第24話 海の底の海神様 後編
神座は静かだった。
神を救うにはもう一歩――。
「……任せとけ」
麻斗は、静かに息を吐いた。
「こんなんなってる神様、放っておけるわけねぇだろ」
その目は真剣だった。
冗談も軽口も封じて――麻斗は、己の内にある“退魔の波長”を、静かに、ゆっくりと練り上げていく。
力任せではない。
これまでと違う、まるで一振りの刀を鍛えるかのように、精密に、丁寧に。
「……っは」
深く息を吐きながら、麻斗は目を閉じ、霊視を用いてワダツミの中に溜まる“穢れ”――黒く淀んだ澱のようなものを探し当てる。
そこに、狙いを定めて、慎重に波長をぶつける。
だが――
チリ……ッ
微かな音とともに、ワダツミの巨体がほんのわずかに震えた。
「……っ!」
麻斗の脳裏に、鋭く優斗の声が飛び込んでくる。
(おい!弱ってるワダツミ様に波長当てすぎたら――死ぬぞ!)
その言葉に、麻斗の背筋が凍る。
(……分かった。くそ、これ……以外とキツイな)
波長の力をほんの少し間違えただけで、神の魂を削りかねない。“怪異を溶かし祓う”という力が、今は諸刃の刃だった。
額ににじむ汗。
麻斗の全身から、余計な力がそぎ落とされていく。今までのような力押しでは通用しない。
慎重に、緻密に、そして繊細に。
波長の強さをミリ単位で調整し、穢れだけを狙い撃つ。麻斗の退魔の波長は――今、真に“技”へと昇華しようとしていた。
そんか静寂の中、優斗はただ、麻斗の背中を見つめていた。
じっと、瞬きすら惜しむように。
兄として、陰陽師として、そして――“もう一つの魂”として。
(……麻斗)
波長を研ぎ澄ましながら、真剣な顔で神と向き合う弟の姿は、いつもの破天荒で単純で、勢い任せの麻斗ではなかった。
その手は震えていた。けれど――決して退かない。脳を酷使して、繊細な制御に集中するその姿は、まさしく“命を預かる者”の覚悟に満ちていた。
(……ちゃんと、成長してるじゃん)
優斗は、ほんの少しだけ、口元を緩める。
かつて、無茶ばかりで、何も考えずに殴りかかっていた弟が――今、退魔の波長を、まるで彫刻刀のように扱っている。
“壊す”だけだった力が、“救う”ための技になっていく。
(麻斗……お前、本当に強くなったな)
それは、誇りだった。
どれだけ不器用でも、どれだけ向いてなくても――諦めずに前に進んできた、弟の強さ。
(だからこそ……僕も、準備しておくよ)
優斗は目を閉じ、麻斗の波長が溶かし払ったその先に、自分のすべき“癒し”を整えるため、ゆっくりと霊力を練り始めた。
(……穢に、なんか、核みたいなしこりがある)
麻斗のテレパシーに、優斗の思考がピリリと緊張する。
(何? しこり……?)
優斗の困惑が返ってくる中、麻斗は眉をしかめながら、波長の出力を抑えて指先を細かく動かす。
(これ以上出力上げたら……ワダツミ様ごと焼いちまう。でも、こいつだけ……溶かしきれねえ)
滲むような汗が、麻斗の頬を伝う。
(これ……なんだ? なんか、異質な……)
触れた瞬間、脳裏に“意図”が閃いた。
それは、ただの穢れではない。“穢れ”を神の中に意図的に溜め込ませるために打ち込まれた――“楔”。
(……黒月……!)
その名を心の中で呟いた瞬間、麻斗の退魔の波長が、感情に呼応するように無意識に広がった。ビリビリと、空気が震える。
(麻斗、落ち着いて! ワダツミ様にまで届く!)
優斗のテレパシーが強めに割り込む。
けれど麻斗はすぐに息を整えた。
(わかってる……でもコイツは溶かす。絶対に)
神を蝕む“意志”など、絶対に許さない。
麻斗の退魔の波長が、楔に狙いを定めるように収束していく。そして、麻斗の額から汗が一筋、顎をつたって滴り落ちる。
その瞬間――パキンッ!
鋭く、どこか硬質な音が空間を裂いた。
神の身体の奥に埋まっていた異質の“楔”が、麻斗の集中と執念によって、圧縮された退魔の波長に晒され、粉々に砕けたのだ。
ワダツミの巨大な霊体に、ぽっかりと“空白”が生まれる。
まるで、長年貼りついていた呪いの札が剥がれ落ちたように。
「ふぅ……後は、任せた。兄貴」
麻斗が手を下ろし、ひと息つく。
そして、自然に右手を差し出した。
優斗は、無言で微笑むと――迷わずその手にハイタッチを返した。
パチン。
乾いた音が、静かな決意を響かせた。
次は、僕の番だ。
麻斗が、崩れるようにその場に膝をつくと、乙姫がすぐに駆け寄り、その肩を支えた。
魚たちも慌ただしく、冷たい水のしずくのように麻斗の周囲に集まる。
「ご苦労様でした……!」
乙姫の声はどこか、泣きそうだった。
優斗はちらりと弟に視線を落とし、小さく頷く。
「……麻斗のこと、頼みます」
その声は穏やかで、だが確固とした意思を含んでいた。優斗は一歩、ワダツミの“中”へと踏み出す。
――惹魔の波長を、意図して、解放する。
これまでただ“寄せられる”だけだった波長を、自分から“流す”のは初めてのことだった。
霊気が優斗の背後にゆるやかな風のように舞い上がり、空気を震わせる。
穏やかで、温かく、安らぎを含んだ波長。
「……ああ、これは、たしかに……」
優斗は思わず、感嘆の息をついた。
麻斗が祓い、空白となったワダツミの魂の“器”――そのあまりにも広く、深く、静謐な“空”を、優斗は今はっきりと“見た”。
(こんなに……大きい……)
自分の波長が、まるで桶の水のようにぽちゃん、とその底に落ちていく。
けれど、埋まる気配はない。
乾いた湖底にしみ込むように、ただ静かに、静かに、吸い込まれていく。
(……これは、時間がかかる。だけど)
優斗はふっと笑った。
(満たせるなら、僕がやるよ)
そして、静かに目を閉じ、波長を流し始めた――波の音が、寄せては返す。
それは神が初めて聴いた“子守唄”のようだった。
ワダツミの魂の深淵に、優斗の波長がすう…と染み渡っていく。ゆっくりと、確実に。
(何度でも。千回でも、万回でも。あなたが耐えてくれた分だけ、今度は僕が――)
それは惹魔の力であり、優斗自身の祈りだった。ふと、魂の奥で、ワダツミが微かに震えた。
『……あたたかい……これは……』
それは、神が初めて触れる“人の情”だった。
穢れに蝕まれ、沈黙しかけていた海の神が、わずかに身じろぎし――静かに、満ちていく。
果てのない深海に、一滴一滴と色が戻っていくように。
やがて、その水面は、優しく煌めき始めた。
魚たちがひときわ活発に泳ぎ、乙姫はその光景を見て涙ぐむ。
「……優斗様……海が……戻ってくる……」
神の心に、初めて宿った“感情”という名の波が、小さく揺れていた。
優斗は、荒い息を吐きながら、その光景を見つめていた。
目の前の神――ワダツミは、まるで海そのもののように大きく、雄大で、けれど穏やかな気配を取り戻していた。
その肌は青く澄み、波のようにゆったりと揺れる。神気が、部屋全体に柔らかな潮風のように漂い、優斗の頬を撫でた。
「……よかった……」
ぽつりと、優斗がつぶやいた。
その瞬間、乙姫が、がくりと膝をついた。
肩を震わせ、顔を手で覆い、声を漏らす。
「わ、ワダツミ様…うっ、うぐっ…よかった…よかったぁ……!」
魚たちも周囲でくるくると泳ぎながら、嬉しそうに涙を浮かべるような表情を見せていた。
大きなサンゴが、まるで呼吸するようにゆっくりと光を放ち始め、海の底に春が訪れたようだった。
そして、ワダツミが――ゆったりと、優斗を見下ろす。
『惹魔の人の子……その魂に、深く感謝する』
優しく、包み込むような、けれど神の底知れぬ力を感じさせる声が、優斗の心に直接響く。
『これが……人の祈りか……。なるほど、ならば我もまた、生き続けよう。人の願いが、届く限り』
麻斗は、目をぱちぱちと瞬かせながら天井を見上げ、それから、まだ神気をたたえるワダツミを見て、ぽかんと口を開いた。
「……マジで、神、だなコレ……やば……」
そのまま布をはねのけて立ち上がろうとするが、体の節々が悲鳴を上げて、またドサッと座り込む。
「おぉぉ〜っ……だめだ、全身バキバキすぎる……」
そんな麻斗に、乙姫が両手を胸の前で合わせて深く頭を下げる。
「おふたりとも……本当に、ありがとうございます!」
そして、パンッと手を打つと、魚たちがワラワラと現れて、テキパキと準備を始めた。珊瑚の間から食器を運ぶ者、貝殻の中から楽器を取り出す者、まるで海の底の劇団のような統率された動き。
「お二人のために、盛大に宴を催しましょう。とびきりのご馳走と音楽と踊りで、おもてなしをいたします!」
乙姫がぱっと笑顔を見せると、麻斗は嬉しそうに腕を広げた。
「マジか!?それ先に言ってくれよ~!!宴、全力で参加するわ!!」
優斗はまだ疲労の残る表情で小さく息を吐いていたが、それでも目元にわずかな微笑を浮かべた。
「……ま、少しくらいは楽しんでもいいか」
海の底に、明るい光が満ちていく。
宴のはじまりだった――。
◆ ◆ ◆
海の底の宮殿は、今や柔らかな光と楽の音に包まれていた。
色とりどりの魚たちが珊瑚のステージで舞い踊り、クラゲがふわりふわりと天井を彩る。長机にはずらりと貝や海藻を使った料理が並び、香ばしい匂いが漂っていた。器はすべて真珠のように美しく、添えられた小さな飾りも丁寧に細工されている。
麻斗はその中心に座って、箸を休めることなく口に運びながら、顔をしかめていた。
「いやあーしんどかったマジで!なんか脳みその使ってない部分使ったらしんどくね?」
「例えるなら何ていうかな〜銃突きつけられながら間違えたら撃ち殺される数学解いてる気分っていうか?」
「もうちょっと静かに食べなよ……」
優斗が隣で苦笑する。
その隣、乙姫が小さく肩を揺らして笑った。
「ふふ、退魔の人の子には、本当に無茶をお願いしてしまいましたね。優斗様の惹魔の波長も……あれだけの神に直接、ですもの……」
「いや、兄貴はいつもあんな感じなんだよ、淡々とすごいことするの。俺の体力と引き換えにさ!」
麻斗はお茶を一気に飲み干してまた豪快に笑った。
「ですが、おかげでこの海に再び安寧が戻りました。さあ、今夜はごゆっくりお楽しみくださいませ」
乙姫が扇子を広げ、やわらかに会釈すると、舞台ではさらに豪華な舞が始まった。イルカたちが水の輪をくぐり、サンゴの器からは金色の泡がふわふわと浮かび上がる。
「このあと、竜宮城内をご案内しましょう。お部屋も、温泉もございます。今夜は特別に、海底花火もご用意しております」
「えっマジで!? 花火!? 海の中で!?」
麻斗は目を輝かせた。
「ええ。水の中ですから、火薬ではなく光と音と、幻想的な波動を使って……ぜひ、ご覧になってくださいね」
優斗も、少し目を細めてうなずいた。
「それは……ちょっと興味あるかも」
宴はさらに賑やかになり、竜宮の夜はゆっくりと、しかし確実に美しく深まっていくのだった。
海底の夜は、まるで星空のように静かで澄んでいた。そして、その静けさを破ることなく、竜宮城の庭の先――水の広場で、ふわりと最初の花が咲いた。
「……わ」
優斗の声が漏れた。
空でもなく、地でもない。
真珠のように淡く輝く光が、じんわりと水を染めて、柔らかく広がる。音はしない。ただ、水と光と、細やかな霊気の波動だけが身体に沁みてくる。
「すげぇなこれ……水の中って、もっとドカーン!ってなるかと思ったけど、全然ちがうじゃん」
麻斗がぽかんと口を開けながら、隣で呟いた。彼の髪の毛が、水流に揺れてふわりと浮いている。
「こういうの……たまにはいいかもな」
「……静かで、でもちゃんと心臓に響いてくるね」
次々と咲く光の花。
金、緑、蒼、紅――色とりどりの光の波が優しく混じり合い、壁を照らしてゆく。
まるで海そのものが祝福しているかのように。
「兄貴、あの時さ」
麻斗がぽつりと口を開いた。
「麒麟に“もう一つの魂”って言われてたじゃん。あれ……やっぱ気になんのか?」
優斗は少しだけ、目を細めた。
「……分かんない。でも、あの時、“お前”がすぐに飛び込んでくるって思ってたから、選ばなかったんだと思う。契約も、代わりになるのも」
「……へへ、そりゃ信頼ってやつ?期待されると調子に乗っちゃうよ?」
麻斗が笑って、花火の光を受けてきらきら光った。
「けどまぁ……俺は今のままでいいと思ってるよ」
「なにが?」
「俺は退魔の波長でぶん殴って、兄貴は霊気で惹き寄せて。で、2人で花火でも見てる。そういう夏も……悪くねえなって」
優斗は少し黙って、それからふっと息を吐いて、静かにうなずいた。
「うん、そうだね。悪くない」
静かに、最後の花火が――大輪の金色の光を、水の夜空にゆっくりと、ゆっくりと咲かせた。
◆ ◆ ◆
朝の海は、どこか神聖で、ほんのりと名残惜しい静けさに包まれていた。光る貝殻の廊下を、優斗と麻斗が乙姫に見送られながら歩いている。
「……てかさ、泊まってたホテルどうするよ?」
麻斗がぽつりと呟くと、乙姫はにこりと微笑んだ。
「ここでの一日は、現実の約一時間程度。おそらく支障はございませんわ」
「それはラッキーだけど……さすがに戻っても海ではしゃぐ気力ねえわ。さんざん海底ではしゃいだからなぁ……」
麻斗が大きく伸びをして、ぼやきながらもどこか満足そうに笑った。
優斗も横で苦笑しながら、「まあね」と短く返す。
乙姫はふと立ち止まり、手にしていた箱をそっと差し出した。
「お二人には心よりの感謝を。ささやかではございますが、贈り物です。こちらをお持ちください」
その箱は、光を反射して淡く虹色にきらめいていた。麻斗がまじまじと見つめたあと、目を丸くして言った。
「……って、これ!聞いたことあるぞ!?“玉手箱”ってやつじゃん!?」
乙姫は微笑んだまま、ゆっくりと頷く。
「必要な時にお開けください。中身は……秘密です」
「いやいや、それ一番あやしいやつ!」
麻斗が声を上げる横で、優斗は目を伏せながらも箱を受け取り、「ありがとう」と静かに礼を言った。
そして2人は、ゆるやかに渦巻く水の扉へと足を踏み入れていく。
◆ ◆ ◆
ざぁん、と砂を濡らす波の音。
焼けつくような真夏の陽射しが、再び2人を包む。
先ほどまで神域の海底にいたとは思えないほど、変わらない地上の景色。
人影まばらなプライベートビーチでは、まだ太陽がまぶしく輝いていた。
「……うわ、マジで時間たってねぇ」
麻斗は片手で眩しそうに額をかざし、砂浜に腰を下ろした。濡れていたはずの服も、今はすっかり乾いている。
「結局さぁ……海来たのに、また怪異に巻き込まれてんの、ほんと勘弁なんだけど……」
麻斗がぼやきながら砂をいじる。
優斗はその横で、いつものように静かに佇みながら、「でも、助けられた」とぽつりと呟いた。
「……ま、な。俺の退魔の波長、やっぱすげーってことで?」
「そこまで言ってない」
「えーっ!?言えよぉ〜!」
2人の言葉のやり取りの上を、また波がさらりと撫でていく──もうしばらく、夏は終わりそうになかった。
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