第31話 私の帰る所

「美世さま、坊っちゃんお帰りなさいませ」

 山を下りた時に清霞が式を放ったおかげか、自宅に帰ってくるとゆり江が笑みを浮かべてこちらを出迎えた。

「はい、ただいま戻りました」

「勘解由様たちは元気でいらっしゃいましたか?」

「はい、とてもよくしていただきました」

「それはよかった。確か勘解由様の所の御嬢さんは美世さまとそう歳が変わらなかったと思いますよ。よい話し相手になったでしょうか?」

「ええ、とても賢くて優しい、女の子たちでした」

 まぁ、とゆり江が嬉しそうにくすくすと笑いだした。その表情を見て、美世の中にあった疲れが癒されていくのを感じた。


「思った以上にてこずった。帝都に変わりはないか?」

 清霞の言葉にゆり江はいいえ、と伝え先に部屋に戻っていった。荷物を軽く片付けようと美世は自分の部屋に戻ってきた。少しの間の留守でも、しっかりゆり江が風通しをしてくれたのだろう。湿っぽさやほこりっぽさは感じなかった。片付けが終わったら改めてゆり江に感謝を伝えよう、と美世は思った。

 部屋に置いてある机には、小さなお菓子の詰め合わせがあった。添えられた文には、”おつかれでしょうから ゆっくり おめしあがり ください”と書かれてあった。空白を入れてあったり、漢字が使われていないのは彼女の配慮だろう。

 ゆり江の柔らかく、少し小さめだけれど読みやすく整えられた文字はまさに彼女らしいと美世は思った。

「いつか、こんな文字が書けるようになりたいわ」

 菓子箱のふたを閉じ、美世は部屋を改めて見渡した。自分のためにと用意された部屋だ。数か月しか過ごしていないけれど、どこか懐かしく思える。


「荷物を片付けなきゃ。えもん掛けの残りはどこにしまったかしら……」

 そういっても、大掛かりなものはあまりない。荷物が増えたのはここ数か月の愛だ。この家に来るまでは、ほとんど何も持っていなかった。

「この羽織も、持って行って正解だったわ」

 念のためにと清霞が持たせてくれた濁緑の羽織をえもん掛けにかける。着物はそう頻繁に洗うものではないが、こうして風通しをしなければいけない。山は思った以上に冷えていて、もしこれがなかったら寒い思いをしただろう。

(まだ早いと思っていたけれど……)

 衣替えをした直後に行けてよかった。もし、夏用の単仕立ての着物しか持っていなかったら、それこそあの山道は越えられなかった。


「肌着も洗わなきゃ。それに、この足袋も山道で大分泥だらけだわ……。石鹸で落ちるかしら? 石鹸のあまり、あったかしら……」

 カバンから広げれば、次々と出てくるそれらは、まだ真新しいものばかり。数か月前の自分からは考えられないほどのものだ。以前持っていた物は、お古や痛みが進んでいるもの、あるいは修繕痕だらけだった。

「いつの間に、こんなに増えていたのね……」

 実家から持ってきたものよりも、買い足されたものが多くなってきた。初めは固辞していたけれど、着物が難しいなら帯はどうだ、帯が増えたなら帯締めや小物はどうだ、と清霞が言ったからか次々と増えていった。

「……」

 ありがたい、と思う。自分になかったものが少しずつ増えていく。自分のもの、が増えていく感覚になれない所もあるけれど、そう思うと心の奥がじんわりと熱を帯びていく。実家にいた時にはなかった感覚だ。

 右へ左へと荷物を振り分けていくと、カバンの奥から小箱が出てきた。滝が大切に持っていてくれた母の帯留めの入った小箱だ。衝撃を和らげるために、風呂敷で何重にも包んでおいたそれを、一つ一つ丁寧にめくっていく。

「お母様の帯留め、見つけられてよかったわ」

 つるりとした表面は目立った傷もなく、大切に使われ、そして大事にしまわれたことがよく分かった。後でゆり江に見せたら、きっと泣いて喜んでくれるだろう。あの優しい人は、自分の事のように喜んでくれる。美世はそんな確信を抱いた。

「滝さんにお母様のことをよく聞けばよかったかしら」

 自分の知る母は、嫁いできたころからだ。それ以前の母の事は断片的にしか分からない。どうして斎森の家に来たのか、薄刃の家ではどんなことをして過ごしていたのか。そんな事だけじゃなくて、自分は知らないことばかりだ。

 子どもの頃は? 好きなものは? とくいなものは? 苦手なことは?

「女学校時代のお母様は何をしていらしたのかしら……」

 少なくとも、滝という心を通わせる友人がいたのだ。疎外感と諦念にがんじがらめになっていた自分とは違う。女学校に通っていた時の教本はどんなものだっただろう、制服はあったのだろうか、通学路にはどんな花が咲いていたのだろう。滝以外にも友人はいたのだろうか、どんな日々を過ごしていたのだろう。


「お母様のこと、私は何も知らなかったのね」

 でも、これから少しずつ知っていけばいい。そう思える。まるで止まった時計が再び動き出すかのように、この家にいると時計の針が動いている気がする。動いていく時計の先に自分はどうなっていくのだろう。かつての自分は変わらない毎日にそれでもいいと思っていた。でも、今は毎日が変わっていく。同じことをしていても、どこか違う。

 同じ洗濯をしていても、ゆり江といっしょにいれば会話が変わる。同じ食事でも、一緒に食べてくれる人がいる。他の人にとっては、それも”同じ”毎日に思われるかもしれない。

(でも、私にとっては違う毎日なのだわ)

 慣れないこともある、間違えてしまうこともある、それでもこの屋敷の人はそれを見て笑ったり、怒ったりしない。美世が手を差し伸べれば、自然とその手を取ってくれる人達だった。


「美世、片づけは進んでいるか?」

「あ、旦那様!? す、すみません……まだほとんど……」

 両手をついて謝ろうとすると、手で制された。そして、部屋の中ほどまで進んでくると、美世のそばに腰を下ろした。屋敷に入る前には洋装をしていたが、今は着流し姿だ。着替えはゆり江がしてくれたのだろうか。

「それは、母親の帯留め……だったか?」

「は、はい! そうです」

 美世が手にしていたそれを見て、清霞はふむ、と小さく息をついた。

「にわかに信じられんことではあるが、不思議なこともあるものだな。滝さんが昔のことをいうのは珍しいし、何なら昔の友人がいたことも初めて聞いた。それが美世の母親というのも、妙な縁があったものだ」

 す、と立て板に水が流れるかのように語りだした。とはいっても、美世はその言葉の意味を理解するのは少し遅れてしまったが。清霞がこんな風に話す時は、たいてい何か隠している時だ。本心を隠す癖があるせいか、全く話さないか、饒舌になるかの二択。今回は後者の方だろう。

(旦那様が本当に言いたいことは、なんでしょう?)

 じぃ、と美世が見つめていることに気が付いた清霞は少しだけ目を丸くし、そして視線をそらした。

「あぁ、まぁ。その……だな」

「はい」

「ゆり江ならば、こういう時両手を上げて喜ぶだろう。姉だって、感極まって泣くかもしれん」

 美世はゆっくりとうなずいた。本心を話したがらないけれど、言うべき時だと思ったのだろう。言葉を選ぶように、清霞が目を伏せた。

「そう、ですね」

 だから、と清霞は美世の目をまっすぐに見つめた。意志の宿った綺麗な瞳だと思う。初めはその瞳に宿っていた色の冷たさに驚くしかなかった。けれど、この家で過ごしていくうちに、その冷たさはやがて柔らかいものになっていった。

 冷酷さの中に熱い信念を持つ人、それが彼なのだ。


「お前と母親の間をつなぐ物がまだあったことを、嬉しく思う」

「~~~っ!」

 美世の顔が急に熱くなっていく。視線をそらそうにも、できそうにない。吸い込まれそうな瞳を覗いてしまったから。

 だから、こみ上げてきた熱は涙に変わり、頬を伝っていく。ポトリと落ちた涙を見て、清霞はぎょっとした表情を浮かべた。

「す、すみま……せん」

「い、いや。泣くのは構わない。だが、泣くようなことを言ってしまったか?」

 慌てたような声色になり、美世をなだめているようにも聞こえる。自分を責めることはないだろうが、誤解をしてしまいそうだったので美世は目元をぬぐった。

「違うのです。旦那様も、喜んでくださったのが……嬉しくて」

「……そうか」

 この人は、本当は優しい人なのだ。優しいから、怒れるのだ。そのことを知ってしまった今、この人に恐ろしさは感じない。その分、その優しさに見合った自分であるのだろうか、という別の疑問も湧き上がってくるのだけれど。

「ありがとう、ございます」

「あぁ、落ち着いたか?」

 はい、と美世はうなずいた。清霞は大っぴらに感情をむき出しにする人ではないけれど、自分の歩みを認めてくれる。どんなにゆっくりでも、止まっても、振り返ってくれる。そう思える。

「旦那様、私……。嬉しい、です」

 その言葉に清霞が何かつぶやいたような気がしたが、美世には聞き取れなかった。

「美世、今回の件は”門番”の暴走だけでなく、別の事件も絡んでいるのではないかと思う」

「……」

 改めて、清霞がたたずまいを正し美世を見た。

「お前の異能を狙う連中もいるかもしれない。だが、私はお前にはできる限り普通の娘のように過ごしてほしいと思っている」

 だから、と前置きしたうえで低い声で告げる。

「お前を守ろう。それが、私ができる答えだ」

「……はい」

 その強い瞳に、美世は迷いなくうなずいた。不思議な数日間だった。でも、多くの物を得た。この先、どんなことが起きてもこの強く、優しい人の支えになりたい、と美世はそう思った。


 こうして、”門番”事件はひとたび解決となった。そして、多くの謎を残したまま、帝都にも本格的な秋がやってくるのだった。

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