第31話
ふいに、お兄ちゃんがつぶやいた。
「……きた」
とっさに後ろを振り返る。
見えたのは、ハナさん。そのすぐ隣にいたのが、たぶんシンゴさん。 丸メガネにポロシャツ。真面目で落ち着いた雰囲気がにじんでいる人だった。
ふたりの半歩うしろに、白いワンピースの女の子が立っていた。 髪が風でふわっと揺れて、でも視線はぶれずに、まっすぐこっちを向いていた。
こていちゃん──いや、ナナミ。 あの姿がそこにあるのに、なぜか足が動かなかった。
どんな顔をすればいいのか、わからなかった。笑えばいいのか、黙っていればいいのか。あたしの中だけで、答えが決まらないままだった。
「はじめまして。ムラカミシンゴです」
とシンゴさんが挨拶をした。
お兄ちゃんとはるかさんが挨拶を返す。 あたしも、少し遅れて、ぎこちないお辞儀をひとつ。
顔を上げると、シンゴさんは、目の端をゆるめて、笑っていた。
「あなたが、この子によくしてくれた夏帆さんですね?」
「え、っと、あんまり……その、こていちゃ……ナナミに、できたこととか、別に……」
テンパって、何を言ってるのか自分でもよくわからなくなった。 シンゴさんは表情を変えずに、うなずくように聞いてくれた。
中学生のあたしに対しても、「あなた」とか、名前に「さん」をつけて、敬語で話すところからして、きっととんでもなく丁寧で、優しい人なんだと思った。
「あなたのことは、空き容量のないこの子の中に、わずかな隙間も逃さず、びっしりと記録されていました。あなたは、たくさんこの子を喜ばせようと、がんばってくれた」
急にそんなこと言われて、変な顔になった。
「いや……そんな、大したことは……」
こていちゃんが、こっちをじっと見ているのはわかっていた。でも、目を合わせるのがこわかった。
「夏帆さん、私たちね、思ったの」
ハナさんの声が、やわらかく響いた。
思った? その横で、シンゴさんが頷いて、数歩こちらへ歩いてきた。
そして、手にしていたものを、差し出してきた。
差し出されたのは、細くて、落ち着いた銀色のキーだった。 表面にはうっすら文字が彫られていて、上の方には小さなリング。 ネックレスみたいにできそうな、どこか大事にされてた感じのかたちをしていた。
預かってみたけれど、これは、何?
「こていちゃんの物理キーです」
「え……ナナミじゃ……」
言いかけて、口の中で止まった。
こていちゃんって響きが、心の奥に残っていた何かを、ノックした。
シンゴさんは、首を横に振った。
「こていちゃん、です。あなたたちの家族。いっしょに暮らしてください」
うそみたい。
昨日、あたしがこていちゃんを送り出したときのことを、そのまま、そっくり返されたような感じがした。 でも、今度は、受け取る側だった。
ぽん、と軽く背中を押された。 お兄ちゃんだ。無言のまま、行ってこいって目で伝えてくる。
あたしは、ぎゅっとキーを握りしめて、シンゴさんとハナさんに、深く頭を下げた。
歩き出すと、そこに、こていちゃんがいた。 風に揺れた髪は、うっすらとぴこぴこ光っていた。昼の光にまぎれているけど、あたしにはちゃんと見えた。
彼女は、大きな目であたしのことをじっと見ている。ぱちぱちまばたきして、何かを待っているような顔だった。
もう、どうしていいかなんて考える余裕はなかった。 あたしは、そのまま駆け寄って、こていちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「夏帆、さま……?」
戸惑った声が耳に届いたけど、何も返せなかった。
声が出なくて、代わりに、わーっと泣き声が漏れた。 顔を押しつけたこていちゃんの肩が、少しだけ揺れた。
彼女は、そっと手を動かして、あたしの背中をなでてくれた。
「泣かないでください。元気がいちばんです」
ずれてる。いつもどおり……それがいいの。 何も変わってないのが、うれしかった。
この夏の冒険は、ただの思いつきで始まった。 あたしは勝手に走って、まわりを巻き込んで、迷惑かけて、何度も立ち止まって、また走る。
無茶してばかりのあたしを、最後まで引っぱってくれたのは、お兄ちゃんとはるかさんだった。
旅先で、ハナさんとシンゴさんたちと出会い、こていちゃんの大事な過去を知ることができた。
たくさんのことがあった。たくさんの場所を見た。
こていちゃんの『しあわせ』ってなんだろうって、何度も考えた。
あたしたちといることが、彼女の『しあわせ』だとしたら、あたしは、しあわせものだ。
涙の中でにじむ景色の向こうで、シンゴさんがぽつりとつぶやいた。
「ここからは、僕らがナナミと歩いた七里御浜がいちばんきれいに見えるんです」
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