第25話 夢の縁をたぐって

「ここは……?」

 目を開くと、今まであった岩肌は見る影もなかった。代わりに、射貫くような夏の日差しが降り注ぐ湖面が見えた。燃えるような紅葉ではなく、鮮やかな蒼い山がそこに広がっている。

(誰かの夢の中?)

 自分の異能がいつの間にか発動していたのだろう。なぜこの瞬間なのかは分からないが、何かがつかめるかもしれない。

「あ、あの蝶は!?」

 あたりをきょろきょろと美世が見渡すと、肩に止まっていった。ほっと胸をなでおろしていると、かすかにだが誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。その声をたどっていくと、湖面の上に誰かが立ちすくんでいた。体を丸め、何かを大事そうに抱え、肩を震わせている。


「あれは……」

 身の丈からしてまだ年若い男だ。鍛えられている肌は日に焼けており、ろくに手入れもされていないだろう髪は大きく縮れながら背中の中ほどまで伸びている。

 見栄えよりも動きやすさを重視したその服装は、野良仕事を生業とするものに見え、あちこちに泥がついていた。 

 しかし、なにより美世の目を引いたのはその男が体のあちこちから血を流していることだ。背中や肩に刺さった矢を無理に引き抜いたのだろう、赤い筋が何本も体に走り、澄んだ水をたたえた湖面が赤く染まっていく。

 美世が男の真横までやってきて、抱えているものが何か分かった。


「女の、子?」

 年端もいかない女の子が青ざめた顔をして男の腕の中で目を閉じている。生気の抜けた体にはもう魂は宿っていないことは容易に知れた。口の端や額からは赤黒い血がべったりとついている。

「すまない、すまない。某が強く、もっと強く止めればよかった……。山を降りてはいけない、と。強く言えばよかった」

 男は静かに涙を流しながら、少女の亡骸を抱え込んでいた。その声に美世は聞き覚えがあった。古風な言い回しと、某という一人称。

「後門、さま?」

「お前を守ると、神仏に誓ったはずなのに。なぜ、父を置いて先に行く?

子が親より先に神仏の元に行くなど……。あってはいけないことだ」

「後門様、私です。美世です!」

 美世が声をかけても、男は気づかずに泣き続けている。大粒の涙が流れ落ちては、少女にふりかかる。

(そうだ、”門番”は元人間だったというわ。)

 ということは、これは人間だったころの後門の記憶ということになる。ならば、誰がそれを見させているのだろうか。そして、これを美世が見ることの意味を探っていると、美世の背後から甲冑がこすれるようなガチャガチャという音が響いてきた。美世があわてて振り返ると、全身を鎧で固めた男たちの集団が武器を構えてこちらをにらみつけてきた。

 その中で一番豪奢な鎧をまとった男が刀を振り上げて号令をかける。

「居たぞ! 確実に討伐せよ、との上様の下知だ!」

 その言葉にその場にいた男たちが一斉に後門に駆け出した。記憶のなかだからか、美世に気づく者はおらず、美世の体をすり抜けていく。

「…………」

 ぎり、と獣のような視線を男たちに向けた。洞穴に放り込まれたような、深い深いその色に襲い掛かろうとした男たちの足が止まった。

「なぜ、某を討つ? 某が何をした?」

「お前達”山守”の術があまりにも危険だからに決まっておろう」

 号令をかけた男が嘆息を交えて答えた。

「ならば、某だけでよかろう。なぜ、娘を襲った?」

「異能は子にも受け継がれる。それはお前もよく知っているだろう? 弱い者から狩る。それはこの世の摂理だ」

「子がお前達に何をした?」

「知れたことを……”山守”だからだ」

 その言葉には明らかな悪意が感じ取れた。美世は目の前の光景に目が離せないでいた。胸に迫ってくる感情をうまく言い表せない。

「ならば……”山守”の山にむざむざ踏み入れた愚かさを呪うがいい」

 低く、重たい言葉が響いたかと思えば後門の体が急に膨らんだ。肉がはじけたかと思えば、その下から現れたのは白銀の毛並み。


 ——— ”門番の後門”の始まりだ。


 後門が遠吠えをすると、辺りの光景が一瞬でかき消えた。夏の日差しが消え、暗闇に閉ざされた。

「…………」

 なんというむごい有様だろう。人間だったころの終わりがこんな形だったなんて、思いたくなかった。

「助けて」

 ふと、少女の声が美世の耳に届いた。声のする方へを振り返ると、黒い蝶がひらひらと舞っていた。蝶はひらひらと舞いながら、地面に降り立つと青い光を強めた。その光が収束していくと、人……少女の形になっていく。

「父上を、助けて」

 黒い瞳が美世を見上げている。痛々しい額の傷はなく、顔立ちの整った少女はどこか礼花に似ていた。

「父上をどうか、山の楔から解放してください」

「私には……どうしたら……」

 美世はためらいがちにそう答えるしかない。父上、というのは間違いなく後門をさしていて、目の前の少女はかつての”山守”。

「あたしが山の外にあこがれたから、父上は”門番”になってしまった。こんなことになるなら、山をおりなきゃよかった……。蝶にあたしの記憶を託すことしかできなかった……。あたしはもう父上に合わせる顔がない」

 ぽろぽろと少女の姿をした影が涙を流す。その声色は震えていて、全ての事に後悔しているようだった。

「あたしが外の世界に興味を持たなきゃ、父上は人として生を全うできた。あたしのせいだ、あたしのせい」

 その言葉に美世は首を横に振る。

「そんなこと、言わないでください」

「?」

「私も、外の世界に興味を持てなかった時がありました」

 もうずっと、ずっと抱えてきたものだけれど。美世は少女と目を合わせるようにしゃがみこんだ。

「でも、旦那様が連れだしてくれて、変わったんです」

 あの蔵の中から手を引いてくれた日のことは一生忘れない。あの蔵の中に戻ろうなんて、もう思わない。

「私はあなたとお父様に何があったかは、存じ上げません。ですが、私が聞いてきた後門様ならあなたが悔やんでいることを知っていると思います」

「…………」

 仁花や智花が教えてくれたことを思い出す。どんな時も味方をしてくれた、もう一人の”父親”だった、と。

「教えてください。私にできることを。私も、大切な人を失いたくないんです」

 夢から覚めた向こう、今なお戦っている人の役に立つために。全てをあきらめようとしている彼女に伝えることがあるから。


「私はもう誰にも大切な人を失ってほしくないんです」


  

 

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