第18話 祖国にて3(別視点)
じめじめと湿気が肌を這う深いな空間に、足音が響き渡る。
柵で封じられた小部屋が並ぶ場所――地下牢を、オズベルトは護衛複数人を引き連れて歩いていた。
突然の訪問者たちに気づいた囚人たちが、悲鳴をあげ、助けを請うように汚れた手を伸ばす。しかし、護衛たちが瞬時にその手を払うと、体勢を崩して倒れた囚人の口から、呻き声があがった。
皆の足が、とある牢の前で止まる。
オズベルトの視線が、牢の中にいる白髪の老人に向けられた。瞳を閉じ、両手を組んで祈りを捧げている姿を見た途端、侮蔑の色を浮かび、嫌悪感が露わとなる。
「ネルロ。この国の聖女たちを否定するお前が、守護獣シィ様に祈っているのか? この恥知らずが」
老人――前神官長であり、セレスティアルの育ての親であったネルロは、微動だにしなかった。王太子がすぐ傍にいるというのに、瞳を開くことすらせず、一心に祈り続けている。
貧相な服から出ている手足には、無数の傷や痣が見えた。頬も痩せこけ、肌には、精神的負担からくる深い皺が刻まれている。
偽聖女であるセレスティアルを供儀に参加させたこと、そして彼女こそが本物の聖女であると主張したため、オズベルトがその主張を撤回させるため、暴行を指示したのだ。
だが、ネルロはかたくなに主張を撤回しなかった。そして今も、静かに祈りを捧げる毎日を送っている。
強い意志と凜然たる態度に、オズベルトたちの行いこそが間違っているのではないかと、錯覚させられそうになる。
ネルロの態度もそうだが、彼の姿を見ると、セレスティアルの顔が思い浮かぶのも不快だった。
痩せこけた、惨めな姿。
長い黒髪に艶はなく、青い瞳は疲労でむくみ、オズベルトを前にすると、いつも恐れを滲ませていた。
貴族令嬢として美しさと教養を磨いてきた他の聖女たちとは生きる世界が違う、孤児の平民。
そんな女が自分の婚約者候補として名前が入っているだけでも、おぞましい。
姿が美しければ、愛玩用として飼うことも出来たが、あの貧相な身体では食指も動かない。
とはいえ、ネルロ自らが見いだし、聖女として育ててきた女。
聞くところによると、セレスティアルが供儀で倒れるたび、ネルロは彼女の体調を気遣い、様々な配慮をしていたらしい。
(聖女の儀式も受けていない、偽物の分際で……)
心の中で毒つく。
そのとき、ネルロが口を開いた。しばらく話していなかったからか、声は弱々しく、かすれている。
「殿下……以前わしがお話しましたとおり、隠し部屋を見て頂きましたか?」
隠し部屋とは、神官長室の地下にあるとされる部屋のことだ。そこには本当の聖女に関する記録が保管してあると、捕まった当初、ネルロが主張していたのだ。
その記録には、聖女は元々守護獣に捧げる力をもって生まれ、守護石と呼ばれる特別な石で『見つける』ものだと書かれていたのだという。選んだ女性を儀式で聖女にする今の方法とは、違っているのだと。
(六百年前に見つかった聖女が、記録に残っている最後の聖女だと言っていたな。確か……ウルシラとかいう、当時の王女だったとか。それにウルシラの傍には常に守護獣シィ様がいて『白き聖女』だなどと呼ばれていたとかなんとか……)
まあオズベルトにとって、名も知らぬ遠い先祖の話など、退屈なだけだったが。
とにかく、ネルロはその守護石とやらでセレスティアル――本物の聖女を見つけたのだと、捕まってから告白したのだ。そして何度もオズベルトに、隠し部屋にある守護石を、セレスティアルに触れさせるよう、懇願してきたのだ。
そんなことを頭の隅で思い出しながら、オズベルトは馬鹿にするように鼻で笑った。
「もう、あの女が本物か偽物か証明する必要はない。何故なら……お前が大切にしていた偽聖女は、この国から追放されたからな」
オズベルトの予想通り、今まで何の反応も見せなかったネルロが、勢いよく目を見開いた。祈りの体勢を崩し、牢の柵に掴みかかる。
「セレスティアルを……追放? 結界の外に出したのですか!? 結界の外が、人間が生きていけない場所だと分かっていながら!!」
「ああ、そうだ」
オズベルトが頷くと、ネルロは両膝から崩れ落ちた。柵を掴んでいた手がズルズルと落ち、床の上にだらりと垂れる。ネルロの薄紫の瞳が呆然と、カビが生えた床を見つめている。
自失呆然となっているネルロを、オズベルトは嘲笑した。
「皆が、あの女を偽聖女だと判断したのだ。後はお前だけだ。だが……」
身を屈め、ネルロと視線を同じにして囁きかける。
「お前が、あの女を偽物だと……今までの自分の発言は、あの女に吹き込まれた戯言だったと認めれば、ここから出してやる」
ネルロは未だに一部の貴族たちからの信頼が厚い。クロラヴィア王家に、ネルロを解放しろと要求する声は少なくなく、彼が育ててきたセレスティアルを一方的に追放したことに対しても疑問の声が上がっていた。
とはいえ、セレスティアルを追放したことは、時間が経ってから発表されたため、今更助けに行こうとする者はいなかったようだが。
ここでネルロが自身の発言を撤回すれば、セレスティアルを追放した正当性も認められ、全てが丸く収まる。
それを狙っての取引だった。
しかし、
「わしが発言を撤回することはないでしょう。これから先も」
静かすぎるネルロの声が、地下牢に響き渡った。
他の囚人たちが騒がしいというのに、それは確かにオズベルトの耳に届いた。
全てを見透かすような静けさをたたえた薄紫の瞳が、オズベルトを真っ直ぐ見据える。
「それがあの子を守れなかったわしが出来る、唯一の償いですから」
ネルロの瞳に初めて憎しみが浮かぶ。その気迫に、オズベルトは僅かにたじろいでしまったが、王太子としての威厳をなんとか保った。
敵意を見せていたネルロの全身が、脱力した。呆れたように、薄く笑う。
「ウルシラ様を最後に、聖女の記録は途切れておりました。恐らく、それ以降、聖女が見つからなかったのでしょう。そしていつ頃からか……今のように、儀式で聖女を生み出す方法へと変わった。しかし、その理由は我々に伝わっておりません」
「六百年も経てば、理由など失われても仕方ないだろう」
「……それか、理由が分かれば困る事情があったのかもしれませんな。聖女の真実を、隠し部屋で守らなければならなかった理由と同じように」
「一体何が言いたい、ネルロ」
的を射ないネルロの発言に、オズベルトは思わず語気を荒くした。だがネルロは驚くこともなく薄く笑い返すと、
「耄碌した年寄りの戯言ですよ、殿下」
そう言って姿勢を正した。両手を組み瞳を閉じる。この発言を最後に、ネルロは祈りを捧げ始めた。もうオズベルトのことは見ていなかった。
舌打ちし、オズベルトが柵を蹴った。鈍い金属音が地下牢に響く。それでも微動だにしないネルロを憎々しげに見ながら、叫ぶ。
「セレスティアル同様、お前も惨めに死んでいけ!」
捨て台詞を吐くと、オズベルトは護衛を連れて立ち去った。
一人残されたネルロの脳裏に浮かぶのは、娘として育ててきたセレスティアルの笑顔。
孤児となり、売られそうになっていたところを、寸前でネルロが救った。そんな過去がありながらもセレスティアルは真っ直ぐに、そして心優しい娘へと育った。
供儀の度に謎の疲労感に襲われ倒れるのが、可哀想でならなかったが、原因が分からなかった。
しっかり休息すれば元気になったので、様子を見ながら、セレスティアルの体調の原因を探っていたのだが、原因を突き止める前に、ネルロは捕らえられてしまった。
その後、セレスティアルを取り巻く環境が悪化したことは、オズベルトの発言から窺い知ることが出来る。だからこそ、もう少し詳しい調査をしてからと口をつぐんでいた隠し部屋と聖女の真実の件を話したのだが。
もっと早く、隠し部屋の件を告げるべきだったかと自問するたびに、変わったかも知れないという後悔と、今の王家では無駄だったという諦めが、頭の中で争う。
今でも、聖女の真実が隠されていたこと、聖女を見つけ出す方法が変わった理由が現在に伝えられていない事実が、どうしてもネルロの心に引っかかっている。
だがセレスティアルが死んだ今、どうでもいいことだ。
「……セレスティアル、守ってやれずにすまなかった。さぞかし苦しかっただろうな……」
少し濁った薄紫の瞳から、滴が落ちた。
だが深い悲しみの中に、僅かな安堵が浮かび上がる。
乾き、ひび割れた唇が、動く。
「これで良かったのかもしれん。このまま長きに渡り酷使され続け、苦しむ未来を思えば……ずっと……」
彼の呟きは、囚人たちの叫びと悲鳴にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
その後ネルロは、再び地下牢を訪れたオズベルトによって、神官長室にあった隠し部屋には何も残っていなかったと聞かされることとなる。
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