ガーベラの種

深水彗蓮

第1話

「みーちゃん、これで良いかな?」

「俺はみつるだ。良いんじゃないか? 分からないけど」

 鏡台の前の祖母に、俺はそう言って背を伸ばした。彼女は喪服を何度も確かめて、持ち物を改め続けている。ああ、ティッシューを忘れてる。気持ちは分かるが緊張し過ぎだ。

「良かったねぇ。ペット可で……」

「じゃないと俺が怒る」

 涙を怺える飼い主に、黒猫の俺はポケットティッシューをパンチで送り届けた。廊下は木だからよく滑る。古い家だから、まだお座敷やらが残っている。

「あら……忘れてたわ」

「だろ?」

 キャリーバックに入れられて俺は飴色の、あの子に褒められていた瞳を閉じた。

 亡くなったのはこの家の十五の娘。ちなみに娘の両親は俺が来る前には居なかったから、今から一年前より前に亡くなっている。娘と祖母、俺の二人と一匹暮らしだったんだ。

 あの子は川遊びに行ってそのまま帰ってこなかった。探しに行けば水中に遺体があったそうだ。俺にはよく分からなかったが警察に解剖してもらって、今日が葬式だった。家族葬で、一人残された今の飼い主、多恵子が喪主。



 式場に入って、多恵子はあの子の友人達と話していた。早くも涙ぐんでいる。……大丈夫だろうか。不安だ。

「今日はありがとうね」

「いえ……その、礼儀とか分からないんですけど、この度は、ご愁傷様です」

暁咲あきさを見てやれなくって、ごめんなさい」

「恐れ入ります。アキはお友達が来てくれて嬉しいと思うわ。ありがとうね」

 式が始まった。多恵子は俺をキャリーバックから出す気はないらしい。ここで、秘密の技を使おう。ロック付きのドアなのだが、実は片方は壊れていて、下から上にロックを押し上げると開いてしまうのだ。猫でも分かる簡単な解錠だ。……暁咲はわざとこれを見逃していた。俺に逃げないでよ、と言い聞かせて。何故だったんだろう。

 かたん、と小さな音がした。悲鳴を上げてドアが開いていく。

「あ!」

 小さく多恵子が洩らした悲鳴より先に俺は式場に降り立った。飛び降りた勢いのまま、焦る飼い主を目尻に優々と式場を横断し、棺の縁に飛び乗って暁咲の顔を覗き込んだ。死装束なだけで生前とあまり変わらない表情だった。手紙や折り紙、家庭科の課題で作っていた綿の服、ガーベラのネームプレート、小さな人形が周りに置いてある。友人達がたくさん持ち寄った副葬品ってやつだろう。

 暁咲は俺のことをよく考えてくれる子だった。いつだって、ずっと。そう、あのガーベラだって。

 あいつはガーベラの切り花をくるくる回して弄りながら俺を見て笑った。

「猫はガーベラは大丈夫なんだってねー」

「この家にガーベラかよ。似合わないんじゃないのか?」

 暁咲は家にあった陶器の花瓶にそれを挿した。

「うわ、似合わなーい。ま、いいか」

 そうやって微笑んだあいつが懐かしい。俺の方が先に死ぬと思っていたのに。どうして棺桶なんかに納まってるんだよ。出てこいよ。また、俺に笑ってくれよ。

「猫じゃらしより市販のおもちゃが好きなのー? お金かかるってば」

 そうやって言いながらも優しく撫でてくれていた。

「いいな、その琥珀の目。言い方、飴色がいい? それとも満月?」

「お好みでどーぞ」

 あいつは自分で自分を褒めるように手を叩いた。そのテンションの高さに俺はちょっとびっくりする。

 彼女は満面の笑みで寝転がった。

「うん。いいね、満月。あ、名案閃いちゃった! 天才だわ、あたし。君の名前、みつるでいい? 満月の満はみつるとも読めるんだよ」

 十五歳だった。たったの十五。無邪気な十五歳。中学三年生ぐらいだっただろうか。俺はしばし記憶を探った。

 葬儀社の人間に捕まりそうになったから手を引っ掻いてやった。邪魔をするな、と牙を剥く。人間が別れを告げていいなら、俺にも告げさせろ。

「暁咲が言ってたみつる君? 本当に満月みたいな眼」

「だから満なんでしょ? 名前の漢字」

「知ってるよ、もちろん。すっごく綺麗な目だなぁ。……暁咲、愛されてて良かったね……」

 そのうち、大人しくしているからいい事になったのか、次第に気にされなくなった。



 最後のお別れの挨拶を述べて、生花が故人の周りに入れられていった。

 ——暁咲は死んでしまったんだ。もう二度と会えない。

「なんで、なんだろな。どうして、死が来るんだよ。お前に」

 ひしひしとその寂しさが身を蝕むようで、釘打ちを行う時には身が切られるような思いだった。あいつは最高の飼い主だった。なんで川に行ったぐらいで死ぬんだよ。

 不意にぼそ、と多恵子が呟いた。俺は抗議の声を上げる。心の中で同意しながら。

「おいおい、よしてくれよ。暁咲はあんたが死んだら悲しむんだぜ?気持ちは分かるけどよ」

 多恵子は他にもいろいろと用事を済ませ、ようやくとぼとぼと家へ帰った。彼女まるで、十歳も歳をとってしまったようで忍びなかった。



 多恵子は繰り返しあの子の部屋をいじくるようになった。俺のおもちゃを引っ張り出し、猫の本を引っ張り出した。種を見つけてガーベラを増やして。下手くそだった遊びも上手くなっていった。

 多恵子は度々泣く。俺はそれを寄り添うことで慰めていた。座り込む多恵子の膝に乗ったり、擦り寄って鳴き声を上げたり。

「どうして……」

「悔しいなぁ」

「私は、どうすれば……」

「生きろよ。な?」

「娘夫婦から託された子だったのに……あんなに、若くていい子だったのに」

「そうだな……」

 多恵子は悲嘆に暮れて涙を流し続けた。

 多恵子はガーベラと俺の面倒を見ることを生き甲斐にして生きているように見えた。必死で縋って立ち続けようとするように。このどちらも、暁咲が遺した事だ。その因縁に気づいた時、俺は仏壇を軽く睨んだ。もっと遺して逝けば、多恵子はお前の死に長時間直接対決しなくて済んだんだろうに、と。

 一周忌が過ぎ、三周忌、七周忌、十三周忌が過ぎていった。過ぎる度、多恵子は落ち着いて行った。笑顔も増えていった。

「今日は五回目の命日だよ、みつる」

「そうだな。昨日も聞いた」

「昨日も言ったから分かってるかな。もうすぐお前も六歳だね。あと何年一緒に居れるかな」

「歳を忘れるほど耄碌もうろくしとらんわ。……あと六、七年じゃないか? ばあちゃんと俺、どっちが先に死ぬのかな」

 俺は転がった玉を追いかけて箪笥の下へ駆け込んだ。戻ると多恵子は仏壇に手を合わせていた。夏祭りの写真が一番新しかったんだっけ。良かったな、生者が写りこんでなくって。

 ちりん、と風鈴が縁側で鳴った。あんなもん、あっただろうか。音に顔を上げた多恵子は微笑む。

「風鈴を買ったのよ。ガーベラの。珍しいと思ったらいつの間にか買ってたわ」

「ガーベラパワー、すげー」

 多恵子は苦笑した。寂しそうに仏壇を振り返る。愛惜の眼差しが遺影を捉えた。

「……知らなかったわ。ガーベラは猫が居ても大丈夫だったなんて」

「助かったよ、最初の飼い主があいつで。俺、齢一年にして危うく死ぬとこだった」

 多恵子は打ち水を始めた。俺はその場を離れて、家の中で自分一人で球遊びを開始した。隙間に入って手こずっていると、叫び声が聞こえた。

「誰か! おおい、川に! 川に人が‼︎」

 男が叫びながら表を走っていった。川に、人、助け?

 まるで、あの時みたいな。そう思うと腹の底の冷たいものが疼いた。川に誰かが呑まれようとしている様がありありと思い浮かぶ。そして、葬儀を出す様まで。

 携帯を握りしめて多恵子が飛び出した。もちろん俺も追いかける。

 大声に顔を覗かせる近所のやつら。なんで、見てる。早く出てきてやれよ。人が死ぬんだ、あの川は。また、死にかけようとしてるんだ。

 黒い塊となってアスファルトの上を疾走する。蝉時雨が異様に耳についた。うるさい。レクイエムを止めてくれ。電柱の脇に死後硬直の始まったアブラゼミがいた。俺は前を見据える。

 ——今度は、死なせてしまう事は赦されない。

 鳴いたり走ったりして度々男を見失いかける多恵子を案内する。五年前から川に多恵子は寄らないようにしていた。だから道を覚えていないんだ。

 砂地の川に到着した。思った通り、子供が溺れている。中学生か高校生ぐらいだろうか。まだ生きている。ロープや浮き輪を投げる人々、パニックの子供はなかなかそれを掴めない。もどかしく見つめていると、奇跡的に大きな浮き輪に子供はかろうじてしがみついた。よし! と声が上がる中、暁咲の声を聞いた気がした。

「みつる、おばあちゃん……チャンスを活かして。あの女の子を助けてね。お願い……お願いだよ」

(ああ。もちろん)

「頑張れ! 頑張るんだ‼︎」

 俺は鳴く。多恵子も大声を張り上げた。後悔に押されてこいつは川の事故の対処に強くなっている。

「落ち着いて! 浮き輪をちゃんと掴みなさい! そしたらロープを投げるわ。浮き輪にしっかり結びつけて。大丈夫よ! 頑張って‼︎」

 いく人かが驚いたようにこちらを振り返った。俺たちは一心不乱に女の子を見つめる。多恵子の事がこれ以上に頼もしく思ったことがあっただろうか。生きようとするあの命を助けたい。

「行けっ!」

 女の子は浮き輪の輪の中に入る事に成功した。浮き輪が逆さまに一回転して女の子を真ん中にしたのだ。いつもと同じ要領になった事に安堵したのだろう、きちんと呼吸を繰り返している。その調子だ。

「ロープを投げるぞぉ!」

 弧を描いて跳んだロープは女の子からだいぶ離れている。何やってんだ。咎めるように鳴いた俺を、ちらりと見た男は「悪かったね」と言いながらまたロープを投げた。苛ついたのか力が入っている。しかし、今度は女の子を打ってしまったがきちんと着いた。よくやったぞ、名無しの権兵衛。

「ロープを浮き輪に回して結んで! あとは浮き輪にくっついてればいいわ! 頑張って!」

 女の子は震える手でロープを浮き輪に結びつけた。男衆がロープを引く。離岸流のない場所に着くと早い事を多恵子は伝えて、流れに任せても大丈夫だと言うことを解説している。

「沖に流されなければ大丈夫。完全に陸に上がるまでロープは手放さないで。ここは砂地だから蟻地獄みたいになるの。ああ、でも岸の岩には気をつけて」

「ありがとうな、ばあさん!」

 ぐいぐい女の子は岸に寄っていく。青白い顔の女の子は支えられながらも自分の足で立って見せた。場は大歓声に満ちる。多恵子は安堵に脱力して座り込んだ。呆然とその光景を見つめている。

「お疲れさん、頑張ったな。多恵子も、あの子も」

「ばあさん、大丈夫か? 女の子は無事だぞ」

 名無しの権兵衛と俺は同時に多恵子に声をかけた。聞いているのかいないのか、多恵子は呆然と呟いた。

「良かったわぁ……」

 見事に女の子は生還した。



 「アキ、私は貴女を助けられなかった……。でも、今回は助けられたの。ありがとう。それから……ごめんね。至らないおばあちゃんで、ごめんねぇ」

 多恵子は仏壇に謝る。俺は奇跡を起こしてくれてありがとな、と言ってやった。暁咲はそっちこそ頑張ったね、とでも言いたげに微笑んでいるように見えた。

 警察は感謝状を多恵子とあの男に贈るとしている。ついて行けたらいーな、なんて思っていたら、多恵子は飼い猫のお陰です。と俺を指差した。

「怖くて竦んでいた私を突き動かしたのはこの子です。鳴いて、まるで私に暁咲を……孫の事を活かせ、って言ってくれているように聞こえたんです」

 警察の人はキャットフードも贈呈しましょう、と微笑んだ。俺たちは一躍有名になった。でも、多恵子は酷く落ち込んでいる。記憶がぶり返してきたんだろう。……俺にはよく分かるよ。

「アキ……」

 俺は無言で二番目の飼い主の足に擦り寄る。

「アキをもっとちゃんと見てたら……」

「そうだなぁ」

 多恵子は透明な雫を零し始めた。情けなさそうに嗚咽を繰り返す。孫も、正しく対処できたら助かったんじゃないか、川に行かせなければ良かったんじゃないか。後悔は溢れれば尽きないだろう。でも、その洪水の中に溺れないようにな。多恵子まで水難で死なれちゃ困る。

「お前は頑張ってるよ」

「みーちゃんも私を置いてっちゃうのかな。責めるとかじゃないんだけど。寂しいよ」

「みつるですよぉ。まあ、だろうな。その時は、ガーベラとでも生きてくれ」

 俺はガーベラの種を入れた袋を叩いた。ちょうど縁側の端に落ちていたからだ。それを咥えようとしたら、ダメダメと多恵子は袋を取り上げた。

「ケチー」

「駄目よ。私にはガーベラがあるって?そうね。私達にとって、ガーベラは特別だものね」

「俺たち三人には、だぞ」

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

「はーい!」

 多恵子は玄関へ向かう。すぐに驚いたような声と、嬉しそうな声が聞こえてきた。

「あらあら、わざわざ来てくれたの? 嬉しいわぁ。お礼に? ありがとうねぇ。さあ、暑いんだから上がって上がって」

「お邪魔します」

 女の子の声がした。ワンピースに麦わら帽子と、漫画にでも出てきそうな十四か十五ぐらいの少女が入ってきた。俺は値踏みするように少女を見た。

「みーちゃん、あの時助けられた女の子よ。紗江さえちゃんだって。紗江ちゃん、あの子がみつるよ」

「みつる君、こんにちは。溺れた時、助けてくれてありがとう」

 少女はぺこりと頭を下げる。

「ああ、浮き輪の子か。多恵子と暁咲のおかげさ。感謝は多恵子とあの仏壇にあげてくれ」

「おばさんも、ありがとうございました」

「いえいえ。ああ、そうめん出しっぱなしだわ。食べる?」

「良いんですか!」

「良いわよ。何かあったらウチにいつでも来てね。私達はいつでもいるもの」

「はい!」

 少女は心底嬉しそうに笑顔になった。

「アキ、貴女のおかげで助かった子よ。紗江ちゃん」

 多恵子は仏壇に手を合わせた。紗江もそれに倣う。

「アキ——暁咲はあの川で亡くなったの。似ている事故を防ぎたくって勉強していたから紗江ちゃんを助けられたのよ」

「そうだったんですか! 私、気づいたら浮き輪を掴んでて。その時のおばさんの声を冷静に聞けたから助かったんです。掴んでたのは暁咲ちゃんのおかげだったかもしれないですね! すごい……暁咲ちゃんに助けてもらってなかったら私は絶対死んでましたよ。暁咲ちゃん、助けてくれてありがとうございます」

 興奮気味に紗江は膝立ちになった。俺はそれを聞いて、勘は合ってたんだな、と思った。暁咲は優しかったから。

 紗江は深く暁咲に頭を下げた。帽子を持ってにっこりと笑う。

 話を聞いていると彼女も親戚筋に育てられているらしい。本当の家みたいだ、と言って紗江は多恵子をおばあちゃんと呼んで懐いた。俺とも良く遊んでくれる。自作の玩具を持ってきてくれたり、多恵子を手伝ったり、まるで暁咲が戻ってきたようだった。



 「みつる、このおもちゃはどう?」

 紐の先に音の鳴る玉がついている。紗江が手首を翻した。からからと音を立てて目の前を横切る獲物。ばっとそれに飛び掛かった。押さえつけようとするとそれはするりと逃れてしまう。

「気に入った?」

 がむしゃらにそれを追う。もっと右、左、上、跳び上がった——後ろ。体を回転させてそれを取り押さえる。

「捕まっちゃったぁ。面白い?」

 玉を噛む。奪われそうになる玉を追いかける。抱き込むとより強く引かれた。手の中からそれは零れ落ちた。留めようもなく、奪い取られた。

「暁咲……」

 どうして、こんなたわいない事なのにあの子を思い出すのだ。最近、こんな事が多い。紗江と仏壇の前でこうして遊んでいるのが恐ろしい。そして、酷く暁咲を裏切っているような気がする。

「みつる?」

 がたん、と音がした。俺は立ち上がる。間違いない、どこかの縁側から何かが落ちた。何かについてはあえて考えず、庭に降り立って駆け出した。

「え⁉︎ あ、みつるーっ!」

 紗江もついてくる。砂利の中から多恵子が身を起こすのが見えた。

「多恵子!」

「えっ⁉︎ おばあちゃん! 何かあったの⁉︎」

 怪我はないようだった。苦笑するふうさえ見せて、姿勢を戻している。

「ちょっと、足を滑らせてね。頭は打ってないのよ。大丈夫」

「本当ですか? 良かったぁ」

 紗江は無邪気な笑顔を見せた。本当に大丈夫そうなので俺は溜め息を吐いた。

骨粗鬆症こつそしょうしょうじゃあなくて良かったな」

「みつるもありがとうね。アキのアルバムでもないかなって思ってね」

「暁咲ちゃんのですか? すごく可愛いんでしょうね」

 紗江は多恵子が見ている書類の山に目を向けた。

「そうね。利発でとっても良い子でねぇ」

 多恵子は涙を拭いた。俺は書類の山をパンチ五回で崩した。ピンクの表紙を押し出す。日焼けしていて、おまけに黴臭い。

「みつる?」

「これが、その、アルバム、だっつーの」

 猫には重いそれを出すと多恵子は潤んだ目を見開いた。

「あらあら、こんな所に……。ごめんねぇ……」

「卒アル?」

 紗江がアルバムを縁側に引き寄せた。パラパラと捲って、多恵子と共に暁咲を探している。

 多恵子は暁咲の部屋をいじくりまわしてはいたが、片付けにはなかなか手を出せていなかった。この傷は決して癒えない。何度命日を見送っても、何度墓参りに行っても、何度あの川で人を救っても。そして、癒えてしまうことを何よりも恐れているのが、俺たちだ。

 忘れてしまったら、暁咲が本当に死んでしまう気がして。だから、仏壇があるんだと俺は思う。死者を忘れず、偲ぶ事が永遠にできるように。忘れてしまうのが楽なのか、忘れないほうが楽なのか。俺はそれを、考えたくない。

 文集はどこだっただろうか。書類の山を崩しながら俺は紙の束を探す。多恵子達がアルバムから目を上げた時、錆びたホチキスに留められた紙束を発見した。

「あら、卒業文集? てっきり捨てたんだと……」

「捨てるとか言いつつ持ってたよ、あいつ。そうそう、アルバムはもう一冊ある」

 俺は鳴いた。山を飛び越えて、一番古い山へ向かう。赤の表紙を引き摺り出した。

「あ、卒園アルバム?」

「じゃなきゃあ何だよ。卒園おめでとうって書いてあるだろ」

 それも紗江に運んでもらって俺は息を吐いた。紗江に助けられている。ああ、いっそ嫁に来てくれ。ついでに片付け頼む。悲しいかな猫の手ではこの山を積み直す事はできないんですー。

「うわあ! 可愛い‼︎」

「まあ! ちっちゃいねぇ」

 女子二人がわいわいやっている間に俺は仏壇の元に戻った。

「ようやくアルバムなんか出してたよ、多恵子」

 くわっと欠伸をして俺は風鈴の下で丸くなった。

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