した距離では無かったはずだが、土の上に足がついた瞬間ほっとして、へたり込んでしまった。

「千晃くんっ!」

「湊先生!大丈夫?!」

女の子達が慌てて駆け寄ってくる。

亜澄に背中を叩かれ何度か咽せた後、俺の方を見た湊は目を丸くした。

「え、千晃?何で……」

呑気な様子に、一気に頭に血が昇った。

「……っ、この、馬鹿っ!!」

思わず大きな声が出る。

「何考えてんだ、川になんか入って!雨降ったばっかで危ないって事ぐらい分かんないのかよ!」

「ご、ごめん」

「湊先生は悪くないよっ」

湊を庇うように、ゆかりが間に入ってくる。

「私がハンカチ取ってほしいって言ったから」

「あ、そうだ。ほら」

湊がゆかりにハンカチを差し出す。信じられない事に、あの状況下でずっと手に握っていたらしい。

「汚れちゃったけど、洗えばたぶん何とかなるよ」

「ありがとう、先生」

「あのなあ……」

苛立ちが収まらない。そんな物の為に、人が一体どれ程肝を冷やしたと思っているのか。

「何でこんなハンカチ一枚の為に、こんな危ない事してんだよ!」

すると、むっとした様子で言い返してきた。

「この子にとっては大事な物なんだから、しょうがないだろっ」

「ハンカチなんか他にいくらでもあるだろ」

「無いよ!」

怒ったように畳み掛けられる。

「好きな人に貰った物なら、どんな物でも特別なんだよ。代わりなんか無いだろ!」

「っ……」

思わずたじろぐ。

こんな勢いで言い返してくるとは思わなかった。もっと気が弱いかと思っていたのに。

「ねえ、千晃くん。これ覚えてない?」

ゆかりが、濡れて泥だらけになったハンカチを広げて見せてくる。

「私が泣いてたら、千晃くんがくれたんだよ」

「……あ」

空色のハンカチが、記憶の片隅に引っ掛かる。

東京へ行く日、見送りに来てくれたゆかりが泣いていたのを思い出した。

「あれからずっと大事に持ってたの。無くしたくなかったの。最初は湊先生も、危ないからやめた方が良いって言ったんだよ。でも、私が大事な物だって言ったから無理して……、だから湊先生のこと、そんなに怒らないで」

話しながら泣き出したゆかりを前にして、気まずい気分になる。

あげた側の俺はすっかり忘れていたのに、そんなに大事に持っていてくれたとは思わなかった。

「あ、湊先生!血!」

不意に亜澄が声を上げた。見ると、湊の両膝から血が流れ、足の甲まで真っ赤になっている。

「え、うわ」

言われて初めて気づいたのか、当の本人は今更慌て始めた。

「うわあ、こっちもだ」

あちこち擦りむけた所を確かめる湊を見ていたら、ため息が出た。

「ちょっと来て」

「えっ?何?」

「うち、すぐそこだから」

「うち?うちって何、え、千晃の家?」

狼狽えた様子で聞いてくるのを無視し、ひっくり返った状態で置かれていた黒いリュックを手に取る。

「これ湊の?」

「あ、うん」

「千晃くん、持つよ」

亜澄たちが申し出てくれたが、いいからお前ら早く帰れと促し、やたらと重いリュックを肩に引っ掛けて歩き出した。

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