第32話 犬神憑きの少女と見えない守り神

 畳の香りがわずかに鼻をくすぐる。

 障子から差し込む午後の光が、柔らかく部屋の中を照らしていた。

 優斗と麻斗が柊のあとに続いて、社務所の一室に入ると——そこにはひとりの少女がいた。

 まだ十代半ばほどだろうか、淡いワンピース姿で、背筋を正して座る彼女は、緊張にかすかに肩を揺らしていた。

 だが——本当に揺れていたのは、肩ではない。その足元。畳の上に、黒い“影”のようなものが、低くうねるように広がっていた。

 犬。

 けれど、ただの犬じゃない。

 形を成しきらない、黒く濁った何か。

 毛並みも、目も、見えない。けれどその存在は、確かに“ここ”にいた。

 優斗はその影から目を離さず、麻斗は眉をひそめて足を止める。

 部屋の空気が、明らかに違った。


「この子が、依頼者の犬神千紗だ」


 柊がそう言って扉を閉めると、少女は少しだけ顔を上げ、ぎこちなく笑みを浮かべた。

 そして——震えるような声で口を開く。


「名前の通り、と私は……犬神憑きの家系なんですけど………犬神を、消して欲しいんです」


 静まり返った室内に、はっきりと落ちたその言葉。


「でも……犬神家当主の父も亡くなってしまって、消し方の心当たりもなくて……」


 足元の黒い影が、ぐるりと千紗の周囲を回るようにして動き、低く唸った。

 まるで、千紗の言葉に反応したかのように。


「友達も、知り合いも、恋人も……私と関わった人が、みんな不幸になったり怪我をしたりして……もう、たくさんなんです」


 千紗は、その言葉の最後に、深々と頭を下げた。


「噂で……ここの神社の神主さんなら、霊的なものとか、何とかしてくれるって聞きました。……どうか、お願いします!」


 その声には、切実な“祈り”が滲んでいて、犬神の低い唸り声が、畳の部屋に重たく響く。

 その黒い影は千紗の足元から微動だにせず、ただ、異物を見るような目で優斗たちを睨んでいた。

 柊が煙草を指で弾きながら、ふっと息をついた。


「優斗と麻斗は、初めて見るだろうがな……こういうのは“憑き物筋”ってやつだ」


 柊の声に、部屋の空気がぴりりと引き締まる。優斗は小さく頷き、麻斗は眉をひそめながら犬神をじっと見た。


「お前らみたいな特殊な体質とは別物だが、今時これが残ってる家系ってのは……かなり珍しいな。強い念を抱いた動物霊が、信仰の対象として祀られた結果ってわけだ」


 柊の声にはどこか重さがあった。


「犬神、稲荷神、蛇神……色々あるが、どれも扱い方を間違えば祟りと化す」


 麻斗が興味深そうに犬神へと一歩近づくと、犬神の影がぴくりと動き、牙を剥くようにその姿をわずかに浮かび上がらせる。


「……祓って終わりじゃないってことか?」


 麻斗が犬神の鼻先をつつこうとして、ばっ!と手を引っ込め。唸り声が一段と強くなる。


「……ったく、懐かねえなぁこいつ」


 柊が肩をすくめて言った。


「そりゃそうだ。こいつらは血筋に取り憑く。個人じゃねえ、家そのものに結びつく性質がある。祓うのも、消すのも……そう簡単じゃねえんだよ」

「じゃあこいつ……どうにもできないってこと?」


 麻斗がやや真剣な声で言うと、柊は静かに首を振った。


「そうは言ってねぇ」


 その一言に、千紗がぴくりと顔を上げた。

 微かに揺れる眼差し。けれど、そこには確かに“希望”の色があった。


「犬神が“なぜ”執着するようになったのか。何を、誰に、どうして、そこまでして取り憑いているのか……」


 柊が吸った煙をゆっくりと吐き出す。


「それが分かれば、祓いの術式を流し込んで、引き剥がすこともできる」

「……原因を探れってことか」


 優斗が静かに言うと、柊が頷いた。


「ああ。……だからこそ、お前らに立ち会ってもらってんだよ。特に優斗、あの“気質”なら何か引っかかるものが見えるかもしれねえ。麻斗は……まあ、犬神の逆鱗に触れんなよ」

「すでにギリギリ噛まれかけてる気がするんだけど!?」


 麻斗が身を引きつつ、黒い影とにらめっこを続けているその横で、千紗が小さく声を落とす。


「……私が、何か悪いことをしたからなんでしょうか……。それとも、この家に生まれたこと自体が……罪なんでしょうか……」


 その問いに、優斗は静かに視線を落とした。

 彼女の背にある影は、重く、冷たく、けれど……どこか哀しさも孕んでいた。

 千紗の言葉に柊が何か言いかけたそのとき——低く唸っていた犬神の影が、すっと動いた。

 黒い影は滑るように千紗の足元から離れ、静かに優斗の足元まで移動すると、そこでぴたりと止まった。

 影の中から、獣のような鋭い眼がゆらりと浮かび上がり、じっと優斗を見上げる。


『……惹魔の人間か』


 優斗がピクリと眉を動かしたその直後、犬神はぐぐ、と喉を鳴らしたあと——


『貴様、この女を孕ませろ』


 ——その瞬間。


「ぶっ……!」


 隣にいた麻斗が、声を押し殺しながら咳き込んだ。肩を震わせて笑いを堪えながら、口元を両手で押さえている。


「……何、か、あったんですか?」


 千紗が不思議そうに首を傾げた。

 可憐な表情で小首をかしげるその姿は、まるで“何も知らぬ乙女”そのものだった。


「……あー、いや……こっちの話だから気にすんな」


 柊が目を伏せて額を揉みながら、心底呆れたような声で言った。


「所詮、動物霊だからな……欲求の方向性が分かりやすいっつーか、バカ正直っつーか……」


 その横で、まだ笑いを引きずっている麻斗が、テレパシーで優斗に語りかける。


(いいんじゃない?千紗ちゃん可愛いし!)


 即座に優斗が無言で睨むだけで、声も出さずに全否定の圧を送ってくる。


(……っていうか、なんで俺だけそんなこと言われんの……)


 思わず小さく呟いた優斗の心の声に、柊がぼそりとぼやいた。


「……だから言っただろ、惹魔体質ってのは霊的に“好まれる”体質なんだよ。霊だろうが怪異だろうが、存在を結びたがる……そういう“引き”があるんだ」


 その言葉に、優斗は軽くため息をついた。


「……勘弁してほしいんだけど」


 ふと足元を見ると、犬神の影はまだ、じっと優斗を見上げていた。まるで次の発言のタイミングをうかがうように口を開いたその目が、今にも“第二のセリフ”を吐きそうだった。

 ……が、優斗はそれより一歩早く、ぴたりと足を引いた。


「柊さん、さっさと原因探しに入っていいですか」

「おう、頼んだ」


 柊は煙草をくゆらせながら、苦笑混じりに頷いた。


「このままだと犬神の言葉が増えていくぞ」

「やめてください」


 その切実な一言に、今度は麻斗が腹を抱えて笑っていた。


「てかさぁ……」


 ようやく笑いの余韻から回復した麻斗が、息を整えながら呟く。


「千紗ちゃん、せっかく犬神クンが取り憑いてるのに、姿も声も見えないとか……それ、意味なくね?」


 あくまで素直な疑問。けれど、そこにいる犬神の影がピクリと反応して低く唸る。

 そんな麻斗に、柊が煙草をくゆらせながら淡々と返す。


「最初は見えてたんだろうよ。代を重ねるうちに、見えなくなっていったんだ」


 柊の視線が、ふと優斗と麻斗に向けられる。


「お前らも、父親と母親は見えない人間だろ?霊が“視える”ってのはな、それだけでかなり特殊な体質なんだ」


 優斗は黙って頷き、麻斗は「そういえばそうか」と気のない声を漏らす。


「だから犬神も、焦り始めてんだろうさ。久々に“視える人間”が目の前に現れたんだ。そりゃ、優斗の血が欲しくもなる」


 その言葉に、犬神の影がまた優斗の方へじわりとにじり寄る。だがそのタイミングで——


「じゃあ俺は?」


 麻斗が自分を親指で指した。


「視えるぞ?俺も」


 柊が、ほんの一拍置いて、鼻で笑う。


「お前なんかの血筋に入れたら、犬神が消し飛ぶわ」

「えっひどっ!?俺、犬神クンと相性最悪ってこと!?!?」

「退魔の波長で霊的存在ぶっ壊す体質が、よりによって“憑く”側に行ったらどうなると思うよ。生まれた瞬間、犬神が絶命するわ」

「えぇ……なんかもう、俺だけ種族違う感じするじゃん……」


 麻斗がしょんぼりしながら犬神の影を見下ろすと、その影はむしろ距離を取るように後退した。


「おーい、なんで逃げんだよ。俺そんなに嫌かよ」

「……お前と波長が合う怪異の方が怖いわ。多分自然発火して消える」

「俺、なんか霊からも不良物件扱いされてない!?」


 そんな麻斗の嘆きと、静かに首をすくめる優斗。そのやり取りに、千紗は不思議そうに笑っていた。

 けれど、どこか少し——ほっとしたような、柔らかな笑みだった。


「代を重ねるごとに見えなくなったって……どこまで遡るんだ?」


 麻斗が腕を組んで首をひねる。


「苗字がそのまんま“犬神”って、相当由緒あるってことじゃねーの? つまり、かなり昔から取り憑かれてるってことだよな?」


 その問いに、千紗は少しだけ目を伏せて、静かに頷いた。


「……記録に残ってるのは、江戸時代くらいから。でも、もっと前……多分、室町とか……それ以前からだって話もあって……」


「室町!?マジで!?」


 麻斗が目を丸くする。


「ていうかもう、それ“家の歴史”じゃなくて、“祀られてる側の歴史”じゃん……!」

「そういう家なんです……犬神を祀って、守って、繋いできた家。でも……いつからか、それが“守られてる”のか“縛られてる”のか、わからなくなって……」


 千紗の言葉に、部屋の空気がわずかに落ちた。

 足元の犬神の影が、千紗の足元へと戻り、再びぴたりと張りつくように寄り添う。

 まるで、すでに“そうあることが当然”だとでも言うように。


「……先代、つまり私の父も。犬神について多くを語らなかったんです。ただ、“ちゃんと祀れ”って……そればかりで……」

「ちゃんと、ってのはどういう意味なんだろうな」


 優斗がぽつりと呟く。

 その言葉に、柊が煙を吐きながら応える。


「“祀る”っつってもな……信仰ってのは形式と中身の両方が揃ってないと形を保てねえ。どっちかが欠けりゃ、崩れて祟りになる。犬神がまだ“影のまま”でいるのは……そのバランスがもう限界ってこった」

「……もう、この家系だけじゃ抱えきれないのかもね」


 優斗のその声に、千紗は思わず唇を噛んだ。

 けれど——次の瞬間。


『……だからこそ、繋げるのだろう?』


 犬神の影が、再び優斗の方へじりじりとにじり寄りながら囁いた。


『惹魔の血と混ぜれば……新しい形が、生まれる……』

「ちょっと黙ってもらっていいですか」


 優斗の冷静な一蹴が、ピシャリと空気を裂いた。


「……もう俺、犬神の発言には何も期待しないことにした」


 横で麻斗がぷるぷる震えて笑いを堪えていた。


「……まあ本来な」


 柊が煙草の灰を灰皿に落としながら、面倒くさそうに口を開く。


「憑き物筋の依頼ってのは、本来、家の契約だの血筋だの、残されてる文書や儀式だのを一つずつ確かめて、数カ月かけて丁寧に解いていくもんなんだ」


 優斗と麻斗がちらりと千紗を見ると、彼女は申し訳なさそうに俯いた。


「つまり、時間も手間も労力も、めっちゃかかるってことだ。……だから、めんどくせぇんだよ。正直」


 バッサリと切り捨てるような口調。

 けれどその語り口には、専門家としての経験がにじんでいる。

 柊はそこで一度、言葉を切ると、にやりと悪戯っぽく笑った。


「……でも幸いなことにな」


 その目線が、優斗へと向けられる。


「お前、犬神に大層好かれてるみたいだからなあ——直接、聞いちまえばいいだろう」


 その言葉に、優斗が固まる。

 麻斗は「わ〜〜!」と両手を挙げて茶化すように笑った。


「すげぇ!近道!やっぱ兄貴ってば人徳!惹かれ体質、便利〜!」

「便利じゃない。……むしろ損してる」


 優斗が心底疲れた顔で呟くと、足元の影が再び蠢いた。


『……ならば、我がすべてを語ろうぞ……夜を越え、肉を交わし——』


「柊さん、やっぱこれ祓えませんか」

「言ったろ。家系に結びついてるから簡単じゃねえんだって」

「じゃあ口だけでも封じられませんか」

「霊体の口に封印ってのも珍しいな……試してみるか?」


 犬神の影が「ヒドイ!」とでも言いたげにしょぼくれたような気がした。

 柊が口の端を上げて、にやりと笑う。


「ま、嫌なら——定石どおりに、数カ月かけて古文書調べて、血筋辿って、儀式の意味も掘り返して……って、地味で面倒で気の遠くなる作業を全部やるってだけだけどな?」


 その“だけ”が、全然“だけ”じゃない。

 優斗は無言のまま柊を見つめたあと、ふっと目を伏せた。


「……聞くよ。犬神に」

「さっすが兄貴!素直〜!そして偉い〜!」


 横で麻斗がバチバチに拍手する。


「うるさい」


 優斗が即座に一蹴。だが、足元の犬神の影は嬉しそうにうねり始めていた。


『うむ……さあ語らおうぞ、契りの夜の話を……』

「選択肢が地獄しかなかっただけで、別に喜んでないからな……」


 優斗のぼやきが、部屋の空気にふわりと溶けていった。


「じゃあさ〜千紗ちゃんは暇だろうし、俺と話でもする?」


 麻斗が気軽に声をかけながら近づいたその瞬間——ぐるるっ!と威嚇される。


「うわっ!?噛まれた!!……いや、噛まれかけた!!」


 足元から飛び出してきた犬神の影が、麻斗のすねをガブッといきかけたのを、反射で飛び退いてなんとか避けた。

 麻斗が足を押さえながらジタバタと床を転がる。


「こりゃ彼氏もできねーわ……犬神見えないんなら避けようがないじゃん……」


 その呟きに、千紗が小さく笑って——それから、すっと顔を伏せる。


「……今までの恋人も、手を繋ごうとしたり、触れようとした時に……」


 その声が少しだけ震えていた。


「……何もないはずの腕や背中に、噛み跡が残って。……怖がられて、振られるんです」


 その言葉に、空気がわずかに重くなる。

 犬神の影が、千紗の足元に戻ってぴたりと張り付く。まるで「当然だ」とでも言うように。


「……あー……」


 麻斗が気まずそうに口を閉じた。


「……ちょっと犬神クン、独占欲強すぎん?」

『当然だ。誰にも渡さん』

「うわ〜出たよ……やっぱ動物霊ってやつ、感情まんますぎて怖いわ……」

「でも、悪意があるわけじゃないんですよね……?」


 千紗が犬神に目を向けると、その影は一瞬、揺れたように見える。まるで、何かを言いたそうにしているように——


「遊んでないで、早くやるぞ」


 ふいに、優斗のぶっきらぼうな声が響いた。

 いつの間にか術式を描き始めていた優斗は、膝をつき、指先で床に淡く光る印を刻んでいく。その表情は、先ほどまでの軽口とは打って変わって、冷静で、鋭かった。


 その背を、柊が腕を組みながら見守っている。煙草の火はすでに灰皿に落とされ、代わりにその目が鋭く術の構築を追っていた。


「……麻斗、お前もつなげ」


 柊がぽん、と肩を叩くように声をかける。


「優斗とテレパシー繋げば、見えるだろ。便利なもんだな、双子特権ってやつは」


 言われた麻斗は、ちょっとだけ口を尖らせながらも、優斗の隣にしゃがみ込む。


「はいはい、俺も見るよ。兄貴がちゃんとやれてるか監視ってことでな」

「……余計な雑音は送らないで」

「それ無理。俺が“俺”だから!」


 言い合いながらも、ふたりの間にふっと波長が通る。目に見えない“線”が意識と意識を繋ぎ、術式に反応して、空気がわずかに震えた。

 千紗が不安そうに見守るなか、犬神の影はじりじりと優斗の術式の中心へと引き寄せられていく。

 まるで呼応するように、影の中から、誰かの“記憶”が浮かび上がろうとしていた——

 優斗の瞳がふっと揺れ、静かに伏せられた。

 術式の中心から立ち上るように、脳裏に“映像”が流れ込んでくる。

 霊の記憶——犬神が積み重ねてきた、長い時の記録だった。


(……麻斗)


 優斗がそっと意識を繋げる。

 次の瞬間、麻斗の視界にも、その“記憶”が同時に流れ込んだ。

 ——昔、とある屋敷。

 白い毛並みの犬が、主人の足元に控えている。その瞳には、主を想うまっすぐな忠義の光が宿っていた。

 けれど、ある日。

 主の妻が出産で命を落とし、生まれた子だけが生き残った。主人は崩れ落ち、その隣で犬はずっと嗅ぎ、見守り、震えながら主人に寄り添っていた。

 ——せめて、この子だけは。

 ——この命だけは、どうか末永く、生きて。

 主の願いは、強すぎた。

 忠義と信仰と、あまりに強い想いが交じり合い——その犬は“犬神”へと変じた。

 以降、犬神は子孫を見守り、時に怪異や病から守り、窮地を幾度も救った。

 子らからは「ありがとう」と祀られ、共に時を過ごし、陰陽師となった子孫の傍らで、術式を補佐した記録もあった。

 けれど、時代が進むにつれて——その姿を“視る”者はいなくなった。 “声”が届かなくなり、“存在”に気づかれなくなった。

 焦り。孤独。

 かつて“共にあった”はずの人間の姿が、ただすれ違うだけになっていく。

 そして——千紗の父が、重圧に耐えきれず、自ら命を絶った。

 そのときの犬神の叫びは、空虚な屋敷に響くことすらなかった。誰にも聞かれず、何も伝わらず、ただそこにいた。

 ついに、たった一人になってしまった。

 最後の“主の血”、犬神千紗。

 犬神は、ただ、ただ、恐れていた。

 ——子孫が絶えたら、自分の存在も消える。

 ——けれど、何よりも、自分は“あのときの願い”を裏切ってしまうことになる。

 主に誓った命を、守りきれなかったら…


『私は……何のために、生まれたのだ』


 犬神の声が、優斗の心に響いた。


『守ることしか、できない。けれど、守ることが、苦しみになっているのなら……私は、間違っているのだろうか』


 その問いは、もはや怪異のものではなかった。誰よりも忠実に、誰よりもまっすぐに“主の命”を守り続けようとした、ただ一匹の、迷える犬の問いだった。

 ——ふたりが目を開けると、部屋はしんと静まり返っていた。

 犬神は、床に伏せていた。耳は下がり、尻尾は重たく垂れ、目は静かに閉じられている。

 その姿は、威嚇でも敵意でもない。

 ただ、すべてを見せ終えた、ひとつの存在の“休息”のようだった。

 沈黙の中、麻斗がそっと目を細めた。


(……てかさ)


 テレパシーで優斗に送られてくる声は、どこか乾いた笑いを含んでいた。


(子孫残したいって思ってるのに……守ろうとして遠ざけてるなんてさ、皮肉すぎるな)


 その言葉に、優斗はふっと小さく目を伏せた。


(……うん)

(あいつ、誰より“人間”らしいよな)


 まっすぐで、不器用で、願いに忠実で。

 でもそれがいつの間にか、誰かを苦しめる形にすり替わっていた——千紗を守りたくて、繋ぎたくて。けれどその想いが、彼女を孤独にしていた。

 優斗は静かに犬神の影へと視線を戻し、そっと口を開いた。


「……あんたの“願い”は、ちゃんと届いてたよ。……でも、それがそのまま、幸せに繋がるとは限らない」


 犬神の耳が、わずかにぴくりと動く。

 けれど目はまだ閉じられたまま、何も言わなかった。

 そのとき、千紗が心配そうにふたりに近づいた。


「終わったんですか……?何が見えたんですか?」


 彼女の声に、麻斗が首をかしげながらも、どこか優しい声で答える。


「うん……お前のこと、ずっと守ってきたやつの話、な。守るのが怖くて、でも手放すのはもっと怖くて……たぶん、今も迷ってる」


 千紗の瞳が揺れた。

 そして犬神の影が、ゆっくりと頭を上げた。

 その目には——まだ、答えを求める光が宿っていた。


「……わかったか」


 柊の低い声が、静かな空間に落ちた。

 術式の光が消え、淡く漂っていた霊気もゆるやかに収まっていく。

 優斗と麻斗は、ほぼ同時に頷いた。

 千紗は目を見開いたまま、ふたりの顔を交互に見つめていた。そこに、麻斗が口を開く。


「千紗ちゃんは……どうしたいんだよ」


 真正面から、迷いなく彼女の目を見つめて問いかけた。


「たぶんさ……犬神、もう焦ってるんだと思う。代も変わりすぎて、信仰も感謝も希薄になって、姿も声も届かなくなって——それでも守らなきゃって……主の命令を裏切っちゃいけないって、思い詰めてさ。……悪気はないけど、空回りしてんだよ」


 麻斗の言葉に、千紗の目がわずかに揺れる。

 そして、麻斗は犬神の影へと目を向けた。

 その影は、もう牙も爪も見せず、ただじっと、言葉を待っていた。


「でもさ、犬神——」


 真っ直ぐな声が、部屋に響く。


「主の願いって……“子どもが幸せになること”なんじゃねぇの?」


 その瞬間、犬神の影がぴくりと震えた。


「千紗ちゃんが怖がられて、孤立して、恋人もできなくて……それって、本当に“守ってる”って言えるのかよ」


 麻斗の声には、怒りも責める色もなかった。

 ただ、心からの疑問と——優しさがあった。

 犬神の影は、ゆっくりと千紗を見上げる。


『……私は……間違っていたのか……?』


 小さな声が、空気に溶けるように響いた。

 千紗は、そっと口元を押さえながら、一歩前に出た。瞳には、涙が浮かんでいた。


「……守られるだけじゃなくて、私も、あなたと向き合いたい。……だって、私……ずっと、ひとりじゃなかったんだって……今日、初めて思えたから」


 彼女の声は、震えていたけれど、確かな意思を持っていた。その言葉に、犬神の影が、かすかに光の粒を散らす。


 まるで、かつて“主”に撫でられた日のぬくもりを思い出したように——


「……優斗、今のうちに術式組め」


 柊の低く落ち着いた声が、空気を引き締めるように響いた。術の構築を始める優斗の隣に、柊がすっと立つ。


「俺も手伝う。麻斗、お前も見とけよ。……こういうのは、“願い”が形を変える瞬間だ」


 麻斗は真剣な顔で頷き、優斗の手元を覗き込む。術式は、祓いではなく“変質”のためのもの。存在の在り方を、新しく定め直すもの。

 そんな準備が進む中で、千紗の瞳から、ぽたり、と涙が落ちた。

 ハンカチで目元を押さえながら、静かに、けれど真っ直ぐに犬神へと語りかける。


「……私、何も知らずに“消して”なんて……言ってごめんね」


 震える声に、犬神の影が小さく揺れた。


「でもね……もう、いいの。ずっと、苦しかったでしょ。誰にも届かなくて、誰にも気づいてもらえなくて……それでも、守ろうとしてくれたの、わかったから」


 千紗は、涙でにじむ視界の中、ふっと微笑んだ。


「もう、休んでもいいんだよ。本当に……ありがとう、犬神さん」


 その瞬間。

 柊が小さく、静かに何かを呟いた。

 すると——千紗の隣、誰もいないはずの空間に、ふわりと淡い光が揺らめいた。

 やがてその光は、ひとつの姿を取る。

 まるまるとした白い柴犬。

 小さな尻尾をふりふりと振りながら、くりくりの目で千紗を見上げていた。

 けれど、千紗には見えない。

 視線は通り過ぎ、目と目は交わらない。

 それでも、柴犬は——嬉しそうに、まるで笑うように舌を出していた。

 音もなく、そっとそこにいて。

 まるで、「大丈夫」と伝えてくれているように。


「……終わった」


 柊が術式の光が消えた床を一瞥し、ぼそりと呟いた。


「犬神はもう、いねえよ」


 その言葉に、千紗はそっと目を伏せた。

 そして、隣に座る小さな柴犬に気づくことなく——ただ静かに、深く頭を下げた。


「本当に……ありがとうございました」


 涙の痕が残る顔を、もう上げることはなかった。

 柴犬は、しばらくその小さな体で彼女の足元に寄り添っていたが、やがてくるりと千紗の背中を見送りながら、そっとその場に座り込んだ。


「……あの子、今もそばにいるんですね」


 千紗がぽつりと呟く。

 優斗が静かに頷き、ほんの少し笑みを浮かべた。


「白くて、まるっこくて……笑ってるみたいな顔してるよ。守ってくれてる」

「そう……ですか」


 千紗は目元をぬぐいながら、ふっと笑った。


「じゃあ……“しろた”にしようかな。白くて、可愛くて……誰よりも長く、一緒にいてくれた子だから」


 静かにそう呟いた瞬間、柴犬の尻尾が、

 ふるりと小さく、嬉しそうに揺れ、優斗と麻斗もまた、黙ってその背中を見つめていた。

 千紗は振り返ることなく、真っすぐ帰路へと歩いていくその背を見送ったあと、麻斗がふと、ぽつりとつぶやいた。


「なあ……あの柴犬、さ」


 柊がふうっとひとつ、煙草を咥えるでもなく、ただ息を吐いた。


「ああ、あれか」


 どこか遠くを見るような視線のまま、静かに言う。


「犬神の欠片を使ってな……生み出した、守護神みたいなもんだよ」

「……守護神?」

「憑き物筋ってのは、根が深ぇ。全部を断ち切るんじゃなくて、こうして“形”を変えて残す方法もあるってことさ」


 麻斗が目を丸くする。


「……へえ。そんなのも、ありなんだな」

「まあな。……ちゃんと、本人が“前に進む”って決めたからこそ、成り立つ話だけどな」


 柊はちらりと、犬神の姿を留めた柴犬に目をやった。


「勉強になったろ、坊主ども」


 その言葉に、麻斗がふふっと笑い、優斗は静かに目を伏せた。


 見上げれば、境内の空はもう夕方に近い。

 長かった依頼の幕が、そっと閉じていく——そんな時間だった。


 そして、社務所の玄関先。

 柴犬は変わらず、にこにこと笑うような顔で、千紗の歩いた道をじっと見つめていた。


 まるでその小さな背中で、「また会える日」を待っているかのように——空はすっかり茜色に染まり、蝉の声も少しだけ落ち着いてきていた。

 千紗の姿が見えなくなってからもしばらく、優斗と麻斗は柊神社の境内でぼんやりと空を見上げていた。

 犬神の依頼は、終わった。


 けれど、きっとまた、今日みたいな“想いの物語”に出会うだろう。


「……帰るか」


 優斗が静かに言って、麻斗がうん、と頷いた。


 ◆ ◆ ◆


 犬神の気配が完全に消えてから、しばらくの間、誰も口を開かなかった。

 空気は静かで、どこか穏やかで——少しだけ、切なかった。

 千紗の背中が見えなくなったあとも、優斗と麻斗はしばらく境内に佇んでいた。

 風が一度吹き抜けて、葉の音を揺らす。


「……ふう」


 優斗が小さく息をついた時、柊がぽん、とふたりの頭を軽く叩いた。


「はい終了。感傷に浸るのは三分までな。優斗、お前は犬神祓った時の術式と気配の復習だ。今日中にまとめろ」

「……了解です」


 即答する優斗の横で、麻斗が「え〜俺も?」と眉を寄せる。

 柊は煙草をくわえながらニヤリと笑った。


「お前は術式使えねーんだから座学無意味だろ。倉庫の蔵整理してこい。古道具に怪異混じってたら、ちゃんと殴れよ?」

「いや雑すぎね!?それ俺に丸投げじゃん!!」

「掃除ついでに訓練。丁度いいだろ?」


 不満を言いつつも、麻斗は渋々立ち上がり、神社の裏手にある古い蔵へと向かっていく。

 鍵を開けると、ほんのり埃と古紙の匂い。懐中電灯を持って中へ足を踏み入れた——次の瞬間。


「……あ?」


 麻斗は思わずポカーンと口を開けていた。

 古ぼけた木箱の中、包みを開いたその中から——湯気のようにふわふわと立ち上る煙。

 そして、ターバンを巻いた、ムキムキの半裸男が、急須の注ぎ口から現れた。

 ばあん!とポーズを決めながら、キラキラした歯を見せて笑う。


「なんでも願いをかなえて差し上げましょう!」


 ……静かな余韻なんて、なかった。

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