第五節 親愛なるものへ ①

 *

 


 ――あの日、五番戦線のヤジェ街にいた俺たちが、寂れた宿屋を目にしてから、持ち主の所在を聞いて、十番戦線にすっ飛んでくるまでは早かった。


 ここは、やがて俺たちの帰る場所になる。


 そう思えたんだ。


 ぼけーっとしてたが、レイザーも同じ気持ちだったんじゃないか? 最近拾ったミナコも、多分、同様に、だ。


 ……そんな三人で何ができるんだって?


 これからだろ。何をやるにしても、形から入るんだ。そうすれば、いつしか本当にそうなってるんだからな。


 だが、その形のとっかかり――の譲渡交渉は、ここ十番戦線での数回に渡る話し合いを経ても、こじれ具合が極まっている。


 お相手方は、これ以上金額を下げる気はないらしい。莫大とまでは言わないが、まあ、気軽に払える額ではないわな。


 ――さて。


 現実なんて、そんなもんだよな。


 ……ああ。わかってたことだ。



「――ほらよ」


 そう言って、ヴァンは紙をすっとテーブルに置いた。


 軽食を出すドリンク屋の店先に、いくつかの簡素なテーブルが並べられている。


「潰れた宿屋にしては、ずいぶん気取った値段だろ? もう少し進めてみるが……無理だろうな」


「……へぇ……?」


 ドレイザーは、余りある袖の奥から、ゆっくりと手を伸ばし、紙を持ち上げた。


「…………」


 ――金額が書かれているだけなのに、いささか長すぎる彼のその凝視は、ヴァンの黙っておれない、せっかちな性分を刺激した。


「……ったくよ。失敗させといて、何であんな強気になれるんだろうか。気になって仕方がねえよ……」


 ヴァンは、なおも沈黙するドレイザーを一瞥した。


「……なあ、聞いていいか?


 ここへ真っ直ぐ歩いてくる間、あんたを見てたけどな、全く動いてなかったぞ。


 冗談かと思ったぐらいに。


 今、どこにいるんだ?


 食べるもの買ったんならな、ありがたく食べとけよ。


 あと、交渉の場に来る気が無いんなら、ミナコとここで待ってろって言わなかったか? あいつをどこへ放流したんだよ?」


 返事はない。


 しばらくして、ドレイザーは、ふっと笑った。


 紙から目を離し、眩しそうに目をしばたかせながら、ヴァンを見上げた。


「ようやく分かったんだ、ヴァン。君の小言と、どう添い遂げていくか――それは僕の一生の課題になりそうだってね。


 ゆえに、どう立ち向かっていくかを考えていたところさ。


 ……ミナコについては、放流というより、解き放った、かな。彼女は、彼女なりに交渉の準備を進めようとしているらしい。


 独自の解釈で、アクセサリー屋へ向かったんだ。キラキラしているものが好きなんだって。


 君の指示と、彼女の哲学と自主性が生んだ結果なんだ、これは」


「……ほお」


 にやっと、口角を上げたヴァンは、ドレイザーの対面の椅子に、どかっと腰をおろした。受けて立つぞ、という気概をありありと見せて。


「こんな魔境の入り口で、あのチビに何かあったとして、自分に責任は無いとおっしゃる。


 ……まず、添い遂げるのか、立ち向かうのか、はっきりさせとくか?」


 その言葉に、ドレイザーは、笑いながら首をふると、わざとらしく体をのけぞらせて、両手を掲げた。


「……分かっていると思うけど、心配はいらないよ。からね。もしミナコに何かあったら、二秒で駆けつける……いや、三秒は欲しいところかな」


「……心配なんかしてやしねーよ……。あいつは新天地フロンティアをひとりで放浪してたんだぞ?」頬杖をついたヴァンは、通りを眺めた。


 その横顔は、行き交う戦士たちの中に、小さな影を探しているようにも見えた。


 ヴァンが視線を戻した時、ドレイザーは微笑んでいた。


 それは、これから、彼が――彼らが幾度となく目にすることになる、静かな笑みだった。


「君は、優しくて、いいやつなんだ、ヴァン。そのことは知ってたかい?」


「……あぁ?」


 ヴァンの追撃を警戒してか、ドレイザーはすぐさま言葉を継いだ。


「さっき黙っていたのはだね、お金のない僕がだよ? よし、これで行こう、なんて言おうものなら、色々と可笑しいじゃないか」


 ヴァンは鼻で笑い、

 

「……一理あるな。我らが英雄スカイ・ロア様が、山ひとつでも狩ってくれればなあ」


 ドレイザーは、空を仰ぎながら、「……そうだねえ」


 ぽつりと、そうつぶやいた。


「とりあえず、このまま進めるからな?」


 ドレイザーは、また微笑んだ。


「ああ、そうするといい。


 これでも僕は、君の、戦線ここに、自分なりの居場所らくえんをつくりたいという夢に、全面的に賛同しているんだ。


 きっと上手く行くよ。


 だから君は、お金以外の支援なら、あてにしてくれていい。


 どれほど、必ず戻ってくるからね」


 ――その時、ヴァンは立ち上がった。


 身を乗り出して、ドレイザーの腕をがっしりと掴んだ。


 ドレイザーの言葉に感動したわけではない。ある気配を察知したのだ。


「おい、レイザーよ……


 いま感動の言葉を述べて、颯爽と、どこに飛び立とうとしたんだ? 行くあてもねえのによ……」


 ドレイザーは、笑った。


「……負けたよ、ヴァン。……負けたよ、完全に」


「ここ一番の残念な顔するんじゃねえや! このボケが!」



「――ところで、交渉している方に会いに行ったとき、そこで働いている女の子がいただろう? 桃色の髪の?」と、ドレイザーは言った。ようやく、軽食に口をつけていた。


「ああ……とんでもない美女か。あの夫婦の娘だな。さっき行った時も忙しなく動いてた」


 ヴァンの動きが止まった。次の瞬間、彼が浮かべた表情は、そういった話が、ドレイザーの口から出たことに対して、嬉しくてたまらない――といったものだった。


「……俺の記憶が正しければ、あんたがあの美少女を見たのは一度きりだ。


 ……そうだったんだな。


 興味ねえと思ってたが、


 これまでは、目にかなう女性がいなかった、ただそれだけだったんだな」


 ヴァンは一呼吸置いて、


「いや、まず自分の年齢考えろ! アホか!」


「何を言ってるんだか、僕にはさっぱり分からないけどもね。


 ――あの子は、強いよ」


「……」ヴァンは、沈黙する。


「……まさか、雇うとか、そういう話か?」


「はは。話が早くてすむよ。


 今の男ふたりじゃ、ミナコの相手が務まらないところもあるだろうしね。


 ……ただね、ひとつ言わせてもらうなら、僕たちのやろうとしていることを考えると、ではないはずだよ」


 ドレイザーは、首をかしげた。「……なかま?」


 ヴァンは、テーブルの一点を見つめたまま、なにやら考え込んでいる。


「……確かに、人目を引くタイプではあるのか。あれは、顔だけの話ではないよな」


「そこなんだ、ヴァン」


 そう言ったドレイザーは、わずかに身を乗り出して、にっこりと笑った。


「僕がという意味で、君と彼女は似ているんだ」


「ウゲッ――!」


 言葉にならない叫びを上げたヴァンは、急ぎ周りを見回した。


 誰にも聞かれていないことを確認すると、安堵の息をついた。


 ヴァンは首をふって、ドレイザーの言葉の余韻を払った。


「……じゃあ、どうぞ」ヴァンは宿屋の方へ手をひらりと差し向けた。


「……ふむ、そう来たか」

「さあ。頼んだ」ヴァンは、ドレイザーを見据える。


「……緊張してしまうから……」


 ヴァンはにんまりと笑みを浮かべて、


「いつか、ぶっ飛ばす」


「くれぐれも気をつけて、待っているよ。


 ……じゃあ、良ければ、彼女に伝えてほしいことがあるんだ――」


 二言、三言、言葉を交わしたあと――



 ヴァンは――本日二回目である――宿屋へ向かった。

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