小説:階層の向こう側〜この世界に背負わされた罪〜
ゆか
微笑みの奥、息を止めて
私は、
たぶん、
“恵まれている”ほうの人間だったと思う。
都内のインターナショナルスクールに通い、
中学からは私立の名門に進んだ。
父は東大卒。
母は、昔、銀座でホステスをしていた。
でもそんなこと、
誰にも言ったことはない。
母は、
父と結婚する前に
ホステスを引退していたし、
そのあとはただ、
普通の”お母さん”として生きていたから。
私は、
努力すれば、
きっと何だって手に入ると思っていた。
成績も、
進学も、
未来も。
だけど、たまに思う。
与えられた期待に応え続けるのは、息を止めて泳ぐのに似ている。
笑顔を作るのも、成績を取るのも、「優等生」でいるための呼吸法だった。
だけど、本当は、
いつまでこの水面の下で溺れずにいられるだろうって、怖くなる夜もあった。
与えられたこの環境に感謝して、
裏切らないように、
一生懸命に生きてきた。
──たったひとつ、
「愛」以外は。
あの日、
駅前で、
ひとりの少年に声をかけられるまでは。
その無邪気な笑顔が、
私の世界を、
少しだけ狂わせた。
これは、
“いい子”でいようとした私が、
“ただの女の子”に戻ってしまった、
たった数ヶ月の物語だ。
あの日、美咲は駅のロータリーで、
ほんの出来心だった。
コンビニの袋を下げて、
いつもの帰り道を歩いていたとき、
斜め向こうから歩いてきた翔太に声をかけられた。
「ねぇ、今から暇?」
金髪に近い明るい茶髪。
制服の着崩し方はだらしなくて、
見るからに地元のヤンキー高校の生徒だった。
(──最悪。)
本当は無視するつもりだった。
だけど、
その瞬間、美咲の視線は翔太の顔に引き寄せられた。
バカみたいに整った顔立ちだった。
彫りの深い目鼻立ち、
いたずらっぽく笑う口元、
少しだけ鋭い眼差し。
(──かっこいい。)
気づいたときには、
美咲は立ち止まっていた。
インターナショナルスクールに通う美咲の周りには、
もっと育ちのいい、
もっと穏やかな男の子たちしかいなかった。
礼儀正しく、
英語もペラペラで、
将来の話をすることに躊躇いのない、
そんな”良い子たち”。
未来の話をするときの、あの空虚な安心感が、たまらなく息苦しかった。
でも、翔太は違った。
私の中の、誰にも見せたことのない欠けた部分が、彼に手を伸ばした。
無鉄砲で、
空気を読まなくて、
でも、
妙に惹きつけるものを持っていた。
その夜、二人でマックに入って、
くだらない話をした。
翔太は言葉を選ばず、
失礼なことも平気で言った。
「インターってさ、やっぱ金持ちが行くとこだろ?w」
「お前、英語とか喋れんの? うぇー超ウケるんだけどw」
美咲は呆れながら、
でも笑っていた。
その無遠慮な言葉に、少しだけ胸を刺された。
でも同時に、それが羨ましくもあった。
言いたいことを、こんなにも簡単に言えるなんて。
バカなのはすぐに分かった。
たぶん、夏目漱石なんて一生読まないだろう。
勉強すらちゃんとしたことがないだろう。
でも、それでも。
(──楽しかった。)
本当は、こんな風に笑う自分を、どこかで咎めていた。
でも、その感覚すら、どうでもよくなるくらい楽しかった。
“普通”じゃない人と話すのが、
“普通”じゃない生き方に触れるのが、
あのときの美咲には、
どうしようもなく眩しくて、
どうしようもなく怖かった。
この時間が、どこかで間違いに続いている気がした。
本当は、立ち止まるべきだった。
こんな世界に、足を踏み入れちゃいけなかった。
でも──
息ができると思った。
いつも胸に張りついていた見えない重しが、少しだけ、外れる気がした。
恋に落ちるなんて、
一瞬だった。
美咲は、
翔太の”顔”に惚れた。
彼の中身を知らないまま、
いや、
知った上で、
惹かれてしまったのだ。
それが、
始まりだった。
土曜日の朝。
美咲は、
ドラッグストアのコスメ売り場で、
ふと足を止めた。
リップグロスなら、もう持っている。
以前、
「少しだけ大人っぽく見えたくて」
買った一本。
でも、今日の気持ちは違った。
もっとちゃんと、
もっと本気で、
“女の子”になりたかった。
(──翔太の隣にいて、
見劣りしないくらい。)
自分に足りないものを、ひとつでも埋めたくて。
そうしなきゃ、彼の隣に立つ資格なんてない気がした。
手を伸ばしたのは、
小さなファンデーションと、
きらきらしたパレットのアイシャドウだった。
指先が震える。
(ファンデなんて、
使ったことないのに。)
(アイシャドウなんて、
塗り方もよくわかんないのに。)
それでも、
カゴに入れた。
──翔太に、
もっと可愛いって思われたい。
それだけだった。
レジで会計を済ませ、
袋を握りしめながら店を出た。
胸の奥で、
何かが高鳴っていた。
(──私、
ちゃんと変わりたいんだ。)
手のひらにのったファンデーションは、小さな盾みたいだった。
怖かった。
でも、何も変わらなければ、何も守れない気がした。
⸻
家に帰ると、
キッチンで料理していた母・彩香が、
ちらりと美咲を見た。
「おかえり。」
「……ただいま。」
美咲は、
カバンを体に押し当てながら、
そそくさと靴を脱いだ。
その動きに、
母親の目がすっと細まった。
「──買い物?」
何気ないふうを装った質問。
「うん。
ちょっと、ドラスト寄っただけ。」
「あら。
何か必要なものあった?」
「……別に。」
ごまかせる自信なんてなかった。
でも、気づかないふりをしてほしくて、目を合わせなかった。
美咲は答えながら、
自分の声が妙に高くなっていることに気づいた。
(やばい、バレてる。)
カバンの中には、
さっき買ったばかりのファンデとアイシャドウ。
初めて自分で選んだ、
“本格的なメイク道具”。
美咲が部屋に逃げ込んだあと、
キッチンに残された彩香は、
ゆっくりと包丁を置き、
深く息を吐いた。
(──誰か、好きな男ができたな。)
娘の変化に、
母親は敏感だった。
本当は、応援してあげたいと思った。
でも、痛い目を見る未来が、ありありと想像できてしまった。
初めてファンデを買う。
初めてアイシャドウを試す。
それは、
ただのお洒落心じゃない。
好きな男に、
ちゃんと「女の子」として見てもらいたいという、
切実な願いだ。
(誰なのかはわからないけど、
ろくなやつじゃない気がする。)
不安が、
胸の奥でじわりと広がった。
母親の勘は、
得てして、
当たるものだった。
日曜日の午後。
美咲は、
ファンデーションを丁寧に塗った顔で、
駅の改札前に立っていた。
アイシャドウも、
動画を見ながら必死に練習した。
(──大丈夫。
今日の私は、
昨日までとは違う。)
そう信じていた。
改札から翔太が現れた。
「おーっす!」
だるそうに手を振るその姿に、
胸が高鳴る。
けれど──その隣に、
女の子たちが数人いた。
濃いメイク、
爪には派手なネイル、
ミニスカにルーズソックス。
(……誰?)
翔太は悪びれもせず、
「うちの学校の友達な!」と紹介した。
「やっほー、彼女?」
ギャルたちのひとりが、
くすくす笑いながら美咲を見た。
その視線は、
上から下まで舐めるようだった。
「うっわ、
地味じゃね?」
「どこのお嬢様だよ、やべーw」
「インターだっけ?超ウケるw」
軽い、
だけど鋭い嘲笑。
美咲は、
何も言えなかった。
顔が、
かっと熱くなる。
(──悔しい。)
(──でも、あんなふうに笑えたら、どれだけ楽だっただろう。)
アイシャドウを塗った目元が、
恥ずかしくて、たまらなかった。
ギャルたちは、
笑いながらその場を離れていった。
彼は、悪くない。
そう思いたかった。
だけど、
彼の隣にいる自分が、
誰よりもみじめに見えてしまうのは──
誰のせいでもない、私自身の心だった。
翔太は、
「気にすんなよ!」と笑った。
「オマエの方が可愛いし!」
そう言って、
軽く頭を撫でた。
でも、
美咲の胸には、
どうしようもない小さな棘が刺さっていた。
(──負けた。)
そんな言葉が、
心のどこかで、
こだました。
ギャルたちの方が、
ずっと大人びていて、
ずっと”女”に見えた。
ルーズソックスも、
派手なメイクも、
“バカっぽい”と笑っていたはずなのに。
(──私、あの子たちに、
なれないかもしれない。)
美咲は俯きながら、
そっと唇を噛んだ。
本当は、どこかで笑っていた。
ああいう子たちは、努力しないで”楽な道”を選んだんだって。
自分は違う、ちゃんと積み上げてきた、って。
でも今は──どちらが正しかったのか、わからなかった。
今まで、
進路売春婦だの、
バカだのと、
友達と一緒に笑っていた。
でも、
実際に目の前にすると、
自分が”女”として負けている気がして、
悔しくて、苦しくて、
何も言えなかった。
翔太は、
そんな美咲の心の動きに、
まったく気づかなかった。
ギャルたちが去ったあとも、
美咲は、
うまく笑えなかった。
翔太は何も気にしていない様子で、
自販機で缶コーヒーを買いながら言った。
「……あの二人さ、
実は今、
TikTokでちょっとバズってんだよな。」
「……え?」
思わず聞き返すと、
翔太は缶コーヒーを渡しながら、
悪びれずに続けた。
「今日一緒にいた、あの金髪の方と、もう一人。
“地元最強ギャルコンビ”みたいな名前でやってんだわ。
地元の駅前で踊ったりして。
結構ウケてんだよ。」
美咲は、
返す言葉を失った。
駅前で踊るギャル。
それを撮影して、バズって、
たくさんの”いいね”をもらう少女たち。
(──私とは、
生きている世界が、
違う。)
翔太は缶コーヒーをぐびりと飲んで、
さらに言った。
「将来はキャバ嬢になりたいんだってよ、二人とも。
“めっちゃ稼いで、親とは別に家借りる!“ってさ。
マジで笑えるよなw」
無邪気な口調。
でも美咲は、
笑えなかった。
家庭がぐちゃぐちゃで、
逃げ場もなくて、
それでも
“今の自分たち”を武器にして、
必死に世界に食らいつこうとしている少女たち。
バカにされるべきじゃない。
軽蔑できるはずもない。
(──でも。)
(私は、
あの子たちと、
同じにはなれない。)
心の奥に、
冷たくて、
寂しい壁ができた。
どこかで見下していた。
どこかで怖がっていた。
本当は、
勝ち組だの負け組だの、
そんなものに縛られたくないのに。
翔太は、
美咲の沈黙に気づかないまま、
楽しそうに話を続けていた。
その無邪気さが、
美咲には少しだけ、
遠く感じられた。
こんな他愛ない時間が、ずっと続けばいいのに。
でも──ふと、そんな甘さが許されない未来が頭をかすめた。
駅前のベンチに並んで座りながら、
缶コーヒーを飲んでいたときだった。
翔太が、
ふと無邪気に訊いた。
「なぁ、美咲って、
将来なにになりたいの?」
不意打ちだった。
美咲は少しだけ迷ってから、
答えた。
「──医者になりたいの。」
翔太の目が、
ぱっと見開かれた。
「医者!?
マジかよ、すっげーじゃん!」
心からの驚き。
何の打算もない、
素直な賞賛。
でも、
その次の言葉で、
美咲の胸に、
小さな棘が刺さった。
「俺のクラスで一番頭いい女が、
看護師目指してんだよな!」
翔太は、
にかっと笑った。
「医者なんて、
ドラマの中の人だと思ってたわw
リアルに目指してるとか、
マジ尊敬する!」
美咲は、
笑った。
ちゃんと、
笑ったつもりだった。
でも、
胸の奥が、
少しだけ冷たくなった。
(──そっか。)
(翔太の世界では、
看護師になることが、
“最高に頭がいい子”の未来なんだ。)
馬鹿にしているわけじゃない
ただ、悲しかった。
彼には、見えている世界が、あまりにも違ったから。
(それが、
当たり前なんだ。)
美咲の通っているインターナショナルスクールでは、
「医者」も、
「弁護士」も、
「外資系のコンサルタント」も、
未来の選択肢の中に普通に並んでいる。
でも、
翔太の通うヤンキー高校では、
「看護師」が、
到達できる精一杯の”成功”だった。
(──これが、
格差なのかもしれない。)
自分たちが生きてきた世界。
見てきた未来。
当たり前に目指す場所。
それが、
こんなにも違う。
翔太は、
何も気づかず、
缶コーヒーを飲み干していた。
美咲は、
黙って、
缶を握りしめた。
言葉にできないまま、
そっと、
目を伏せた。
深夜一時。
机に向かい、
必死に問題集を解く美咲。
土日の夜、
こうして深夜まで勉強するのは、
“罪滅ぼし”だった。
平日に、
たった一度、
塾をサボって翔太と会うために。
(これくらい、頑張ってるんだから自由な時間がたまにはあってもいい──)
問題集に目を落としながら、ふと──笑った翔太の顔が浮かんだ。
無邪気で、まっすぐで、未来のことなんか何も考えてなかった。
(──羨ましいな。)
そんなことを思ってしまった自分に、ぞっとした。
自分に言い聞かせるように、
赤ペンを走らせていたときだった。
コンコン、とドアがノックされた。
「美咲、ちょっと来なさい。」
低い、
感情を抑えた母・彩香の声だった。
美咲は、
血の気が引くのを感じた。
(──バレた。)
リビングへ行くと、
テーブルの上に、
塾からの欠席連絡票が置かれていた。
「これ、どういうこと?」
彩香は、
腕を組み、
冷たい目で美咲を見た。
美咲は、
声を詰まらせたまま、
何も言えなかった。
「たった一日くらい、って思った?」
静かに、
淡々と。
「たった一日、
好きな男と遊びたかった。」
「たった一日、
楽しかったから、
それでいいと思った。」
「──そういう甘えが、
どれだけのものを失わせるか、
あんたは知らない。」
美咲は、
俯いた。
唇が震える。
彩香は、
テーブルに手を置き、
ゆっくりと、
低い声で言った。
「いい?
あんたは今、
何も心配せずに、
勉強だけしてればいい環境にいるの。」
「家に金を入れるために、
毎晩深夜まで働くこともない。」
「親の顔色を伺いながら、
飯を食う必要もない。」
「進学できるか不安で泣く必要もない。」
「──それが、
どれだけ贅沢なことか、
わかってる?」
美咲の頬に、
熱いものが滲んだ。
でも、
泣くのは違うと、
必死で堪えた。
「一瞬の気の緩みで、
あんたの未来は簡単に潰れる。」
「そんな世界を、
私は嫌というほど見てきた。」
「──甘えないで。」
最後に、
ぴしゃりと突き放すように言って、
彩香は背を向けた。
リビングに、
重苦しい沈黙だけが残った。
美咲は、
拳をぎゅっと握った。
(違うよ。)
(私は、
翔太に会いたかっただけなのに──。)
でも、
その言い訳は、
誰にも届かない。
ただ、
冷たいリビングの空気の中で、
美咲はひとり、
自分の無力さを噛み締めていた。
美咲は、
歯を食いしばりながら、
テーブルを睨んだ。
もう耐えられなかった。
「──でも、成績落ちてないじゃん。」
声が震えた。
「医学部には行ける。
全部、模試もS判定。
──何が悪いの?」
言いながら、
涙が滲みそうになるのを必死で堪えた。
(ちゃんとやってる。
誰にも迷惑かけてない。
たった一日くらい、
幸せになっちゃいけないの?)
彩香は、
一瞬だけ目を細めた。
そして、
ゆっくりと、
冷たい声で言った。
「──甘い。」
美咲は、
心臓をぐっと掴まれるような感覚に襲われた。
「女で医者になるっていうのはね、
男と同じことをしてたら、
負けるの。」
彩香は、
凍った声で続けた。
「医者の世界は、男社会よ。
ちやほやされるのは若いうちだけ。
実力がなければ、
ただ”可愛い女医”って色眼鏡で見られて、
何も残らない。」
「男たちは、
女を”同等”だなんて思ってない。」
「だから、
女で医者になるなら、
男の二倍、三倍、
努力しなきゃダメなの。」
「東大で主席取るくらいの覚悟がないと、
絶対に潰される。」
「──それくらいの世界に、
あんたは突っ込もうとしてるんだよ。」
重い、
重い声だった。
(怖かった。
母の声は、いつもより冷たくて、
どこにも逃げ場がなかった。)
(でも、負けたくなかった。
「わかりました」って素直に頭を下げたら、
──何か、自分の大事なものまで折れてしまいそうだった。)
美咲は、
拳を握りしめた。
(そんなの、聞いてない。)
(そんなに、
──そんなに、
努力してもまだ足りないの?)
胸が、
ぎゅうっと苦しくなった。
「好きな男と会いたい」
「ちょっとくらい羽目を外したい」
そんな普通の願いも、
許されない。
未来を掴むためには、
誰よりも努力して、
誰よりも孤独にならなきゃいけない。
美咲は、
その事実に、
押し潰されそうだった。
何も言い返せなかった。
別に、
完璧な医者にならなくてもいいじゃない。)
(美容外科医になって、
普通に働いて、
それなりに稼げれば──)
そんな、
甘い考えが心をよぎった。
翔太と暮らして、
平凡に幸せになればいい。
──そんな道も、
きっと、あるはずだった。
だけど。
その微かな甘えは、
母・彩香の言葉で、
一瞬にして叩き潰された。
⸻
「──美容外科?」
翌朝、
何気なく漏らした美咲の言葉に、
彩香は鋭く反応した。
「そんな考え、今すぐ捨てなさい。」
冷たい声だった。
美咲は、
思わず身をすくめた。
「いい?
美容外科に行くなら、
まず形成外科を通らなきゃいけない。」
「ただ”やりたい”だけじゃダメ。」
「形成外科学会の専門医資格を取るには、
決められた年数を研修するだけじゃ取れないの。」
「──”症例”よ。」
彩香の目が、
美咲を刺すように見つめた。
「自分の手で、
何十件、何百件の手術をこなして、
腕を認められて、
やっと初めて、
専門医試験の受験資格がもらえるの。」
「“症例”がなきゃ、
実力がなきゃ、
認定なんてされない。」
「ただ時間だけ過ごした医者なんて、
誰にも信用されない。」
美咲の喉が、
きゅっと詰まった。
「それすらやらずに、
直で美容外科に飛び込むなら、
──まともな患者は絶対に来ない。」
「可愛いだけの女医?
最初は客寄せパンダにされるかもしれない。」
「でも事故を起こせば一発で終わりよ。」
「後遺症を残す。
失敗する。
訴えられる。
──それが現実。」
彩香の声は、
静かに、しかし容赦がなかった。
「今は、美容外科医なんて掃いて捨てるほどいる。
──そしてこれからは、医者余りの時代。」
「AI診断、診療報酬の削減、
医者の地位だって、
昔みたいに安泰じゃない。」
「中途半端な医者は、
権力者や金持ちに
“顔だけ”でチヤホヤされて、
飽きられたら──
捨てられるだけ。」
「──それでも、
あんたはそんな未来、望むの?」
美咲は、
言葉を失った。
(なりたいだけじゃ、
なれない世界。)
(好きなだけじゃ、
通用しない世界。)
ぐらぐらと、
足元が揺れるような感覚に襲われた。
甘い夢は、
母の言葉で、
無残に叩き壊された。
美咲は、
泣きたかった。
でも、
もう泣く気力さえなかった。
ただ、
静かに目を伏せた。
深夜二時。
美咲は、
ベッドに潜り込んだまま、
スマホを握りしめていた。
涙の跡が、
枕にまだ濡れて残っている。
画面を開いて、
翔太の名前をタップする。
(──会いたい。)
母の声が、
胸に突き刺さったまま、
抜けない。
「甘い。」
「女には許されない。」
「中途半端なら、捨てられる。」
苦しかった。
未来が怖かった。
──でも、
翔太といるときだけは、
そんなもの、全部忘れられる気がした。
【いま会えない?】
震える指でメッセージを送る。
すぐに、
「いいよー!」
と軽い返事が返ってきた。
美咲は、
布団を跳ね飛ばして起き上がった。
⸻
十五分後。
いつもの駅前。
夜の街は、
昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
遠くから、
翔太が自転車を押しながらやってきた。
「よう。」
にかっと笑うその顔に、
胸がきゅっとなった。
「──何してんの、こんな時間に。」
翔太は、
不思議そうに尋ねた。
美咲は、
何も答えず、
ただ首を横に振った。
「別に。」
「ちょっと、会いたかっただけ。」
翔太は、
それ以上何も聞かなかった。
「俺んちの近く、
夜景綺麗なとこあるけど、行く?」
「……うん。」
⸻
人気のない坂道を登った先。
街の灯りが、
小さな宝石みたいに、
無数に瞬いていた。
翔太が、
無邪気に言う。
「な?
ここ、俺のお気に入りなんだ。」
この無邪気さに、救われる自分がいた。
でも──
ふと、五年後、十年後を想像してしまった。
この笑顔の隣で、私は、笑っていられるのだろうか。
(──答えなんて、わかりきってるのに。)
「──すごいね。」
美咲は、
空っぽの声で答えた。
翔太の隣にいるだけで、
何も考えなくてよかった。
未来も、
努力も、
恐怖も、
全部、
遠くに追いやれた。
翔太は、
コンビニの袋から缶コーヒーを取り出して、
美咲に渡した。
「ほら、あったまれ。」
ふにゃっと笑う顔が、
眩しかった。
この瞬間だけは、
現実なんて、
なかった。
(──でも、知ってる。)
美咲は、
そっと目を閉じた。
(こんな時間は、長くは続かない。)
(いずれ、
全部終わるって、
私、知ってる。)
だからこそ、
今だけは。
せめて今だけは。
美咲は、
そっと翔太の腕に、
寄り添った。
「──小学校のときさ、オレ、わりと勉強できたんだぜ?」
美咲は、意外そうに翔太を見る。
翔太は、少し照れたように笑った。
「低学年のときなんか、テストとか、ほとんど満点だったし。
通知表も、オール◎みたいな感じでさ。」
「──すごいじゃん。」
思わず美咲が返すと、翔太は肩をすくめた。
「ま、でも……意味なかったしな。」
夜景の向こうを見ながら、ぽつりと続ける。
「母ちゃんにテスト見せても、
“点取ったって別に金になるわけじゃない”とか言われてさ。
それから、なんか、どうでもよくなった。」
翔太の声は、
どこか乾いた、空っぽな音をしていた。
「──頑張ったって、誰も喜ばねぇしな。
だったら、別に、いいじゃんって思った。」
翔太は、何でもないふうに笑った。
でも、その横顔は、
夜景の灯りよりも、ずっと遠くに見えた。
美咲は、
何も言えなかった。
翔太の隣で、
美咲はそっと缶コーヒーを握りしめていた。
このまま、
何も考えずに、
時間が止まればいい。
そんなふうに思った、その時だった。
「なぁ──」
翔太が、不意に顔を上げた。
「今、うちのクラスで流行ってんだけどさ。」
「TikTok撮ろーぜ!」
にかっと笑って、
翔太はポケットからスマホを取り出した。
「ヤリラフィーって知ってる?
あれ、マジウケんだよ!」
スマホを取り出す仕草。
その一瞬に、なぜか、心の奥が冷たくなった。
(──これが、全部なんだろうな。)
無邪気で、子供で、世界の残酷さを知らないまま。
そう言うなり翔太は、
夜景を背景に、
ノリノリで踊り始めた。
腰を振って、
手をくねらせて、
無邪気に、
全力で。
──ヤリラフィーダンス。
美咲は、
思わず固まった。
(……なにこれ。)
(……ダサい。)
さっきまで、
抱きしめたくなるくらい愛しかった存在が、
たった数秒で、
遠くに感じた。
翔太は、
笑いながらスマホを向けた。
「な!撮って!
俺、フォロワー増やしたいんだよw」
(──私は、未来を作ろうとしてる。)
(──翔太は、今を生きようとしてる。)
美咲は、
ぎこちなく笑ったふりをして、
スマホを受け取った。
(──無理かも。)
胸の奥が、
ひやりと冷えた。
翔太は、
何も知らない。
何も悪くない。
ただ、
子供みたいに無邪気なだけ。
──でも。
それを、
可愛いと思えない自分が、
ここにいた。
美咲は、
震える指でシャッターを押しながら、
心のどこかで、
何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。
(──私は、
この人と、
未来を一緒に歩けるのかな。)
そんなこと、
考えたくなかったのに。
夜景の向こうで、
翔太は、
満面の笑顔で踊っていた。
翔太は、
夜景を背景に、
本気でヤリラフィーダンスを踊っていた。
腰を振り、
手をくねらせ、
顔は超真剣。
(──なにそれ。)
(──バカじゃないの。)
美咲は、
こらえきれなかった。
ぷっと吹き出した。
そして、
耐えきれずに、
声を上げて笑ってしまった。
「──っはははははっ!!」
翔太が、
踊りながら振り返る。
「おい!!笑うなよ!!
俺、マジで真剣だったんだけど!?w」
顔を真っ赤にして、
でも、
翔太もすぐに笑い出した。
二人で、
夜景の見える坂の上で、
子供みたいに笑い転げた。
こんなに笑ったの、
いつぶりだろう。
翔太は、
照れた顔で、
ポケットに手を突っ込みながら言った。
「──美咲、
最近、元気なかったからさ。」
「笑ってくれて、
よかった。」
ふっと、
胸の奥が温かくなった。
翔太は、何も知らない。
美咲が、
どれだけ未来に怯えて、
どれだけ苦しんで、
どれだけ必死に立っているかなんて。
知らないまま、
無邪気に、
ただ隣にいてくれる。
(──バカだな。)
(──でも、
このバカさに、
今夜だけは救われた。)
美咲は、
笑ったまま、
そっと翔太の手に自分の手を重ねた。
夜風が冷たくて、
でも、
手のひらは温かかった。
「オレもバズりてぇな〜!」
「有名になったら、なんか、かっけーじゃん!」
(世界に、認めてほしいんだ。)
(世界に、「ここにいるよ」って叫びたいんだ。)
それは、痛いほどわかった。
だからこそ、
だからこそ──
(一緒には、生きていけない。)
美咲は、そんな翔太を見つめながら、
ふと聞いた。
「ねえ、翔太くんのお母さんって、どんな人?」
翔太は、缶を指先でくるくる回しながら、
あっけらかんと答えた。
「んー?
たまに帰ってくる。」
「たまに?」
「うん。
夜、気分よかったら帰ってくる。
でも朝にはまたいなくなってること多い。」
翔太は、まるで天気の話でもするみたいに、
軽く笑った。
「昔はさ、
帰ってくるの待ってたりしたけど、
もうめんどくせーし。」
「帰ってきても、
酔っ払って怒鳴るだけだしなー。」
(──そういえば、前に翔太の制服の袖に、
小さな破れ目があったことを思い出した。)
(聞いたとき、翔太は「チャリでこけたw」って笑ってたけど……
あれ、本当は、違ったんじゃないか。)
翔太は、あっけらかんと笑ったままだった。
(きっと、帰ってくるかどうかもわからない夜を、
翔太は一人で待っていたんだ。)
(弁当も、洗濯も、誰も気にしてくれない家で。)
美咲は、胸が痛くなった。
たぶん翔太は、
誰かに「偉いね」とも、
「頑張ったね」とも、
ちゃんと言ってもらったことがない。
きっと翔太は、
誰にも文句も言えず、
誰にもすがれず、
ただ、帰らない夜をひとりでやり過ごしてきたんだ。
それが、あまりにも、当たり前のことのように。
だから──
(世界に、
すごいねって、
言われたかったんだ。)
バズりたい。
名前を呼ばれたい。
目立ちたい。
それは、
子供じみた夢なんかじゃない。
必死に、
誰かに「存在してる」って証明したいだけだった。
翔太は、またすぐに、
無邪気な笑顔に戻った。
「ま、オレにはミサキいるしな!」
軽く肩を叩いてくる。
その手は、
ほんの少しだけ、震えていた。
翔太は、何も知らない。
未来の重さも、
努力の痛みも、
この世界の残酷さも。
でも、
ただ隣で笑っていてくれた。
それだけで、
救われる夜もある。
美咲は、そっと、翔太の手を握った。
(もう少しだけ、
この夜にいさせて。)
美咲は、思った。
でも、
胸のどこかでは、
ずっと小さな声が鳴っていた。
(──このままじゃ、だめなんだ。)
夜景の坂を下りて、
駅まで翔太と歩いた。
楽しかった。
バカみたいに笑って、
ほんの少しだけ、
救われた。
駅前で、
翔太が小さく手を振った。
「じゃな、またな!」
無邪気な笑顔。
何も知らない、
何も疑わない笑顔。
美咲は、
手を振り返し、
駅の改札を抜けた。
⸻
家に帰り着いたとき、
玄関の灯りは、
まだついていた。
(……あれ?)
少し胸騒ぎがした。
玄関のドアを開けた瞬間、胸の奥がぎゅっと強張った。
空気が、異様に重い。
(──ヤバい。)
本能的に察した。何かが、決定的に”バレている”
こっそりドアを開けると、
リビングのソファに、
父親が座っていた。
腕を組んでいる。
テレビもついていない。
ただ、
無言で、
こちらを見ていた。
美咲は、
息を呑んだ。
「──どこ行ってた。」
低く、
抑えた声。
美咲は、
ぎこちなく笑った。
「……ちょっと、
友達と。」
父の眉が、
ぴくりと動いた。
「駅前で、
彼氏らしきやつと一緒にいたの、
見たぞ。」
美咲の心臓が、
一瞬で冷たくなった。
「……。」
「お前、
アイツと付き合ってるのか?」
(──違うって言えばいい。)
(違うって、誤魔化せば──)
でも、喉が、凍りついたみたいに動かなかった。
「──違う、よ。」
必死に言い訳しようとしたけれど、
声が震えた。
父の目は、
冷たかった。
「明日、
ちゃんと話を聞く。」
それだけ告げて、
父は立ち上がった。
リビングの照明が、
パチン、と消される。
美咲は、
取り残されたまま、
真っ暗な廊下に立ち尽くしていた。
楽しかったはずの夜が、
一瞬で、
遠いものになった。
──逃げ場は、
もうどこにもない。
次の日、リビングには重苦しい空気が漂っていた。
タクミ(父)はソファに座り、向かいに立つ娘・美咲を見据える。
キッチンの隅では母親アヤカが手を止め、黙って二人を見守っていた。
「座れ。」
タクミが短く言う。
「……いい。」
美咲は強い口調で返し、立ったまま睨みつける。
それでもタクミは淡々と続けた。
「付き合っている相手が、〇〇高校──この地域で一番偏差値が低い。
素行も芳しくない。あまり感心できる環境ではない。」
「──それだけじゃない。」
タクミは一度、言葉を飲み込んだ。
その奥には、美咲に言えない、もっと冷たい現実があった。
美咲の顔がこわばる。
「偏差値の話!関係ないよ!人のこと、数字だけで判断しないで!」
タクミは間髪入れずに答える。
「環境は人を作る。
学力だけでなく、周囲の意識、行動、すべてに影響する。」
「でも彼は優しいもん!」
美咲が必死に食い下がる。
「優しさだけで未来は築けない。」
タクミの声は揺れない。
「お前は進学するだろう。
彼は? 本当に、同じ未来を歩めると思っているのか?」
「わかんないよ!」
美咲が叫ぶ。「未来なんて誰にもわかんない!」
タクミは一瞬目を伏せ、そして顔を上げた。
「──本当に思っているのか。」
美咲は睨み返す。
タクミは静かに突き刺した。
「その男に、
お前を支える力があるのか。
お前の子供まで、幸せにできると、本気で思っているのか?」
重苦しい沈黙がリビングを支配した。
美咲は震えながら叫んだ。
「じゃあお父さんだって!!
お母さんと結婚したじゃん!!
お母さんは高卒で、元銀座のホステスだったんでしょ!?
学歴も偏差値も関係ないじゃん!
自分はいいのに、私はダメってどういうこと!!?」
アヤカが「美咲……」と小さく呼んだが、止められなかった。
タクミの顔に、一瞬、怒りではなく、悲しみが走った。
(──何も、伝わってなかったんだな。)
そんな痛みを、静かに堪えるようにして、タクミは話し始めた。
タクミの目がわずかに揺れる。
そして、静かに、だが確実に、感情をにじませながら語り出した。
「──母さんは、ただのホステスじゃない。」
美咲は息を呑む。
タクミは続けた。
「銀座でナンバーを取った。
トップクラスになった。
誰にでもできることじゃない。」
「その裏で、
どれだけボロボロになりながら働いてきたか──
お前は知らない。」
美咲の目が揺れる。
「母さんの実家は、ネグレクトだった。
誰も守ってくれない、誰も愛してくれない家だった。」
「だから、母さんは決めたんだ。
──自分の手で、まともな家族を作るって。」
タクミは拳を握りしめる。
美咲は、何も言えなかった。
知らなかった。
母が──そんな世界を、くぐり抜けてきたことなんて。
「母さんは、引退するとき、
自分で稼いだ1000万を俺に渡して言った。
“このお金を増やして、未来を作ってほしい”って。」
美咲がハッとする。
「俺は、母さんの願いを受け取った。
株式投資を始めた。
そして、
お前を──インターナショナルスクールに入学させた。」
「母さんは、
自分の手で階層を変えた。
──血を吐く思いで、だ。」
タクミは、じっと美咲を見つめる。
「お前は、
母さんの努力の上に立っている。」
「それを、
ただ”好き”だけで、
地に落とすのか?」
美咲は唇を震わせた。
「お前のために、
母さんも、俺も、
未来を作った。」
タクミの声は震えていた。
「未来を、
選べ。」
部屋には、痛いほどの静寂が落ちた。
美咲は何も言えず、その場に立ち尽くしていた。
どこか遠くへ逃げたかった。
でも、逃げたらきっと、
一生、
あの夜の景色に──
追いかけられ続けるんだろう。
美咲は、何も言えなかった。
父の言葉が、重たく胸に突き刺さっていた。
でも──
心の奥では、別の感情が渦巻いていた。
(正直、ホステスって、簡単に稼げるんだなって、思った。)
美咲は、自分でもその考えに戸惑っていた。
けれど、止められなかった。
──銀座のナンバーワン。
──たった数年で1000万。
──それで株やって、インターナショナルスクール。
(…そんなの、ちょっと綺麗に着飾って、笑ってれば稼げるんじゃないの?)
美咲は、幼さと無知ゆえに、そう思ってしまった。
母親がどれだけの地獄をくぐってきたかなんて、想像すらできなかった。
(なんでそんなに、大げさに言うんだろう。)
(そんなに苦しかったなら、最初から違う仕事すればよかったじゃん──)
反発が胸の中に膨れ上がる。
でも──
父の目は、本気だった。
本気で、娘を守ろうとしていた。
その本気が、重くのしかかる。
美咲は、拳を握りしめた。
わけもわからない涙がにじんだ。
(……うざい。)
(……でも、わかんない。)
(……でも、なんか、胸が苦しい。)
ぐちゃぐちゃだった。
立っていられなくなって、美咲は乱暴にリビングを飛び出した。
残されたタクミは、何も言わなかった。
ただ、拳を固く握りしめたまま、じっと天井を見つめていた。
玄関を飛び出して、真夜中の公園を1人歩いた。
(お母さんだって──昔は、
こんな夜道を、
ひとりで歩いたことがあったんだろうか。)
夜道の中で、
美咲はふと、
母・彩香の若い頃を思い浮かべていた。
(──母さんも、
こんなふうに、
夜の街を一人で歩いたことがあったんだろうか。)
彩香の実家は、
誰も笑わない家だった。
父親は酒に溺れ、
母親は無関心だった。
高校を卒業したとき、
母からは冷たく告げられた。
「──女なんだから、風俗でも何でもやって、勝手に生きろ。」
小さなアパートを出され、
手に残ったのは、
ボロボロのバッグひとつだった。
──でも。
彩香は、
絶対に風俗には行かなかった。
自分の体を、
知らないおじさんに触れさせるなんて、
絶対に嫌だった。
当時の彩香は、
まだ処女だった。
(──絶対に、
知らない男に体を売ったりなんか、したくない。)
そう思った。
それでも、
生きなきゃいけなかった。
だから、
彩香はホステスを選んだ。
男の横に座り、
笑って酒を注ぐだけなら、
まだ、耐えられると思った。
最初は、
それすら地獄だった。
口説かれるたびにに、
心の奥がざわついた。
下心まるだしの目線を浴びながら、
グラスを満たし、触られないように客の手を握りながら、
乾いた笑顔を浮かべた。
──何度も、逃げたくなった。
それでも、
彩香は踏みとどまった。
こんな場所でも、
──生きるために、絶対に負けたくなかった。
夜が明けるたび、
魂がすり減るようだった。
それでも、
彩香は少しずつ、這い上がった。
接客を覚え、
美しさに磨きをかけ、
どんなに嫌な客にも、
プロの笑顔を崩さなかった。
──だからこそ、
銀座でナンバーを取った。
ボロボロになりながら、
地べたを這いながら、
ようやく掴み取ったものだった。
そして、
普通の結婚をして、
普通の家庭を作った。
それが、
彩香にとっての「勝利」だった。
──だから、美咲には。
あんな夜道を、
一人で歩かせたくなかった。
あんな冷たい世界に、
触れさせたくなかった。
汚れる前に、
夢を見る前に、
ちゃんと未来を掴ませたかった。
美咲は、
夜道を歩きながら、
ぎゅっと拳を握った。
(──でも。)
(私は、
その未来に、
ちゃんと応えられているのかな。)
街灯の光の下、
美咲の影が、
細く長く伸びていた。
母親のアヤカは、静かに目を閉じた。
何も言わずに、そっとリビングの照明を落とした。
夜が、さらに深く静かに、家を包み込んでいった。
次の日。
美咲は、朝からぼんやりしていた。
顔を洗っても、朝ごはんを食べても、
胸の奥に重い塊がこびりついたままだった。
(あんなの、認めたくない。)
(でも──頭から離れない。)
ぼんやりとスマホをいじりながら、
彼氏──翔太からのメッセージを見た。
「今日会える?」
美咲は一瞬迷った。
でも、すぐに「うん」と返事を打った。
(会ったら……なんか、変わるかもしれない。)
(会ったら、やっぱ好きだって思えるかもしれない。)
そんな期待と、
どこかで「違うかもしれない」という怖さが交錯していた。
⸻
午後、待ち合わせ場所。
翔太は、いつものダボっとしたパーカーに、破れたジーンズで現れた。
満面の笑みで、美咲に手を振る。
「よっ、ミサキ〜!」
美咲は、思わず笑ってしまった。
翔太はいつも通り、バカみたいに明るかった。
歩きながら、翔太は他愛ない話を続けた。
バイクの話、バイト先で上司に怒られた話、友達とゲームした話──
歩きながら、翔太はヘラヘラと笑いながら話し始めた。
「マジウケるんだけどさぁ、
昨日バイトで上司にクッソ怒られたんだよね。」
美咲は横で、曖昧に笑いながら聞いていた。
翔太は楽しそうに続ける。
「なんかさ〜、ミスったとか言われてさ。
普通に言い方キモすぎて、
マジムカついて、
──殴ったわ。」
「……え?」
美咲は一瞬、耳を疑った。
翔太は、何でもないことみたいに笑った。
「バイト先のオッサン、顔真っ青になってさ〜。
周りもシーンってしてんの。
ウケんだけどwww」
笑いながら、ポケットからガムを取り出してくちゃくちゃ噛み始める。
美咲の胸がざわついた。
「……大丈夫なの、それ。」
そう絞り出すと、翔太はケラケラ笑った。
「クビだって〜。
つーかさ、どうせあんなバイトやめたかったし。
タイミングよくね?」
美咲は何も言えなかった。
(……やばい。)
冷静な自分が、頭の奥で小さくつぶやいた。
翔太はなおも楽しそうに続ける。
「つーか、高校もさ、
なんか呼び出しくらってんだよね。
もしかしたら退学かもwww」
「えっ……」
美咲の声が震えた。
(──ああ、もうダメだ。)
胸の奥に、小さな氷の欠片が落ちた。
それは静かに、でも確実に、広がっていった。
翔太は、ケラケラと笑ったままだった。
「でもマジどうでもよくね?
学校とか、バイトとか。
別に生きてりゃなんとかなるっしょ〜!
なあ?」
美咲は、翔太の顔を見た。
無邪気だった。
屈託がなかった。
バカみたいに笑っていた。
(──可愛い。)
ほんの少し、そう思った。
でも同時に、
胸の奥に、冷たいものがにじんでいくのを、
美咲ははっきりと感じていた。
(この人、
何も考えてないんだ。)
(本当に、
何も考えてないんだ。)
(──それでも、まだ、どこかで信じたかった。)
(“変わってくれるかもしれない”って、子供みたいに願ってた。)
翔太は、何も知らずに笑っている。
これからどうなるかなんて、何も見えていない。
未来のことも、
責任のことも、
何ひとつ、考えたことすらない。
美咲は、歩きながら、唇を噛んだ。
(どうして……
こんなに、
可愛いのに──)
(──壊れてるんだろう。)
春の夕方。
ファストフード店の隅っこ、美咲は翔太と向かい合って座っていた。
翔太はポテトをつまみながら、得意げに言った。
「オレさ、鳶やることにした!」
美咲はストローを持つ手を止めた。
「鳶って……とび職?」
「そう!」
翔太は満面の笑みを浮かべる。
「マジで天職だと思うわ、オレ。
だってよ、現場仕切るリーダーとか、
超カッケーじゃん!」
美咲は無表情でうなずいた。
(……あぁ、もう学校行かないんだ。)
そんな実感が、じわじわと胸に広がった。
(──未来を、一緒に背負うには、軽すぎる。)
努力も、不安も、覚悟も──
そのどれにも、翔太は、触れていなかった。
翔太はさらに乗ってきた。
「お前んちの親父、東大とかだろ?知ってんだぜ!」
唐突に父親を引き合いに出されて、美咲は身構えた。
翔太は胸を張るように、こう言った。
「オレさ、絶対、
お前の父ちゃんより立派になってやっから!」
「……え?」
美咲は目を見開いた。
翔太は得意満面で続ける。
「学歴とか関係ねーって証明してやる!
高卒?中卒?鳶?関係ねーよ。
腕一本で稼いで、デッカイ会社作ってやっから!」
美咲は、
ストローの先を無意識に噛んでいた。
(……ほんとに、
何も考えてないんだな。)
(親とか、家庭とか、社会とか、
──全部、想像できてないんだ。)
翔太は、夢を語っているつもりだった。
でもその顔は、
子供がヒーローごっこをしているようにしか見えなかった。
「な、ミサキ。」
翔太がニカっと笑う。
「オレ、超カッケー旦那になっから!
安心しろよ!」
──どこまでも無邪気だった。
美咲は、
胸の奥が静かに、でも確実に冷えていくのを感じていた。
(……この人、
きっと悪い人じゃない。)
(でも、
未来を一緒に作るには、
──壊れすぎてる。)
笑いながらポテトを頬張る翔太を見て、
美咲は、心のどこかで、
何かが静かに壊れる音を聞いた。
翔太はファストフード店のテーブルに肘をついて、ニカニカ笑っていた。
「鳶ってさー、マジ稼げるんだよな。
現場の親方とか年収800万とかあるし。
すぐオレも稼げるようになっから!」
(──事故も、怪我も、歳を取ることも、全部想定してない。翔太の未来は、”今”しか存在してない。)
(──この人は、落ちる未来を、想像すらできないんだ。どれだけ必死に足掻いても、沈むだけの沼に、笑いながら飛び込もうとしてる。)
(翔太の見る未来は、ただ”今の自分”の延長線にしかなかった。努力も、時間も、積み重ねも──何も、なかった。)
嬉しそうに話す翔太を、美咲はじっと見ていた。
(──違う。)
(そんな簡単な話じゃない。)
言葉が、喉の奥で詰まった。
でも──
耐えられなかった。
美咲は、静かに口を開いた。
「ねぇ、翔太くん。」
「鳶職ってさ、
何歳まで稼げるの?」
翔太の笑顔が、ピタリと止まった。
美咲は続けた。
「体、動かなくなったらどうするの?
怪我したら、もう働けなくなるんだよ?」
翔太が無言で美咲を見た。
その瞳に、何か危ない光が宿った。
でも、美咲は止まらなかった。
今まで飲み込んできた言葉を、初めて吐き出した。
「大学には意味があるんだよ。
東大って、たとえ雑魚くても、年収1000万くらい稼げるの。
怪我して働けなくなっても、別の仕事ができるの。」
「学歴なんて関係ない」と笑っていた翔太の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
美咲は、震える声で続けた。
「夢見るのはいいけど……
現実は、そんな甘くないよ。」
次の瞬間だった。
バンッ!!
翔太が、テーブルを蹴り飛ばした。
テーブルが鳴った瞬間──
胸の奥で、何かがビリリと破れる音がした。
(──怖い。)
(でも、それ以上に──悲しい。)
店内に、鈍い音が響く。
周りの客たちが一斉にこちらを振り向いた。
美咲は、びくっと体を縮めた。
手が、膝の上で小さく震えていた。
翔太は、怒りに震えながら美咲を睨みつけた。
「──うっせぇんだよ。」
低い、聞いたことのない声だった。
「てめえに、
オレの何がわかんだよ。」
翔太の拳がテーブルの上でギリギリと震えている。
美咲は、何も言えなかった。
心臓が、バクバクと嫌な音を立てていた。
翔太はしばらく睨みつけると、
鼻で笑って、ふいと顔を背けた。
「──やっぱり、
お前も、そうなんだな。」
翔太は、背を向ける直前、
一瞬だけ、泣きそうな顔をした
ぼそりと呟いて、席を立つ。
そして、
振り返りもせず、店のドアを乱暴に押し開けて出ていった。
美咲は、ひとり取り残された。
冷たい空気が、体中を締め付けた。
カラカラに乾いた喉を押さえながら、
美咲は、ただ、座っていた。
(……終わった。)
(──あの夜、駅前で笑ってた君は、どこに行ったの?)
心のどこかで、
はっきりとそう思った。
その夜。
美咲は、ずっと悩んでいた。
ぐるぐる考えても、答えは一つだった。
(もう……無理だ。)
翔太の無邪気さも、
夢を語る子供みたいな顔も、
本当は好きだった。
でも、
未来を背負える人じゃない。
自分が歩きたい道とは、
あまりにも違いすぎる。
スマホを握りしめて、震える手でメッセージを打った。
「少し話したい。」
⸻
夜の公園。
街灯の下、翔太は待っていた。
「……よぉ。」
どこか不安そうな顔で、翔太は笑った。
(本当は、
まだ好きだった。)
(翔太の無邪気な笑顔も、
バカみたいな夢を語る声も──
全部、愛しかった。)
(でも、
それでも、
もう一緒には歩けない。)
(未来が、
あまりにも違いすぎた。)
美咲は、小さく息を吐く。
「……別れよう。」
言った瞬間、
自分の心がピキリとひび割れる音がした。
翔太は、一瞬きょとんとした。
「……は?」
美咲は、うつむいたまま続けた。
「もう……無理だと思う。」
「……」
翔太はしばらく何も言わなかった。
それから、
急に、まくし立てるように喋り始めた。
「──姉ちゃん、
死んだんだよ。」
翔太は、うつむきながら続けた。
「姉ちゃんさ……
昔は、オレに弁当とか作ってくれたんだぜ。」
「うまくはなかったけど、
めっちゃ頑張ってさ。
キャラ弁とか、やろうとして、失敗してさ。」
翔太は、小さく笑った。
「──全部、あの人なりに、
オレのこと、守ろうとしてたんだよな。」
美咲は、胸がざわついた。
翔太は、うつむいたまま、続ける。
「銀座で働いてたんだ。
でも、上手くできなかった。」
「顔は綺麗だったけど、
要領が悪かった。
空気も読めない。
同伴も組めない。毎月罰金払わされてた。」
「だから──
枕営業、断れなかった。」
美咲は、指先が冷たくなっていくのを感じた。
翔太は、苦しそうに笑った。
「姉ちゃん、
ある時から、
腕に包帯巻いて帰ってくるようになった。」
「理由聞いても、笑ってごまかしてさ。
“ちょっと酔って転んだ”とか、
“ネコに引っかかれた”とか、
そんな言い訳ばっかりだった。」
翔太は拳を握りしめた。
「──リストカット、してたんだ。」
「客に抱かれて、
汚されて、
笑えなくなって、
どうしようもなくなって。」
「姉ちゃん、
毎日少しずつ、
壊れてった。」
翔太の声は、もはや震えていた。
「それでも、
姉ちゃん、
頑張ろうとしてたんだよ。」
「“もっと頑張るから”って、
ボロボロになりながら、
笑ってたんだ。」
「でも──」
翔太は、缶コーヒーをぐしゃりと握りつぶした。
「ある日、
客に無理やり酒を飲まされて、
そのまま、
急性アルコール中毒で──
死んだ。」
美咲は、座っているのがやっとだった。
翔太は、赤く潤んだ目で空を見上げた。
「姉ちゃんはさ、
ただ、
頑張りたかっただけなんだよ。」
「生きたかったんだよ。」
「……でも、
世界は、
それを許してくれなかった。」
翔太は、美咲をまっすぐ見た。
涙に濡れた瞳で。
「だから、
オレは、
お前だけは、
絶対に守りたかったんだよ。」
「お前だけは、
誰にも壊されないでほしかったんだよ。」
本当は
(お前は俺の前から消えないで)って思ってるように感じた。
夜の冷たい風が、二人の間を吹き抜けた。
美咲は、
何も言えずに、
ただただ胸が苦しくて、
座り込んだまま、
唇を噛みしめた。
もし、何もかも投げ出して、
ただ翔太の隣で笑うだけなら──
それも、幸せだったかもしれない。
(何を話せばいいのか、わからなかった。)
(家柄も、育ちも、──全部違いすぎた。)
受験戦争を終えた春。
慶應義塾大学医学部──。
ピカピカの校舎、
エントランスに並ぶ銘板、
スマートなスーツに身を包んだ同級生たち。
美咲は、その中にいた。
けれど、
最初から、違和感があった。
授業前の教室。
「うち、親父が医局長だから、夏休みに留学行くんだ〜。」
「オレんとこ、親も医者で。最初からこの学部一択だったし。」
「研修先、親が病院押さえてるから、ラクだよな。」
そんな声が、自然に飛び交っていた。
誰も威張るわけじゃない。
誰も見下しているわけじゃない。
──でも、
「生まれたときから、勝ち組」
そんな空気が、そこには確かに流れていた。
(育ちの良さは、未来への信頼を生み出す。)
(この教室にいる彼らは、生まれた瞬間から、
「努力すれば報われる」と、
疑うことなく信じていられる人たちだった。)
(──その優しさも、信じる力も、
最初から手に入れたものだった。)
美咲は、
ノートを開きながら、
静かに思った。
(私は、
ここにいるために、
あの夜、翔太を手放したんだ。)
(必死に、
未来を掴もうとしたんだ。)
(でも──)
心の奥に、ぽっかりと穴があった。
友達の輪に入ると、
話題はどこまでも遠かった。
幼稚舎から一緒、
家族で海外旅行、
将来は親のクリニックを継ぐ予定──
それが、
“普通”に流れていた。
(──翔太みたいな人間は、
最初から、いなかったことにされてるんだ。)
(努力しても、
手を伸ばしても、
登れるはずのない場所が、
──本当に、存在してるんだ。)
そして美咲は、
思った。
(私は──
何のためにここまで来たんだろう。)
⸻
別の日。
医学部内で開かれた、特別講義。
「キャリアを切り開く…」
「グローバルな…」
教授は、眩しいほどの自信に満ちた笑顔で語った。
隣の席では、
同級生たちがうなずきながらメモを取っていた。
美咲は、
自分の手元のノートを見つめたまま、動けなかった。
(キャリア──?)
(グローバルな視点──?)
(──そんなもの、
あの夜の翔太には、
何の意味もなかった。)
必死に生きようとしても、
地面ごと引き剥がされる世界が、確かにあった。
それでも、
翔太は、
生きていた。
ただ、不器用に、
まっすぐに。
美咲は、
そっと目を閉じた。
(──翔太には、
最初から「未来を信じる力」なんて、
なかったのかもしれない。)
(傷つけられ、裏切られ、
生きるだけで精一杯で、
それでも必死に笑っていた。)
(未来なんて、
誰も保証してくれなかった世界で。)
(──ここに来た。
未来を掴んだ。
でも、
心は、
あの夜に置き去りにしたままだ。)
慶應医学部の同期たちとの飲み会。
酔いが回ったテーブルで、男たちの声がひときわ大きくなった。
「昨日、渋谷でナンパしてきたんだけどさ。」
一人が笑いながら話し出す。
「顔はまあまあだったけど、話してたらすぐわかった。
努力してないタイプ。
頭も悪い。
バカマンコw」
ゲラゲラと笑い声が上がる。
「すぐ”医学生なんだ〜すご〜い!“とか言ってさ、
こっちのスペックに縋ろうとしてくんのw」
「玉の輿で逆転狙いってか?
浅はかすぎんだよw」
「マジでさ、
自分の頭で這い上がる努力すらしてないくせに、
男にしがみついて”勝ち組”気取りしようとすんの、
ウケるよなw」
「努力してこなかったツケだろ。
こっちはガキの頃から積み上げてんのに。」
美咲は、
冷えたグラスを見つめたまま、動けなかった。
男たちは、
誰も怒ってもいなかった。
誰も軽蔑すらしていなかった。
ただ、
合理的に、
当然のように、
ランクの低い生き物を笑っていた。
「適当に酔わせてワンチャン狙えるし、
マジでコスパいいわw」
「結婚?ないない。
履歴書にも載せたくねぇレベルw」
ゲラゲラと笑い合う声が、
夜の店内に響いていた。
美咲は、
グラスの中で揺れる氷を見ながら思った。
(──これが、
“勝った側”の世界か。)
努力しなかった者は、
笑われる。
見下される。
ただのコストの安い娯楽になる。
翔太たちのような、
必死で生きようとした人間も、
ここでは”見えない存在”だ。
(──私は、
こんな世界のために、
あの夜、翔太を手放したのか。)
(あのとき、
私も、翔太を少し見下していた気がする。)
胸の奥が、
ひどく冷たかった。
誰にも気づかれないように、
美咲はそっと席を立った。
夜の風が、
ひどく冷たく感じた。
スーツの群れに紛れて、
美咲は、
一人、
歩き続けた。
美咲は
グラスの中で氷が小さく崩れる音を聞きながら、
心の中で、静かに思った。
(──あんたたちは、
知らないんだ。)
(家の中で、
静かに机に向かえるだけで、
どれだけ恵まれていたか。)
(腹を空かせて、
夜中まで親の帰りを待つこともなく。)
(今日食べるご飯を心配することもなく。)
(誰かの怒鳴り声や、
暴力に怯えながら、
問題集を開くこともなく。)
(ただ、当たり前の顔をして、
安心してペンを握っていられたことを──
あんたたちは、
知らない。)
美咲は、
唇をきゅっと噛みしめた。
(努力した?
そりゃそうだろう。)
(でも、
努力できる環境が最初からあっただけだ。)
(それすらわからずに、
他人を嗤うあんたたちは──
──本当は、何も知らないバカだ。)
男たちの笑い声が、
遠く響く。
美咲は、
グラスに残った氷が溶けきる前に、
そっと席を立った。
夜の風が、
やけに冷たかった。
(──翔太。)
スーツの群れの中を、
美咲は、
ぽつんと、
ただ前を向いて歩き続けた。
ヒールの音が、コンクリートの上に乾いた音を立てる。
胸の中では、
冷たい自己嫌悪がぐるぐると渦巻いていた。
(結局──
私だって、
翔太みたいな人と
一緒に生きていきたいなんて、
思ってないんだ。)
(私は、
勝ち組側にしがみついて、
負け組を切り捨てて、
ここにいる。)
(あのバカにしてた男たちと、
本質は、何も変わらない。)
喉の奥が、ひりひりと痛んだ。
心の中で、
「私も、選民思想に染まってるんだ」
という声が、
小さく、小さく、
何度も何度も響いた。
立ち止まった。
夜風が、コートの裾をはためかせる。
(──誰にも、言えない。)
そんなときだった。
後ろから、
かすかな足音が近づいた。
「──美咲。」
驚いて振り返ると、
そこには、
同じ医学部の男子、篠原が立っていた。
落ち着いた雰囲気。
声を荒げることも、
悪ノリに加わることもなかった静かな存在。
少しだけ、
涼しげな顔立ちのイケメンだった。
篠原は、息を弾ませながら、美咲を見た。
「──気分、悪くなった?」
「大丈夫?」
その声は、
驚くほど、
普通だった。
馬鹿にするでも、
気遣うフリでもない。
ただ、本当に、心配してくれているような声だった。
美咲は、
何も言えなかった。
胸の奥で、
冷たい自己嫌悪と、
微かな救いの光が、
ぐちゃぐちゃに絡み合った。
篠原は、
しばらく美咲を見つめてから、
そっと言った。
「……無理しなくていいよ。」
それだけ言って、
ふっと少しだけ、笑った。
その笑顔は、
夜の寒さの中で、
どこか温かかった。
美咲は、
自分でもわからないまま、
小さくうなずいた。
涙が出そうになるのを、
必死でこらえながら。
篠原は、
まっすぐな目で美咲を見つめた。
「……なんか、
さっきの飲み会、
きつかったよな。」
そう言って、
少し笑った。
美咲は、
その顔を見ながら思った。
(この人は、
バカにしてない。)
(育ちの悪い子を笑い飛ばすことも、
苦しんで生きた人間を侮ることも、
しない人だ。)
──でも。
(この人は、
翔太たちの生きた世界なんて、
何一つ、知らない。)
(飢えも、
暴力も、
無力感も、
絶望も。)
(何も、
知らないまま、
ここまで来たんだ。)
篠原は、
ポケットから小さなキャンディを取り出して、美咲に差し出した。
「……これしかないけど。」
不器用な優しさだった。
美咲は、
小さく笑って、受け取った。
でも、
心の奥では、
そっと線を引いていた。
(──この人は、
優しいけど、
私の世界には、
触れられない。)
篠原は、
何も知らずに、
隣を歩いた。
無邪気な、
でも本物の優しさだけを持って。
夜の街灯の下、
二人の影が並んで伸びていた。
でも、
その影の間には、
微かな、
埋まらない隙間があった。
コンビニの前で、
立ち止まった。
篠原は、
缶コーヒーを二つ買って戻ってきた。
「──ほい。」
無言で手渡された微糖コーヒー。
美咲は、苦笑しながら受け取った。
缶の温かさが、
少しだけ手にしみた。
しばらく、
二人で黙って缶コーヒーを啜る。
静かな夜風。
その中で、
ふいに美咲は聞いた。
「──ねえ、篠原くん。」
「……将来、何科志望なの?」
コンビニの前。
夜の冷たい空気の中。
篠原は、
缶コーヒーを美咲に手渡した。
無言で受け取った。
手に伝わる温かさだけが、
わずかに救いだった。
篠原は、
少しだけ間を置いてから答えた。
「……精神科。」
美咲は、思わず顔を上げた。
篠原は、缶コーヒーを見つめたまま、
ぽつぽつと言葉を紡いだ。
「浪人してた友達がいたんだ。」
「一緒に頑張ろうって、
センター前も、二次試験の前も、
ずっと励まし合ってきた。」
「──でも、
その子、
落ちたんだ。」
声が、わずかに震えた。
「次に会ったのは、
通夜だった。」
美咲は、
言葉を失った。
篠原は、
笑おうとしたけど、
うまくいかなかった。
「親も、
先生も、
誰も、
本当に気づいてなかったんだ。」
「“あいつは強い子だから”って、
みんな言ってた。」
「でも──
本当は、
全然、
強くなんか、なかった。」
夜風が吹き抜ける。
篠原は、
かすれた声で続けた。
「それで思ったんだ。
人って──
見えないところで、
簡単に、
壊れる。」
「だから、
オレは、
ちゃんと心に触れられる医者になりたいって、
思った。」
(この人は、
痛みを抱えた人を、見捨てないんだ。)
美咲は、
胸の奥がじんわりと痛くなった。
(──この人も、
痛みを見たことがあるんだ。)
(翔太たちの世界は、
知らないかもしれない。)
(でも、
それでも、
誰かを助けたいって、
ちゃんと思ってるんだ。)
(──わからない。きっと、この人には翔太の痛みは一生わからない。)
(でも、それでも。優しさだけは、本物だと思った。)
(翔太とは違う。
この優しさは、
未来へ向かうためのものだ──。)
缶コーヒーを両手で抱えながら、
美咲は、
小さく微笑んだ。
篠原は、
少し驚いた顔をして、
それから、
優しく笑った。
美咲は、
胸の奥が、
小さく震えた。
(──この人は、
知らない。)
(翔太たちが、
どんな絶望の中で生きたか。)
(どんなふうに、
踏みにじられたか。)
でも、
それでも。
(──この人は、
誰かの痛みを、
ちゃんと見ようとしてるんだ。)
美咲は、
缶コーヒーを両手で握りながら、
小さく息を吐いた。
(たとえ、
全部を知らなくても。)
(たとえ、
完全にはわかり合えなくても。)
(それでも──)
美咲は、
かすかに微笑んだ。
きっと、翔太は、
こんなふうに、誰かの痛みを真正面から抱えようとする人じゃなかった。
でも、
だからこそ、
無邪気に私を笑わせてくれたんだ。
篠原は、
その笑顔を見て、
少し安心したように、ふっと笑った。
夜の空は、
まだ冷たかったけれど、
ほんの少しだけ、
心が温かかった。
缶コーヒーを飲み干して、
美咲はふっと笑った。
「……飲み直そっか。」
篠原は、
一瞬驚いた顔をして、
それから、
小さくうなずいた。
静かなバーに入った。
人の少ない、照明も控えめな店。
カウンターに並んで座り、
二人とも、
控えめなカクテルを頼んだ。
グラスを傾けながら、
しばらく無言だった。
やがて、
美咲は、ぽつりと話し出した。
「──昔、
付き合ってた人がいたんだ。」
篠原は、
何も言わず、
グラスを持ったまま耳を傾けた。
「すごく、
バカで。」
「すぐキレるし、
空気も読めないし、
未来のことも、ろくに考えられなかった。」
「──でも、
すごく、
優しかった。」
美咲は、
指でグラスの縁をなぞった。
「家庭環境、めちゃくちゃで。
母親、夜いなくて、
たまに帰ってきたら暴れて。」
「姉ちゃんは銀座で働いて、
壊れて、
……最後は、
急性アルコール中毒で死んだ。」
言葉にするたびに、
胸がきりきりと痛んだ。
篠原は、
それでも何も挟まず、
ただ静かに聞いていた。
「その人も、
めちゃくちゃだった。」
「でも、
オレにはお前しかいないって、
本気で言ってくれた。」
「──あのとき、
あの夜、
私は、
その人を、
捨てたんだ。」
美咲の声は、
震えていた。
グラスの中で、
氷が、
小さくカランと音を立てた。
篠原は、
ゆっくりとグラスを置いた。
「……つらかったね。」
それだけだった。
押しつけがましい慰めも、
同情もなかった。
ただ、
美咲の痛みを、
そのまま受け止めようとする言葉だった。
美咲は、
涙を堪えながら、
グラスを傾けた。
(──この人は、
何も知らない。)
(でも、
知らないなりに、
ちゃんと、
私を見てくれている。)
夜の静かなバーで、
美咲は初めて、
少しだけ、
心をほどいた。
「──私ね。」
篠原は、
黙って美咲を見た。
美咲は、
グラスを両手で包み込みながら続けた。
「翔太のこと、
すごく好きだった。」
「でも、
正直……
翔太みたいな人と、
一緒に生きていこうとは、
思えなかったんだ。」
指先が、
微かに震えた。
「優しいとか、
頑張ってるとか、
そんなことじゃ、
未来は作れないって、
思ってしまった。」
美咲は、
声を落とした。
「……これって、
選民思想だよね。」
「私も、
結局、
あのバカにしてた男たちと、
同じなんだよね。」
グラスの中で、
氷が静かに沈んでいった。
篠原は、
少しだけ目を伏せた。
そして、
ゆっくりと、
言った。
「──違うよ。」
美咲は、
顔を上げた。
篠原は、
静かな声で続けた。
「それは、
未来を、
一緒に背負えるかどうかって話だろ?」
「誰かを選ぶって、
冷たいことじゃない。」
「無理に背負えないものを背負おうとしたら、
……結局、
お互い壊れるだけだよ。」
美咲は、
何も言えなかった。
篠原は、
グラスを見つめながら、
ゆっくりと言った。
「誰かを見捨てたとか、
誰かをバカにしたとか、
そういうことじゃない。」
「ただ、
自分が、
どこまで一緒に生きていけるか。」
「それだけだ。」
静かな言葉だった。
押しつけがましくもなく、
慰めでもなく、
ただ、
真っ直ぐな言葉だった。
美咲は、
胸の奥が、
じんわりと温かくなるのを感じた。
(──そっか。)
(私は、
翔太を捨てたんじゃない。)
(自分の未来を、
選んだだけだったんだ。)
グラスをそっと置いて、
美咲は、
小さく息を吐いた。
そして、
篠原に向かって、
かすかに微笑んだ。
夜の静かなバーに、
氷が溶ける音だけが、
静かに響いていた。
小説:階層の向こう側〜この世界に背負わされた罪〜 ゆか @yukayuka1030s2
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