第3話 後門の狼
—— 神。
その言葉に場の空気が凍てついたのは、言うまでもなかった。何も知らない美世でさえ、神という言葉が持つ特別な意味を知っている。
(神を討伐……どういう事かしら……)
昔、子どもの頃に読んだことのある絵本では神は人を助けるものであって、人が討伐するようなことはなかった。むしろ、神に不敬を働いたとして呪いをかけられる話の方が多かった。
重たい沈黙を破ったのは清霞だった。氷のような表情を浮かべたまま夫婦に問いかけた。
「神というと、”門番”の事で間違いないですか?」
「ええ、その通りよ。お前も軍の人間なら聞き及んでいることでしょう。
けれど、美世にも知らせておくことだと思うから、あらためて説明させてちょうだい」
白蛇がチロチロと舌を出しながら、ゆったりととぐろを巻き始める。たおやかで気品のある女性の声だから耐えきれたが、もし蛇が苦手な人間が見たら泡を吹いて倒れるかもしれない。
美世だって、蛇の恐ろしさは知っている。でも、どこか安心していられるのは蛇からはおよそ敵意の様な物は感じられないから。そして、もう一つは、清霞の存在。
(恐れ多いことだけれど、旦那様のそばに居ると心強いわ)
「山守がいる山には特に力の強い生き物がいるの」
「強い生き物……。例えば、どのような生き物ですか?」
美世の問いかけに、一瞬蛇がピクリと首を動かした。まさか美世が言葉を発するとは思っていなかったようだ。
(この方……。滝さんは私に何か伝えようとしている……。)
前までの自分であったなら、知らないのならそれでよいと思っていた。けれど、目の前の二人は美世に伝えたいことがあって、言葉を選んでくれている。
「シカにクマ、イノシシにフクロウなんかもなりやすいわ。”門”の近くを縄張りにして、人間を返り討ちにできるほどの巨躯であったり知能を有しているの。だから、術者の世界では”門番”と名付けて、協力しているの」
「協力、というよりもどちらかというと互いに不可侵にしているんだ」
「不可侵?」
「お互いにお互いを害しない、という意味だ。”門番”を討伐しない代わりに、”門番”もまた、こちらに手を出さないということだ。大昔、”門番”と言うことを知らずに大規模な討伐隊が出されたことがあった。500年は昔の話だ」
「は、はぁ……」
それはかつて帝都が侍によって統治されていたころの話だろうか。幼いころに通った学校の歴史の授業ではそんなことを教わった覚えがある。
「時の権力者が集めた戦力は10万にも上ったというが……、帰ってきた数は1000にも満たなかったという」
淡々とした口調から告げられた数字に、美世はとっさに口を覆った。
「え……」
「術者の家系にある者、その者に同行していた者以外は全員が例外なく深手を負うか、命を落としたという」
「そんな……ひどいことが……」
「それ以来、”門番”には互いに不可侵であるようにとの命が下ったという」
ぱちぱちと茂治が手を叩いてご名答、とつぶやいた。そして、また手帳の帳面に絵を描き始めた。帳面の半分を横にし、シャッシャと勢いをつけて線をつけ足していく。何を描いているのだろうと、じっと覗き込んでいるとあっという間に出来上がってしまった。
「これが俺の山の”門番”。下野国の
「これが……”門番”」
はじめは大型の犬と思ったが、違う。それよりも固く長い毛並み、長く引く尾はまっすぐと伸び、四肢はたくましく爪も鋭い。まだらに浮かぶ黒い毛並みに沿うように鼻筋はすっと伸び、瞳は得物を捉える鋭さを宿していた。
力強く大地を踏みしめ、真上に向かってその鋭い牙をむき出しにし、今にも遠吠えをしそうな―――狼だった。
その絵を見た時、美世は心のどこかがちくんと傷んだのを感じた。
(どうしたのかしら……)
「これを、私に討伐しろ……と?」
「できる限りの援護はしよう。”山守”が外部の人間に干渉すること自体、あってはならないことの一つだからね」
「…………」
「美世。お前も来なさい」
「駄目です」
滝の言葉を間、髪も入れずに清霞が遮った。
「私一人ならまだしも、美世を連れていくことの意味が分かりません。美世は異能の力を持ち合わせていない」
「…………」
確かにその通りだ。異能を持たない自分が言っても、何の役にも立たない。改めて言われてしまうと、心にもやがかかってしまう。清霞が悪意なく、美世を守るために行っているのだと分かっていても……。
夫婦は清霞の言葉に顔を見合わせた。その表情は、想定内と言わんばかりだ。
「そういう事なら、二の矢だ」
「清霞がそう言うだろうっていうのは、葉月から何となく聞いていたわ。まさかここまでとは思わなかったけれど。いい加減、顔面以外も正清さんに似たらどう?」
正清、という言葉にぴくんと清霞の指が動いた。けれど、すぐに反論することなく押し黙ってしまった。
けれど、分かる。苦々しさを隠していない。葉月に言いくるめられた時と同じ表情をしているからだ。
懐から茂治が取り出したのは、丁寧に封がされた書状だった。上等な和紙を使っているのが、少し離れた所に座っている美世からでもわかった。受け取った清霞が読み進めていくうちに暗い顔をしていくので、美世は思わず口を開く。
「だ、旦那さま。どのようなことが……」
「……美世に何かあれば、山を焼きますよ」
挑むような、威嚇するような声。見た人が思わず悲鳴を上げそうな顔であっても、夫婦は微動だにしなかった。ふと、2人で目線をそろえ、そしてピッタリと沿うように宣言をする。
「そうならないようにするよ。”山守”が山を失うなんて、末代の恥だ」
「そうならないようにするわ。なぜなら美世は—————ですから」
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