第26話 受験生の霊と勉強会

 ある放課後の帰り道。

 空はすっかり夕焼けに染まり、蝉の声もどこか力を失っていた。


「……でさ〜、今日の数学の小テストさ、問4だけはたぶん奇跡的に合ってる気がするんだよね〜」


 麻斗がのんきに言いながら、あくびをしつつ歩いていたその時——突然、風が吹いた。

 ふうっと、優斗の髪が揺れる。


(……ん?)


 ぴたりと立ち止まると、目の前にセーラー服の少女が現れていた。

 透けていて、ほんのり青白い。……どう見ても“あちら側”の存在。


「お願いします!勉強を教えてくださいっ!」

「は?」


 目を見開いたのは、優斗だけじゃない。隣で麻斗もぽかんとしている。


「兄貴、なにこの急展開……ナンパ?いや霊ナンパ……?は?」

「違う、明らかに違う」


 優斗は手を額に当てて、慎重に聞く。


「……君、なぜ僕に?」

「……わたし……志望校の入学試験の三日前に……通り魔に刺されまして……」

「え」

「未練があるんです!試験が受けられなかったことが本当に悔しくて!せめて……せめて、通ってるあなたに勉強を教えていただいて、これなら合格だったと思うよって言われたいんです……!」


 切実な目で訴える少女の霊。

 でもその内容が……とても、こう、なんというか……


「……怨念の方向性、独特すぎない?」

「兄貴……俺は生きてる霊より受験生のほうが怖ぇよ……」


 麻斗は少女の霊を見て目を細めた。


「で、俺も見えてるんだけどさ」


 麻斗が少女の霊を指さして言った。


「なんで俺には頼まないの?」


 少女の霊は一瞬、きょとんとして、それから小さく口を開いた。


「……なんだか……馬鹿そうで……」

「ぶっっ!!」


 優斗が思わず吹き出しかけて、口元を手で押さえる。麻斗は一瞬固まり、それから肩をぶるぶると震わせて叫んだ。


「俺もこの高校受かってるんだよ!!兄貴とは受かったクラス違うけど!!ていうか、お前、見た目だけで判断すんなし!!」

「だって……勉強中も寝てそうな顔してるし……」

「寝てねーし!?ちゃんと起きてるし!?ノートもとってるし!!字はちょっと読めないけど!!」

「やっぱり馬鹿じゃない……?」

「うるせえ!!兄貴なんとか言ってくれよ!!」


 優斗は横で、ふぅ…とため息をついた。


「まぁ……事実として、麻斗は学年で下から数えた方が早いよね」

「お前まで正論で刺してくるなよ!?」

「でも、身体能力だけは学年一だから。勉強教える以外なら需要あると思うよ」

「もうやめてくれーっ!!霊にまで心折られる高校生なんて俺ぐらいだろ!!」


 少女はぽかんと麻斗を見つめたあと、くすっと笑った。


「……ごめんなさい。でも、ちょっと面白いですね。日吉さんの弟さんって」

「今さら取り繕っても遅いからな〜!?くそ〜!兄貴の人気、霊界でもやばいな!?」


 優斗はため息をついて肩をすくめた。


「まあ……いいけど」


 優斗はちらりと周囲を確認する。

 完全に、制服姿の双子が虚空に向かって真剣に話しかけている図だった。

 すれ違う通行人が思わず二度見しているのが、視界の端に見える。


「中間テストも終わったし。とりあえず、ここにいたら目立つから……うち、来る?」


 優斗がそう言うと、セーラー服の少女の霊はパァッと顔を輝かせた。


「えっ……いいんですか!?優斗さんのおうち……!」


 その瞬間、横で麻斗が盛大にツッコむ。


「ちょっと待て!優斗さんのおうちって、俺の家でもあるんだけど!?ていうか部屋一緒だし!なんで俺の存在がナチュラルに消えてんの!?」

「えっ、あっ、ご、ごめんなさい……なんかこう……“兄”って感じがして……」

「兄貴は俺の兄貴だけどな!?双子!双子だからな!存在忘れられるの、ガチで傷つくやつ!」

「……この状態が一番目立つ気がするけど」


 優斗が横目で道行く人を見て、小声で呟く。


「ねえ麻斗……お願いだからもう黙って歩こう?マジで“見えない彼女と同棲中の双子”って思われるから」

「そっちのほうがヤバいわ!!」


 そう言い合いながらも、3人(?)は少し急ぎ足で家路についた。


 ◆ ◆ ◆


 自室に入ると、さっそく“霊と双子の奇妙な勉強会”が始まっていた。

 優斗が机の上にノートと問題集を広げながら、幽霊の少女に問いかける。


「で、君の名前は?」

「西田紗英です」

「よし、じゃあ——紗英。頑張ろうぜ!」


 麻斗が元気よく声をかけたその数分後には、そのテンションも空しく吹き飛ぶことになる。


「じゃあこの英語、基本問題。ここの動詞、何に変化する?」


 優斗が差し出したプリントを、紗英はすっと覗き込んで、


「……goの過去形だから、went……ですか?」

「正解」

「へへっ……!」

「じゃあ次、麻斗。これは?」

「えっ……ワイ……ワイ……エヌ……?」

「それ、綴りな。意味を聞いてるんだけど」

「あっ、意味……?え〜っと……YENって円って意味じゃなかったっけ……」

「それはJPN、というか国際通貨コード……」


 そんなやりとりのあと、ふと紗英が麻斗の顔をじぃーっと見た。

 目を細めながら、真剣な表情で言い放つ。


「麻斗さん、でしたっけ……?あなたほんとに、この学校、受かったんですか……?

“頑張ろうぜ!”じゃなくて……頑張るの、貴方なのでは?」

「うるせえな!!これが制服!コレが学生証!!」


 麻斗は学ランの襟を引っ張ってアピールしつつ、財布から学生証を取り出して机にバン!と叩きつけた。

 紗英はそれをちらっと見ると、ふうん……と納得しない顔で首を傾げた。


「まさか裏口……?」

「ちゃうわ!!入試の作文、俺なりにめっちゃ頑張ったし!!」

「作文って……英語でも理科でもなく……」

「ぐっ……!!」


 そのやりとりを背に、優斗は静かに問題集をめくりながらつぶやいた。


「……あとで、麻斗にも復習させよ」


 麻斗がプリントをぐしゃっと握りしめて立ち上がる。


「もー怒った!祓ってやらぁ!!成仏なんてさせてやらねえ!女子中学生にも容赦しねえぞ!!」


 バチバチと空気が震える。

 無意識に滾る退魔の波長が、部屋の空気をビリビリと振動させた。


「ひっ……!」


 紗英の霊はびくんと肩を跳ねさせると、ぷるぷる震えながら優斗の後ろに隠れた。


「ひ、ひどいです……!わたし、ただ勉強したいだけなのに……優斗さん……助けてぇ……!」


 ぐすぐすと涙目で背中に縋りつかれ、優斗はめちゃくちゃ困った顔をする。


「ちょっと麻斗、落ち着いて」

「いやいやいやいや!!“お前ほんとに受かってるんですか?”とか言われて、ニコニコできる人間いる!?ていうか兄貴、俺に冷たくない!?」

「冷たくしてるんじゃなくて、正しい事実を指摘してるだけだけど」

「フォローしてるようで全然フォローじゃねえっ!!」

「……日吉兄弟って、仲良しなんですね……」

「今!どの口が言うっ!?」

「でも、私……もうちょっとだけ、ここにいたいかも……」

「成仏する気ねーな!?だんだん居候っぽくなってきてない!?」


 紗英はふと、優斗と麻斗を交互に見た。


「2人共、顔は似てますけど……性格は全然違うんですね」


 プリントを見つめながら、ふと紗英がぽつりと呟いた。


「なんだか、優斗さんとは……こうしていたいかも……?」


 そう言いながら、ふわりと浮かぶようにして優斗の背中にぴとりとくっついた。


「……」

「……」

「おおおおい!?」


 麻斗の叫びが部屋に響く。


「なんでこんなところまで惹魔体質発揮してんだよ!!イカとかタコとかの化け物に好かれるだけで十分だろ!!なんで女子中学生の幽霊まで寄せつけてんだよ!!離れろ!紗英離れろ!」

「や、やです……!優斗さんの背中、落ち着くんです……!」

「落ち着くなぁぁ!!何しれっと密着してんだこの霊は!兄貴!お前!そのままだとロリコンとして成仏どころか通報されるからな!!俺がするからな!!」

「は?落ち着け麻斗。何がどうなって通報案件なんだ」

「未成年(死亡済)に手を出す不埒な男を見逃せるかぁあああ!!」

「いやだから、手も出してないし、生きてもないし、そもそも出されてもない」

「……あの、わたし的には全然手出してもらってもいいですけど……」

「ダメです!!今すぐ成仏してくださいお願いします!!」


 優斗がはぁっとため息をついた。 


「もういいから勉強するよ。何のために来てるの」


 優斗がプリントを机にぴたりと置き、淡々とした声で言い放つ。


「……そうやって逆ギレして、勉強から逃げようとしても無駄だから」


ズバァン。


「うっ……!」


 麻斗が膝から崩れ落ちそうになる中、優斗の背後からそっと顔を出した紗英が——


「べぇーっ」


 舌をちょろんと出して、いたずらっ子の笑み。


「……見えてるからな!?俺には見えてるからな!?その小悪魔ムーブ!!」

「え?なにか?」


 ぱちくり、と目を瞬かせる紗英。


「お前なぁ……自分が生徒なの忘れてないか!?そもそも勉強教えてって言ったのお前だよな!?」

「だって、わたしより点数取れてない人に言われても……」

「うぅ……!」

「ほら麻斗、黙ってこれ解いて。間違えたらそのページ5回解き直し」


 優斗が静かに問題を差し出す。


「この家、俺の居場所なくない!?なんか俺が一番下じゃない!?一応兄貴の弟って立場だよね俺!?ねぇ!?」


 優斗が目を細めながら机の引き出しを漁り、プリントを出してくる。


「じゃあ入学試験を再現するから、2人とも時間内に解いて」


 優斗が机にプリントをカサッと置く音が、部屋に響いた。

 表紙には手書きで「英語・30分・50点満点」と書かれている。


「……手作り……」

「兄貴、これ、もしかして普段から準備してるタイプ……?」

「当たり前でしょ。自習用に」

「自習用!?趣味かよ!!」

「はい、無駄話終了。タイマーつけるね。始め」


 ピッとキッチンタイマーが鳴った瞬間、試験開始。


「うっわ、本格的……!」


 紗英の霊がふわふわと浮いたままプリントに視線を落とし、鉛筆を握った——フリだけして、宙に書き込み始める。

 その隣で麻斗は腕組みをして、問題を見つめたまま数分動かない。


「……おい兄貴、問題が俺に話しかけてこないんだけど」

「それは君が話しかけてないだけだよ。さっさと解け」

「……怖っ!返しが教育者!!」


一問目:空欄補充。

二問目:並び替え。

三問目:自由英作文(20点)


「20点!?作文!?ぎゃあああ!」

「えっと……作文は……志望動機……?“わたしの夢は……”」


 紗英が真面目に書こうとしている横で、麻斗が頭を抱えて悶えている。


「“I am... my dream is... to be...”……うわ、何か思い出しちゃう!試験のときの恐怖!!」

「うるさい、静かに」


 ピッ。

 タイマーが鳴った瞬間、2人が同時にペン(と空中ペン)を置いた。


「……死んだ……」

「私はもう死んでます……」

「うまいこと言うなぁ!?」


 優斗は無言で2人の答案(と霊の回答)を受け取り、赤ペンを手にした。


「さて、採点するね」


 優斗が静かに赤ペンを走らせる音が、部屋に響く。麻斗は正座したまま、まるで審判を待つ被告人のように目を伏せていた。紗英はそわそわと宙を浮遊しながら、ちらちらと優斗の手元を見ている。

 数分後——


「はい、結果出ました」


 優斗がプリントをぱん、と机に置いた。


「まず、紗英。45点。あと5点で満点だね。

内容も文法も正確だったし、作文も志望動機がしっかりしてた。受けてたら、たぶん普通に受かってたと思う」


「……えっ……!」


 紗英の目がぱぁっと見開かれる。


「本当、ですか……?」

「うん。むしろ模範解答の一例として出していいレベル」

「…………っ」


 紗英の目にじわっと涙が浮かぶ。


「やった……やったぁ……!やっと言われた……!“受かってたと思う”って……ずっと、それが欲しかったんです……!」

「おお……紗英……」


 麻斗も思わず感動してた。

 が、次の瞬間。


「そして、麻斗。12点」

「は???」

「作文が“夢は寝ること”で即減点。英作文が主語と述語の一致すらしてない。単語も“くつした=靴した”ってなに。あと“beautiful”の綴りがなぜか“beautifuru”」

「だってあれだろ!?発音重視したらそっちじゃね!?」

「何語の話してるの?」

「くっそおおおおおお!霊にまで負けたあああああ!」

「……死んでるけど、ありがとうございます。勝ちました」

「うわムカつくこの霊!?」


 地団駄を踏む麻斗の横で、紗英は目を伏せた。


 「でも、やっぱり、高校生、したかったです」


 採点結果を聞いたあと、紗英はぽつりと呟いて目を落とした。


「多分、私は中学生のままだけど……きっと、生きていたら……2人と同い年で、入学してたと思うんです。クラスメイトだったかも、なんて」


 彼女の声は、どこか遠くを見ているようだった。


「……授業中に眠くなって、こっそり机に突っ伏したり、テストのあとに友達と答え合わせして、どっちが合ってたかって騒いだり……そんなのが、したかったな」


 ふっと、柔らかく笑う紗英。


「でも、そっか……。私が幽霊だったから、2人に……見つけてもらえたんですよね」

「……」

「それだけでも、よかった、かも」


 沈黙の中、優斗はそっと目を伏せた。

 麻斗は、ぽりぽりと頭をかいて、目をそらす。


「……じゃあさ」


 麻斗が、不意に口を開いた。


「一日だけ、高校生、やってく?」


 紗英が目を見開いた。


「……え?」

「別に誰にも見えねえし、兄貴も俺も見えるし。クラスメイトってやつ、ちょっと体験してみたら?今だけな」

「麻斗……」


 優斗が小さく呆れたように言う。


「珍しく、いいこと言うじゃん」

「ふふっ……」


 紗英が笑うと、その笑顔はさっきまでよりずっと柔らかくて、どこか懐かしい“普通の女の子”のものだった。


「ありがとうございます」


 紗英が、にこっと笑った。

 その瞬間、ふわりと——彼女の身体を、淡い光が包み込んだ。まるで、春の朝日のようなやさしい光。

 暖かくて、どこかくすぐったいような、そんな空気が部屋に満ちる。


「でも大丈夫。……こうして、高校生になったら……友達と、ワイワイするのが未練だったのかも、ですね。でももう叶っちゃった」


 声はもう、震えていなかった。

 涙も、浮かべていなかった。


 ただ、ほんの少し、名残惜しそうに——

 机の上の鉛筆を見つめていた。


「短い時間でしたけど……楽しかったです。

勉強して、笑って、怒られて、バカにして……でも、それが嬉しかった」

「……」


 麻斗は何か言いかけたけれど、喉が詰まって言葉にならなかった。

 優斗は静かに、頷いた。


「じゃあ、合格おめでとう、紗英」

「……はいっ」


 まるで、ちゃんと試験を終えた受験生のように、紗英は背筋を伸ばして微笑んだ。

 そして——光の中へ、ゆっくりと溶けていった。

 風がそっと、カーテンを揺らした。

 まるで、笑いながら手を振っているような、優しい風だった。

 静かになった部屋には、もう紗英の気配はなかった。あれほど賑やかで、不思議で、笑いに満ちていた時間が嘘みたいに、静まり返っていた。

 優斗は、ふと机の上に目を落とす。

そこには紗英が最後まで握っていた鉛筆が、ふわっと浮いたように転がっていた。

 麻斗が隣で、ぽつりと呟く。


「……俺さ」


 その声は、いつもよりずっと低くて、真面目だった。


「ただ痛かっただけで終わらなくて……よかったって思ったよ、俺」


 優斗は目を細めて、横顔を見た。


「痛いまま、誰にも見つけられずに消えてたら、さ。きっと、“志望校に受かりたかった”って気持ちも、“誰かと笑いたかった”って気持ちも……全部、なかったことになっちまうじゃん」

「……うん」

「でも、俺たちがちょっとでも残せたなら、さ。その“よかった”の中に、ちょっとくらい俺のことも入ってたなら……それだけで、さ」


 優斗は、ただ静かに頷いた。

 麻斗の目が、少しだけ赤くなっているのを見て、何も言わず、そっと視線を外した。


 ◆ ◆ ◆


 放課後の教室。

 チャイムが鳴り終わっても、まだ席を立たない生徒がちらほらと残っていた。

 窓の外では赤く染まった雲が流れていて、蝉の声が遠くで細くなっている。

 優斗は自分の席で、静かに参考書を閉じた。

教室には、教科書の擦れる音と、どこかのクラスから聞こえる笑い声だけがぼんやり響いていた。


「……兄貴〜、おーい!」


 廊下の向こうから声がする。


「あ、いたいた!」


 扉がガラッと開いて、麻斗が顔をのぞかせた。


「なに、また自習?も〜放課後までストイックすぎんだよ、兄貴は」

「……君がサボりすぎなだけだと思うけど」

「そう言うと思った〜」


 麻斗は机にぐいっと身を乗り出してきて、にやにやと笑う。


「てか今日さ、購買寄ってこうぜ。あの新作メロンパン、俺が買い占める前に兄貴にも一個やるって!」

「……いや、それ買い占めてる時点で僕の分なくなるよね」

「そこをなんとか!愛でカバー!」

「無理です」


 そんな他愛のない会話が、いつもの放課後の空気に溶けていく。

 昨日のことも、紗英のことも、全部嘘みたいに静かだったけど——

 優斗はふと思った。


(……でも、どこかであの子も、こんな風に笑ってるといいな)


「兄貴ー?置いてくぞー?」

「あ、はいはい……今行く」


 立ち上がって、窓の外をもう一度だけ見た。

どこか遠くで、紗英の声がした気がした。

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