第一章

第1話

 午後9時

 僕は陽菜と二人で、バルコニーにいた。

 足元には大理石のタイルが敷き詰められている。

 映画のワンシーンに出てきそうな、広くて優雅な空間だった。


 夜空には満点の星と、にじむような月。

 その光が海面にゆらゆらと反射している。

 まるで、この瞬間だけが世界のすべてみたいだった。


「あのさ……」


 僕は陽菜に声をかける。

 すると、彼女は空から視線を外し、ゆっくりと僕を見た。

 鼓動がうるさい。

 胸が、どくんどくんと波打っている。


「……いや、やっぱりなんでもない」

 言えなかった。彼女のそばにいたいなんて。

 支えたい、一緒に幸せになりたい、そんな思いは胸の奥に沈めた。

 今の関係が壊れるのが、怖かった。人間関係は、綱渡りだ。たった一歩の踏み外しで、すべてが終わる。


「そっか」


 陽菜は、いつも通りに笑った。何もなかったみたいに。彼女の笑顔は、太陽のように明るい。僕みたいな日陰者でさえ、その光で照らしてくれる。


「こんなに夜空がきれいなのに、明日は大雨なんて信じられないね。明日も晴れてくれればいいのにな」


 そう言って、陽菜は月に手をかざした。

 指先が、夜の闇にすっと溶けていく。

 

 ──このとき、僕たちはまだ、想像もしていなかった。

 この旅行が、あんな結末を迎えるなんて。

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