第3章 メモリー・リコレクション
メモリー・リコレクションⅠ
終業式が終わったあと、教室はどこか浮ついた空気で満ちていた。
冬休みに入る安堵と、年が明ければすぐに早い人は受験の準備だという焦りが、誰の胸の中にも、きっと同時にあった。
それでもこの日だけは、何となく許されるような、そんな余白を感じさせる時間だった。
僕は帰り支度を終えてもすぐには動かず、窓の外をぼんやりと見つめていた。
グラウンドにはもう誰の姿もなく、乾いた風が校舎の壁をさらさらと撫でている。
そのとき、背後から声がかかった。
「なあ、ちょっと、付き合ってくれないか」
振り返ると、武が立っていた。制服のまま、鞄は肩にかけたままで。
「どこか行くの?」
そう返すと、武は視線を逸らしながら、
「いや、目的地とかは……決めてない。なんかその……漠然と、ひろちゃんとどこか行きたいなって……」
と、頭をかきながら少し困ったように笑った。
「いいよ。別に、帰ってもやることないし」
そう答えた自分の声が、思ったよりも自然だったことに、僕は少し驚いた。
電車に揺られて、僕たちはいくつか駅を越えた。
いつもとは反対方向へ、気まぐれに乗ってみよう、という武の提案だ。
制服のままの僕らだけが、まばらな車内で少し浮いていた。
「そういえば」
武が、穏やかに揺れる車内の中でふと声を掛けてきた。
「昔、夏祭りで行った神社って、まだあるのか?」
「ああ……取り壊されちゃったんだよね、最近」
「……そうか。古かったもんな」
小さく、廃れ始めていた神社だった。きっと神主もいなくなって、管理もできずに取り壊すことになったのだろう。
「残念」
武はそう言いながら肩を僕に預けるようにして項垂れた。
「一緒に、また行けたらよかった。街の顔ってすぐ変わる」
「……そうだね」
「次彗星が見られるのって八百年後とかだろ」
「適当だな」
「大体、星が降るってどういうことだよ」
「本当に、ね」
なんでもない会話が飛び交う車窓の向こうに、夕暮れが迫っていた。
雲の隙間から差す光が、冬の街を静かに染めていく。
「……あ、海」
武が小さくつぶやいた。
目を細めて外を見つめる先に、波のきらめきがあった。
「……彗星が衝突して、海ができたって、本当かな」
僕がふと、思い出したことをつぶやくと、武は身を乗り出した。
「なにそれ、初めて聞いた」
「いろんな説があるんだよね。海の水を運んだのは彗星とか……小惑星って話もある。解明されたかって言われると、微妙だけど」
「へえ……じゃあ、ここにも彗星の欠片があったりしてな。なぁ、行ってみないか」
「ふふ、いいよ」
電車を降りると、潮の匂いが混じる風が制服を撫でた。
坂をくだりながら、見知らぬ町の細い道を歩いていく。
その先に、冬の海が広がっていた。
砂浜には誰の姿もなく、波だけが淡々と打ち寄せては引いていく。
空は青から紫へと色を変えかけていて、白い月がもう浮かんでいた。
「……冬の海って、静かでいいな」
並んで海を眺める武がそう言った。
その横顔を、僕は黙って見つめる。
「夏みたいに騒がしくないし、ちゃんと向き合える気がする。景色にも、自分にも……ごまかさずに」
その言葉を聞いて、僕は小さく息を吐いた。
「あのさ、武。僕まだ謝ってない」
「何を?」
「避けて、ごめんって」
「お互い様だろ」
「無かったことにしようとしてたんだ、昔の、武と会った日のこと。恋かどうかも……僕の、わがままかもしれないのに」
武は、急に僕の手を軽く握って、緩く振った。
「いーよ、もう、そういうの」
彼の指先は、少し冷たくて、でも静かに温かかった。
「好きとかさ、わかんなくていいよ。俺もわかんねぇし」
「わかんないの?」
「うん。でも、ひろちゃんとここで見た海とか、潮の香りとか、ひろちゃんのあったかい手とかさ……。覚えていたいな、忘れたくないなってこんなに思えるのは、ひろちゃんが大事な人だからだよ」
「……そう、なの」
「今はそれだけで、いいよ」
少しの間、ぼんやりと黙って景色を眺めていた僕達は、「寒いな」と小さく笑いあいながら、海を後にした。
彗星の欠片は、見つからなかったけれど。
いつかこの日々が幸せな思い出の欠片になるのかもしれない。
砂の上に、僕らの影が長く伸びていく。
波の音が、遠くの空まで続いていた。
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