第20話 些末のいっせき

「礼花さん、どこに行くのですか?」

 その声は怯えなどなかった。香耶の手紙にはいつも何かにおびえていて、みっともない、と書いてあったのに。

(名家の血筋、というのもあるのかもしれないわ)

 彼女はつい最近薄刃について知ったのだろう、異能の家に生まれておいて薄刃の血を軽んじるなどありえない。ましてや、彼女は薄刃の巫女だ。巫女のことは詳しくは知らない、けれど山の木々が、獣たちが彼女を見かけるたびに恐れている……それは紛れもない事実。


 薄刃の血筋であることを喧伝すれば、彼女の半生は……いや、そうならなかったことでいま彼女は礼花の前にいる。それに関して、考察はできるけれど今それをする必要はない。今必要なのは彼女の”薄刃の巫女”としての力だけ。それ以外の情報はただの雑音だ。

(薄刃の巫女と言っても、まだ何もできないっておっしゃってたわ)

 妹たちを解して色々尋ねてみたが、彼女が異能の修行を積んでいるようには見えなかった。修行と言っても、礼花の知る修業とはまた違うのかもしれないけれど。


「ちょっと散歩に出かけます」

 礼花はそういって、ニコッと笑ってみせる。それでも目の前の美世の表情は一向に変わらない。

「窓枠から出ていくんですか?」

「田舎者ですから、ちょっとはしたないですね?」

「違います。あなたは、”門番”になろうとしているのでしょう」

「っ!?」

 なぜそれを、と言いかけて口を閉ざした。今ここで問いかけるのは”どうやって””いつから”ではないから。みしりと音を立てた心臓を無視して、礼花は笑みを崩さずに問いかける。

「なぜあなたは私を止めようとするのですか?」

「それは……」

「あなたには関係ないことではないですか?」

「そう……ですけれど」

 あぁ、やっぱりだ。この人は、徹底的に”交渉”ができない。だって、やったことがないから。一方的に突き付けられた条件を呑む以外の行動をしたことがないから。

(これは……。久堂様の奥方になるには大きな疵になるでしょうね)


「美世さん、ちょっと数寄屋まで一緒に行きませんか?」

「すきや?」

 意外な提案に、美世は一瞬戸惑った。一瞬感じた冷気が和らいだ気がしたからだ。

「本当はお母さんの数寄屋なんですけど、時々使わせてもらっているんです」

「は、はぁ……」

(礼花さんはやっぱり”門番”を受け継ぐおつもりなのだわ)

 数寄屋は蔵のある方向とは別の方向、森の入り口の近くにある茶席だ。部屋の造りはどこにでもある数寄屋造り、入るのは礼花と美世だけ。

 床の間に飾られているのは小ぶりの紅葉の枝で、上にかけてあるのは三羽の雀が戯れるように飛んでいる掛け軸だ。

「お茶の席の経験がありますか?」

 その言葉に美世は少し戸惑いながらも、首を横に振った。そうですか、と答える礼花の言葉には棘がなかった。さもありなん、ということだろう。礼花は香耶の友人なのだから、驚きはしないのだろう。

「では、形式ばったものではないようにしましょうか。私も、手順をいくつか省略します。美世さんはこちらへ」

 そういって礼花が示したのは臙脂色の座布団だった。そこに腰を下ろすと、礼花が茶釜に火を入れる。


「今更何をしているのだろう、と顔に書いていますよ?」

「えっ!?」

「当然でしょう。あなたは私を止めに来た、それなのにこうして茶の席についている。傍から見ればおかしいでしょう」

「…………」

 茶釜の中の湯をかき混ぜながら、礼花がため息をつく。いくらか手順を省いた、と言っても知識のない美世には違いが分からなかった。隙のない、丁寧で洗練された動きだ。

 しかし、”門番”になればそれも無に帰る。

「いいんですよ。私はもう、帝都で私を攫った犯人を捜すのを諦めたのですから。あるのはもう、恐ろしさだけ」

「で、では! 旦那さまやお父様に相談することは……」

「できないのです」

「ど、どうして!?」

 事件にあった当事者の証言があるのに、探すことができないとはどういう事だろう。

「薄刃の異能は人の心、記憶に関与する物であることはご存じですか?」

「ええ、それは知っているわ」

「私を攫った犯人は、後門様を追ってやってきたお父さん達や皆さんの記憶をかき消した。私を攫ったのは後門様であるってね」

 ぬるめの湯に抹茶を溶かして、茶筅で溶かしていく。しゃらしゃらという音が、悲しげに聞こえた。

「で、でも!」

「当時の私はまだ尋常でした。子どもの証言一つと大人の証言数十人、どちらが正確だと人は思うでしょう」

 茶筅を置いて、礼花が茶器を美世に差し出した。今の季節に沿うような、深い橙色の器だった。美世にも持ちやすいように厚みはあまりなく、少し浅めの作りをしていた。

(礼花さんはつらい記憶を押し込めて、ここに居るのだわ)

「…………」

「私はあの犯人の顔も覚えていません。分かるのはその人のたどってきたであろう道筋と、それがもたらした現状だけです」

「現状?」

「薄刃がどうかは存じませんが、少なくとも異能を扱うものは一定の精神力が必要です。剛の心、とでも申しましょうか」

「剛の心……。ぶれない心、ということですか?」

 同じように自分の茶をたてると、礼花はうなずいた。そして、抹茶を一口飲み、床に置く。

「私はあの様な心持ちを持つ異能者に会ったことはありません。”山守”の力を狙っているのなら、いずれまたこの山に来るかもしれない。

 そうなれば、私は仁花や智花を守れない。帝都では力が出せない、ならばまだこの山にこもっていれば勝機はあると思うのです」

「礼花さんは一人で戦うつもりですか?」

「いえ、父や母も戦うでしょう。でも、”門番”が健在であると示した方が話が早いのです」

「そんなことをしたら、礼花さんは二度と……」

「分かっています! でも、これ以上己を責める後門様を見たくないのです!」

「茂治さんや滝さんはどうするのですか?」

「っ!!??」

「仁花ちゃんや智花ちゃんもそうです。村の人たちも、礼花さんのことを大切に思っています」

 もちろん自分も、と言いたかったが見開いた礼花の眼にこれ以上の言葉は必要ないだろう。

「礼花さん、お願いですから……考え直してくれませんか?」

「……時間です、ね」

 パタリ、と礼花は糸が切れたように床に倒れこんだ。

「礼花さんっ!?」

 美世が思わず立ち上がり、礼花に触れようとした途端白い何かが視界の隅に割り込んできた。割り込んできた白はどこからやってきたのか、足音一つせずに数寄屋の中にやってきた。

「きゃっ!?」

 ひっくり返るしかいの先にいたのは、後門だった。後門は美世には目もくれず、礼花を器用に背中に乗せると、床の間に開かれた黒い洞のような空間に飛び込んだ。

「待って!!」

 腕で倒れた体を起こし、その空間に手を伸ばしても返ってくるのは狼の遠吠えだけだった。


(どうしたらいいの……! 礼花さんが……!)

 茶釜から細く伸びた湯気がくるりと舞う中、美世は冷水を飲み込んだような気がした。

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