第17話 夢見の力、胡蝶の夢

 その晩、美世がふと目を開けるとあの入り江が目に入った。辺りは闇に閉ざされているが、湖面を照らす月の輝きでその姿ははっきりとわかった。白い獣と、髪の長い少女が湖面にたたずんでいた。


(後門様……と、あれは礼花さん!?)

 

 礼花は滝行でもするかのようなまっさらな汗衫をまとい、後門と向き合っていた。後門は足をそろえて座っており、じっとしている。


「礼花さん!」

 そう叫んで駆け寄ろうとしても、なかなか距離が縮まらない。むしろ近づけば近づくほど遠くなっていくようで。礼花は自分に気づいていないようで、すっと右手を上げると後門の額に手を当てた。

「礼花さん! 何をしているんですか!?」

 走っているのに、息切れも疲れもない。これは夢なんだと思いながらも、美世は走るのを止めなかった。たとえ自分の声が届かなくても、それしか考えられなかったから。

 後門の額に手を当てた礼花の体が透き通るような白い光に包まれた。まるで蛍火に囲まれたように、小さな光の粒が彼女の周りを取り巻いている。そこで思わず美世は足を止めてしまった。

(何が起こっているのかしら……。でも、よく無いのは……分かる)

 だれに? どうして? 

 起きていれば導き出せる思考回路も、夢の中では止まったままだ。夢の中でも自由に動けるものと、そうでないものがある。美世は見えない壁に阻まれるように身動きが取れなくなってしまった。

(礼花さん……!)

 声も出せなくなってしまった美世の視界の先で、光は一層強くなり礼花の姿が見えなくなってしまった。そして、礼花を包んでいた光が強くなるのと同時に、後門の姿が黒く染まっていった。

 ゆらゆらと、黒い影法師になった後門が地面に溶けるようにいなくなったと同時に、そこに現れたのはもう一匹の狼だった。


 ——— 礼花が立っていたところに、新しい獣がいた。


「!!??」

 あれは、礼花だ。なぜ狼に変じてしまったのかは分からない、けれど後門と同じような体躯で、まっさらな毛並みは月光を反射し、つややかな光を纏っている。

 狼は入り江の先に立ち、月を見上げて口を広げた。我こそが新しいこの山の主である、そう高らかに宣言するように。


「アァアオオオオオオオンッ!!」


「礼花さんっ!!!」

 その手を伸ばした先にあったのは、困惑した清霞だった。

「美世? 礼花がどうした?」

「だ、旦那……様?」

 バクバクと心臓がうるさい。視界がはっきりしてくると、そこはもう夜の森ではなく、客間だった。遠くで山鳥がさえずっているのが聞こえた。

「悪夢を見たのか?」

「い、いえ……。違うのです……悪夢、ではない……はず、です」

 心臓につられるように、細切れになった息に混ぜて何とか吐き出す。夢の中で見た礼花の表情はうかがえないが、少なくとも恐怖におびえているようには見えなかった。まるですべてわかっているように……。

「礼花さんが……”門番”になる夢を見ました」

 その言葉に清霞が息をのんだのが分かった。

「それは……どんな夢だった?」

 問われて、美世は先ほど見た夢の内容を話し始めた。月に照らされた入江と、そこにたたずむ後門と礼花。錦絵のような世界で、礼花の姿が後門の様な白銀の狼へと変わってしまったこと。そして、遠吠えによって起こされたこと。


「……本気で言っていたのか」

「旦那様?」

 悔しそうに顔を歪めて、清霞が下を向く。

「礼花は次代の”門番”になると言っていた。だが、それをしてどうなる? ”門”がいずれ閉じてなくなるのなら、”門番”になっても意味はない……それどころか、家族に満足に会えなくなる……それに、あれだけ積み上げた知識は全て無駄になる」

「そ、そんなっ!?」

「”門番”が元”山守”であるなら、その寿命は人のそれをはるかに凌駕する。”後門”がこの山に現れたのは500年も前の話だ。

 つまり、礼花は”門番”になったのち、気の遠くなる時間をたった一人で過ごすことになる。己を覚えている者がすべて土にかえってもなお、一人で……」

「たった一人で……生きる……」

 500年、という年月は美世にとって長く感じた。そんな年月を生きられる人間は一人としていないだろう。60年生きれば上々、80年生きれば稀、100年生きれば称賛に値するほど……人間の生きられる時間は短い。

 少し前なら、そんなこと思ったこともない。ただただ目を閉じて、つまらない人生が一日でも早く終わるように願っていた。でも、久堂家にきてその考えは消えた。

 一日でも長く、彼らのそばに居たい、と。だから、礼花の覚悟が痛々しくも、立派に思えた。けれど、疑問の霧がどうしても晴れない。

「私、礼花さんと話がしたいです」

「美世?」

 自分が見た夢が本当に”正しい”のか、彼女と話がしたかった。正しい、というのは正夢になるか、どうかもあったがそれが本当に彼女の望みなのか、それが気がかりだった。


(私なんかが礼花さんに話しても、意味がないのかもしれない)

 何せ彼女は”山守”の後継者として幼いころから修業をしてきた。帝都にあこがれ、高等女学校に進めるだけの知識を得ている。幼い妹たちの面倒を見ながらも、立派に長女としての振る舞いをしていた。

 それに比べて自分は、見鬼の才がないからと親兄弟から見捨てられ、与えられる苦痛を受け入れながらただ諦めていた。いずれ誰かが救ってくれる、なんてあやふやな希望すら見ないようにして。

(礼花さんの一番の願いは本当に”門番”になることかしら)

 作ってくれた焼リンゴの味を思い出す。程よく焼けた表面を滴り落ちる蜜液のほんのりとした甘さ、やわらかくほどけた果肉と混ざり合ったバターと香辛料の匂い。 

 作り方を教えて欲しい、そう言った時に見せた無邪気ではつらつとした笑み。


(少なくとも、私は礼花さんが人として繋いだ絆を大切にしている事を知っている)

 幼いころのたった数か月しか関わり合いのなかった人と、何年も文通するような子だ。式を放ち、村の子どもたちの安全を見守っている子だ。大人たちも、礼花の事を信頼し任せている節があった。


 そんな彼女だ。”門番”になって喪うものは、美世よりもずっと多いだろう。

「旦那様は礼花さんをどう思っていますか?」

 その問いかけに、清霞は一度目を伏せた。言葉を選んでいるようにも思えたが、すぐにその淡い色の瞳を開く。

「恩師の娘で、今の実力であれば特務隊の予備部隊に配属されてもおかしくない、そう思っている。帝大の問題も解けるほどの人材を鄙に閉じ込めるなど、名馬を畑仕事に使うようなものだ」

「そう、ですね!」

 清霞からそれだけ聞ければ大丈夫だ。美世はぐっと手に力を込めて、立ち上がった。

「私も、礼花さんともっと仲良くなりたいです。香耶の友達だから、じゃなくて私自身が、礼花さんと友達になりたいのです!」


 

 

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