第29話

「よかったよね。こていちゃん……」


 ずっと飲み込んでた名前が、ぽろっと出た。
出したとたん、何かが崩れそうになって、慌てて上から重ねた。


「うん。これでよかった。ここで、ハナさんたちと暮らすのが、あの子のしあわせ」


 海はきれいだし、ごはんだっておいしくて。
そう、あの子には、こういう場所のほうがきっと合ってる。
だから、笑わなきゃ。ちゃんと、そう思ってる顔しなきゃ。


 だって、ハナさんたちと過ごした時間は、何年もある。
あたしたちは、まだ二ヶ月も経ってない。
向こうのほうが、きっと、ずっと大事だったはず。


 それに、ハナさんたちのほうがつらいことも多かった。
こっちは、お兄ちゃんと、なんか生活まわらないからって、そんな理由で、あの子を迎えただけなんだ。


 でも、あたしも、お兄ちゃんも、ちゃんとがんばった。
掃除も洗濯も、ちょっとずつだけど、できるようになったし。
あの子がいてくれたおかげだ。



 ……そういうきっかけをくれただけで、十分なんだ。うん。そう。うんうん。


 だけど。


 あの子が歌ってくれた、ハッピーバースデーが、どうしても忘れられない。
 


 あんなの、ただの機能。決まってたセリフ。演出。
わかってる。わかってるのに。
 うれしかった。あのとき、本当に、うれしかった。


 もっといっしょにいたいって、思ってしまった。
なのに、ここに来て、探して、見つけて、返して、これでいいって、言ったくせに。


「うう……うえっ……」


 声が出た。止められなかった。
 

 

 まわりには、誰もいない。波の音だけが、静かに届いてくる。


 あたしはただ、うずくまって、泣いた。
顔を上げるのも嫌で、石の冷たさだけが、変わらずそこにあった。
だれにも見られたくなかった。誰にも気づかれたくなかった。


 ――なのに。


 こつん。



 頭に何かが当たった。軽くて、でもちゃんと力が入ってる。


「ったく。心配させんなアホ」


 お兄ちゃんの声だった。
顔を上げると、星空の下で、お兄ちゃんが立っていた。



「おに……ちゃん」



「アホ」



 もう一度、軽くチョップが飛んできた。



「痛いし」



「アホ。じゃあ勝手にひとりで出てくな。せめてスマホくらい持ってでろ」


 お兄ちゃんはそのままスマホを取り出して、通話を始める。



「あっ、海にいたわ。連れて帰るから部屋にいてて」



 声が、少しだけ緩んでいた。


「はるかも心配してる。アホ」


 アホって、何回目だろう。
怒ってるわけでも、からかってるわけでもない。ただ、なんとなく力が抜けるような声だった。


 あたしは顔をそむけて、下を向いたまま、何も言わなかった。
隣に座る気配がして、小石がかすかに動いた。


「おまえが決めたんだろ、あいつを返すって」


「……うん」


「俺は、正直微妙だ。親父たちは許してくれるかもだけど、あいつ……こていちゃんが、この町にいるほうがしあわせかなんて、わかんねえだろ」


 その声は、責めてるわけじゃなかった。
だけど、あたしは、うまく返せなかった。うなずくのも、首を横に振るのもできなかった。


 ──そのときだった。
お兄ちゃんのスマホが、ぶるっと震えた。


「……チッ、だれだよ」


 ちょっと舌打ちして、画面を見てる。知らない番号だったみたい。
お兄ちゃんは、ぶっきらぼうに答えた。


「はいはい」


 声のトーンが、途中で変わった。


「……はい。そうです。はい」


 あたしは、泣くのも止めて、顔を上げた。
お兄ちゃんは、スマホを耳に当てたまま、少し離れたところに歩いていった。


 

 その背中が、なんだかいつもとちがって見えて、気になって、あたしも立ち上がった。


 数歩近づいて、お兄ちゃんの横顔を覗き込む。お兄ちゃんは、まるで別人みたいに、神妙な顔をして話していた。こんなふうなの、めったに見ない。


 
浜風にゆれる声はよく聞き取れなかったけど、最後だけ、はっきり聞こえた。


「はい。わかりました。明日、ですね。はい、それでは」


 そう言って、電話を切った。


「……どしたの?」


 あたしが聞いたとたん、お兄ちゃんがまた頭をチョップしてきた。


「いてっ!」


 ちょっと強めで、思わず声が出る。


「さっきから何よ!」


 ムカついて言い返したら、お兄ちゃんはなぜか笑っていた。


「ばーか」


「はぁ?」


「アホだっての、おまえ。ははっ」


「……むかつく!」


「明日、こていちゃんに会いにいくぞ」


 ……え? 


 何を言ってるのか、一瞬、意味が追いつかなかった。お兄ちゃんは、ちょっと得意そうに口を開いた。


「今の電話、ハナさんの兄貴。シンゴって人」


 言いながら、手をポケットに突っ込んで、ちらっと夜空を見上げた。


「俺らが帰ったあと、ハナさんがすぐ連絡して、そんで、今夜、急ぎでこっちに戻ってきたってさ」


「……そんな、急に?」


「でな、シンゴさん、ログ見たんだって。で、おまえが勝手に登録してた俺の番号から、連絡くれた」


 あたしは、はっとした。あのときのやりとりが、頭の奥から浮かんでくる。


「ご主人さまは、未成年と判定されました」――なんて言われて、あたし、適当にお兄ちゃんの番号を教えたんだった。あれが、残ってたんだ。


「……でも、なんで電話なんか」


「明日、もっかい会って話したいって」


 お兄ちゃんの声は、落ち着いていた。


「おまえさ、全部自分で決めただろ。あいつが本当にどうしたいかなんて聞かず」


「……だって」


 言いかけた言葉を飲み込んだ。だって、それを聞いたら、あたし、引き止めちゃうかもしれないから。


「こていちゃんさ、おまえから離れたいなんて、ひとことも言ってねえ」


「……わかんないよ」


「はぁ。まあいいわ」


 お兄ちゃんは、ちょっとだけ意地悪そうな顔でため息を吐いて、言った。


「明日、こていちゃんが、おまえといっしょに住みたいって言ったら、ちゃんと受け止めろよ」

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