朧国五神恋物語 龍の初恋
巻村 螢
序章
その勅令は、死ねと言っていた
ここは、皇都・
「ごめんよ、
「こっちこそごめんね、
ゲホゲホと咳き込む鄒婆の背中を、朱霞は優しく撫でた。
「朱霞ちゃんが気に病むことじゃないよ。……五神様がああだから、国の気が乱れているんだろうねえ。この咳も、医者にみせたって異常ないとばっかり言われるし」
この世には『気』というものが存在する。
大地にも水にも植物にも流れゆく風にも宿る、万物の要素である。
気を読み取ることで、巫術士はそのものの状態を知ることができ、巫術によって対処する。気が乱れると、様々なところに不調が出る。国の気が乱れれば天災や病が流行り、人の気が乱れれば病に罹る。特に、鄒婆のように身体の弱い者のほうが影響が出やすい。
「大丈夫よ、鄒婆。皇都はお父さん達宮廷巫術士が護ってるし、それにほらっ、新しい霊符も作ったから、すぐに身体の調子も良くなるよ」
「やっぱり、朱霞ちゃんの霊符だねえ。医者よりも何よりも、あたしにはこれが一番合うよ」
店に入ってきた時の鄒婆の気の色は、どんよりと沈んでいたが、霊符を作って渡した今は、もう靄が晴れるように薄くなってきていた。
「朱霞ちゃんの霊符は持っていると、ぽかぽかと胸が温かくなるようでねえ。調子も良くなるけど、あたしはそれが一番好きなんだよ。きっと、朱霞ちゃんの優しさが詰まってんだろうね」
「鄒婆ったらもう……なんだか照れちゃうわ。私は皆が笑顔になってくれたら、それが一番なの」
「ふふっ、良い子だねえ。ありがとうよ、朱霞ちゃん」
向けられたふわりとした鄒婆の笑顔に、ほっと朱霞の頬も柔らかくなる。
良かった。店に来た時の暗さはもうどこにもない。
霊符を大事そうに胸に抱えて店を出て行った鄒婆を、朱霞は手を振って見送った。
「さて、今のうちに霊符を書きためておかなきゃ」
天を押し上げるように、うーんと両腕を伸ばしながら店内へと踵を返したところ、背中に声が飛んできた。
「朱霞ぁ、いる?」
振り返れば、ひょこっと店の入り口から年若い女が顔を覗かせている。
「あら、
朱霞の幼馴染みである寧寧だった。
彼女は朱霞がいると知ると「わあっ」と顔を輝かせ、兎が跳びはねるように朱霞の元へと近寄った。そして、猿のように朱霞の腕にぎゅっと抱きつく。
「本当、久しぶりだよ! ここ最近ずっと蘭占堂閉まってたし、久々に看板が出てるの見えたから走ってきちゃった!」
彼女の言うとおり、本当に走ってきたのだろう。いつも綺麗に切り揃えられた前髪に隠れている額が、珍しく露わになっている。つるんとした額を朱霞の指がツンとつつけば、気付いた寧寧は恥ずかしそうに前髪を整えていた。
「朱霞、今までどうしてたの? もしかして寝込んでた?」
「私じゃなくてお父さんがね。それで、代理で私が宮廷に上がってたのよ。ほら、巫術士って人数が少なくて、いつも猫の手でも借りたいくらいだから」
「ああ、そういや、おじさんって宮廷巫術士だったもんね。じゃあ、今日はどうしてここに?」
朱霞はにやりと口端を引き上げた。
「五日に一度の休日ですっ」
「やった! じゃあ、今日はいっぱい朱霞と話せるんだね」
どうだとばかりに鼻先を天井に向け胸を張る朱霞と、それを小さな拍手でもって喜ぶ寧寧は、目が合うとぷっと小さく噴き出して楽しそうに笑った。
寧寧は、朱霞の家の近所の子だ。歳は朱霞よりも四つ若い十九と、朱霞にとっては妹のような存在である。
店奥にある作業台の近くに置かれた、接客用の卓に朱香が着くと、慣れたように向かいに寧寧が腰を下ろす。
「話せるっていっても、どうせ、寧寧は例の
「えへへ、そこは申し訳ない」
まったく申し訳ないと思っていない緩みきった顔で、寧寧は肩をすくめた。目尻をほんのり赤く染め、実に幸せそうだ。
「これも朱霞が作ってくれた御守りのおかげだよ」
寧寧は、胸元から小さな布袋を取り出し、「ねっ」と朱霞に見せた。
それは、以前朱霞が寧寧の悩みを聞いて作った御守りだった。
「本当、朱霞の霊符って、どこのまじない屋のものより効き目があるよね」
「ありがと。蘭占堂の宣伝期待してるわよ」
「ちゃっかりしてる」
寧寧の顔は、見ているこちらが笑ってしまうほどふやけていた。両手で支えるように押さえた頬は、幸せの色をしている。
その時の彼女の悩みというのが、『好きな人と仲良くなりたい』という健気なもので、相談があると言ってきた時点で、彼女の『彩気』が明るくふわふわしていたので、大体の予想はついていた。
彩気とは、気の中でも人が纏うもののことである。
「ねえ、恋をするってどんな感じなの。そんなに良いものなの?」
「あれ? 朱霞は誰か好い人いないの」
朱霞はぎこちなく苦笑した。
言葉で肯定するよりも説得力のある態度に、寧寧は眉を上げて「えぇっ」と驚いていた。
「いや、何人かとはその……一緒にお茶とかしたのよ。でも、理由はわからないけど、この人じゃないって毎回思っちゃうの」
「相手の性格が悪かったとか?」
「相手は良い人ばかりだったんだけどね。本当、自分でもわからなくて……」
はっきりとした何が駄目などという原因はないのだ。ただ、きっと一緒になっても、寧寧のような顔はできないなと思う。
寧寧は「んー」と神妙な顔して腕を組んだ。
「私はって前提だけど……恋してる時はね、ずっと相手のことが頭から離れないの。朝起きたら、彼は今何してるんだろう、今日は会えるかなってまず思っちゃうし、夜は夜で、夢で会えますようにって願っちゃう。彼のこと考えるだけで、世界がキラキラして見えるの。多分、恋って、自分の感情が跳ねたり、言うことをきかなくなる状態のことなんじゃないかな」
「だとすると、やっぱり今まで会ってきた人達は恋じゃなかったみたいね」
朱霞には朝起きて思い出す人もいなかったし、会えるかななんて悩んだこともない。夜は何も考えずに寝るだけだし、感情に振り回されることもない。寧寧とは大違いだ。
「きっと、私は一生恋なんて知らずに生きていくんだと思うわ」
彼女のようにキラキラした雰囲気を纏うことも、頬を染めることもないのだろう。
寧寧は不満げに、「えー」と、瞼も口角を下げていた。
すると突然、水を差すような居丈高な高声が、店内へと投げ込まれる。
「ここに、蘭朱霞という宮廷巫術士はいるか!」
弾かれるようにして、朱霞も寧寧も入り口へと顔を向けた。
そこには、明らかに客とは思えない男達が居並んでいる。何事だろうか。
朱霞は、男達の格好に覚えがあった。
先頭に立っている男は宮廷でよく見る官服を着ており、背後に控える者達もよく門の近くで見る衛兵だ。武具を纏い、腰に剣を佩いている。
(宮廷官と衛兵が何しに?)
朱霞は席を立つと、怯えて肩をすぼませる寧寧を、男達の視線から守るように割り込む。
「なんの御用でしょうか。今日は私、休みなんで、巫術関係でしたら
「勅令だ」
「…………は?」
まったく答えになっていない返事に、朱霞の頭は告げられた言葉の意味を理解するのに時間を要した。しかし、状況と耳に残る官吏の声がじわじわと脳へと染みこみ、否が応でも意味を認めさせる。
官吏は鼻の穴を大きくして目一杯息を吸い込んでいた。
向けられる目には、憐憫が窺える。
何か、自分にとって良くないことが起きようとしている。
じっとりと手に汗が滲んだ。
官吏は腹の底まで吸い込んだ息を、ゆっくりと、まるで己に冷静さを強いるように長く吐き出した。そして、懐から一本の巻物を取り出し恭しい手つきでやおら開いた。
巻物の表紙の色を見て勅書だとわかった。
表紙の色は、皇帝にしか使用が許されていない禁色――黄みがかった褐色の
「聖旨である。『国家鎮護、また朱雀神請来祈願のため、宮廷巫術士の蘭朱霞を鬼の供物とする』」
「供、物……」
後ろで、寧寧が「ひっ」と小さな悲鳴を漏らした。朱霞の喉は震え、辛うじて息ができているだけだった。
再び巻物を懐にしまった官吏、そしてその背後の衛兵達――皆が、痛ましいとばかりに眉間を寄せて朱霞を見つめていた。
(なんで……どうして、こんなこと……)
――勅令は、朱霞に死ねと言っていた。
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