第5話 過去の出会い

「誤解だ!」

「…………え?」


 従順でいる覚悟は出来ていたので、「自分の立場は良く分かっている」と告げたつもりだったのだが、ハロルドが突然大きな声を出し、焦った様に否定するものだから、驚いてしまう。

 けれどハロルドの必死な表情は、フローラの言葉を確かに否定していた。


「俺は貴女が好きで、妻に迎えたいと願ったんだ。そこに、国同士の諍いは関係ない。ましてや人質だなんて……」


 ぽかんとしながら首を傾げたフローラに、訴えかける様に告げられた言葉は、あまりにも予想外だった。

 ハロルドの訴える声からは、人質だとか政略結婚だとか、そういう意味合いが本当に感じられない。


(聞き間違いではないのなら、ハロルド様は私の事が好き……なの?)


 真摯な言葉は、ただフローラ個人を求めてくれていた。

 そこに他の理由が入り込む余地はないと、はっきりと聞こえる。

 信じられなくて、間違いではないのかと何度も瞬きをするけれど、ハロルドは言葉を翻したりはしなかった。


「この花を、覚えているか?」


 戸惑うフローラの手を取って、ハロルドが胸ポケットから何かを取り出し、そっと乗せる。

 重みは感じられず、視線を下げると、そこにあったのは小さな栞。

 透明なケース状で作られた栞の中には、小さな押し花が入っていた。


(この花は……)


 それは、フローラの住んでいた後宮の片隅に咲いていた、名も無き花。

 豪華な庭園の景観を邪魔する雑草として、乱暴に引き抜かれ打ち捨てられていた、小さくて白いその花を、フローラはこっそりと持ち帰って、誰も近寄らない裏庭で大切に育てていた。

 ベッドから出られなくなった母の慰めになればと、育った花を摘んでは何度も部屋に飾っていたから、良く覚えている。


「どうして、ハロルド様がこれを?」


 何処にでも咲く変哲もない花だと思っていたけれど、ハロルドはとても大切そうに栞を扱っていた。

 もしかしたら、イザイア国では珍しい花なのだろうか。

 薬草のように使える効能なども何もなく、重宝される理由は思いつかない。


 けれど、ハロルドがフローラに栞を見せた意味が、何かあるはずだ。

 故郷の国では雑草とされていたものであるから、友好の証として隣国への贈り物としたのでは、流石に失礼だろう。

 父王や継母ならやりかねない気もするが、わざわざ戦いの火種になる様な事をするほど、愚かではないと信じたい。


 覚えているかどうかと尋ねる位だから、恐らく国同士で交わされたものではなく、フローラ個人と何かしらの関わり合いがあるのだと考えられるけれど、全く心当たりがなかった。

 栞を見つめたまま首を傾げるフローラに、ハロルドが苦笑する。


「もう十年以上前の事だ。覚えていなくても、仕方がない」

「十年以上……?」


 フローラは今年、十六歳になる。

 十年以上前となると、幼少期と言って良い頃になるが、その頃のフローラの世界は、王城内に居場所のない現在よりも、更にずっと閉ざされていた。


 当時は、母が亡くなったばかりの頃だ。

 味方となる存在は誰も居ない後宮の中で、一人では何も出来ない子供であるフローラは、完全に持て余されていた。

 最小限の食事と衣服だけが与えられ、部屋から出ることもままならなかった時期に、隣国の王であるハロルドとの接点など、あるはずもない。


 けれどハロルドの表情は、フローラとの接点を雄弁に語っていて、何かしらの出会いがあった事は間違いなさそうだった。

 不思議そうな表情のフローラから栞を取り戻して、ハロルドは愛おしそうにそっと撫でる。


「まだ俺が、王位に就いたばかりの頃だ。貴国で周辺国を招いた、大きな舞踏会が開かれた事があった」

「それは覚えています。私には、参加が認められていませんでしたが……」


 その日の記憶なら、微かにあった。

 まだフローラの兄弟である、第一王子や王女は生まれて間もなかったので、フローラだけでなく王の子供達は誰も参加していない。

 けれど、大人達はこぞって煌びやかに着飾っていたのを、羨ましく思っていた記憶がある。


 絶対に部屋から出ないようにと念を押され、外から鍵までかけられて、閉じ込められた。

 フローラは大好きな裏庭に降りる事さえ叶わずに、小さな窓からいつもと違う城内の様子をただ眺める事しか許されない。


「イザイアはまだ新しい国だった上に、王である俺はまだ十代の若輩者だ。新参者も新参者というところに加えて、貴国では魔法を使えない者を、一段下に見る風潮があるだろう?」

「申し訳ございません」


 故郷の国の人々がハロルドに対して行ったのは、間違いなく隣国の王を蔑む行為だったのだろう。

 いくら国内ではそれが常識であるとしても、他国の王に対して行って良いはずがない。

 そんな事もわからない位に、あの国は堕ちてしまっていたのか。


 今更許されるはずもないけれど、せめて頭を下げようとしたら、「貴女がした事ではないのだから」と、ハロルドにそっと肩に手を置かれ、フローラの謝罪は止められた。

 それでも気が収まらない様子のフローラを見て、ハロルドは「ありがとう」と優しく微笑む。


 当時嫌な思いをしたはずのハロルドが、蔑んだ国の王女であるフローラに、何故礼を言ってくれたのかわからなかった。

 けれど、ハロルドの表情の中に、確かに怒りはない。


 時が解決した、という事ではないと思う。

 父王や継母の事だから、きっとハロルドが経験を積み立派な王となった今でも、同じ様に侮蔑を込めた接し方をしているに違いない。

 ハロルドの方が、成長し大人になって、飲み込んでくれている可能性が高かった。


「それにあの頃はまだ、イザイア国内でも頻繁に戦いが続いていて、正直俺自身の地位もあやふやだった事は、否めない」

「地位が、あやふや……?」

「イザイアの王家は、世襲制じゃない。貴国だけでなく、出自に重きを置く国々に軽んじられるのは慣れているし、俺が今国王なんて座に就いているのも、偶然みたいなものさ」

「そんな……」


 まだイザイアに来たばかりだけれど、ハロルドが皆から慕われている王だという事はわかる。

 偶然でその地位に長く居続けられる程、容易いものではないだろう。


「まぁそんな感じだったから……。俺もまだ若かったし上手く躱せなくて、居場所がなくてね。外の空気を吸おうと思って舞踏会を抜け出したら、案の定迷った」


 頭を掻きながら「あの王城は広すぎる」と笑うハロルドに、フローラも確かにと頷く。


 フローラは後宮どころか自室からほとんど出る機会はなかったが、それでも年に一度は父王への新年の挨拶をしに、王城を訪れる機会があった。

 ほとんどが、継母や兄弟達に馬鹿にされる為に出向く日だったけれど、それ以上に恐怖だったのは、助けてくれる者が一人も居ない広い王城で、迷ってしまう事。


 母を亡くして初めての登城の時に、何もかもがわからない事だらけの中、悪意の視線に晒され続けた上に、知らない場所に一人取り残された事がある。

 権威を示す為だけに肥大化した王城の中は、とても冷たく、幼いフローラにはまるで巨大な牢獄の様に感じられた。


 何とか使用人達の手を借りて自室へ戻れたのは、夜も更けきってからの事だ。

 あの時の恐怖は、今でも忘れられない。


 それ以降、王城へ行く際は、何度も何度も道順を確認して、一歩も間違わない様に細心の注意を払う。

 今でも王城へ上がると、緊張と不安に飲み込まれるのは、継母や兄弟達から発せられる罵りの言葉よりも、幼い頃一人で冷たい王城の中を彷徨った恐怖の記憶による所が大きい。


「それは、心細かった事でしょう」

「だが幸運なことに、彷徨った先で貴女に出会えた」

「私に?」

「この花は、小さな窓の向こう側から、貴女が贈ってくれた物だ」


 再び栞を撫でたハロルドの表情は、本当に愛おしい思い出だと言わんばかりだ。

 その優しい目を見て、フローラにふと幼い頃の記憶が甦る。

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