第23話 海の底の海神様 前編

 夏休み。

 とある依頼のせいで、ほとんど自由のなかった日々。けれど、ようやく訪れた――たった一泊二日の完全オフ。


「優斗!海行こうぜ!海!!」


 麻斗は部屋に入るやいなや、荷物をベッドに投げ捨てて、タオルを肩にかけたまま勢いよく振り返る。


「せっかくの海っぽいホテルなんだ!海に来て海に行かねえとかありえねえだろ!?な!?」


 そんな麻斗に対して、優斗は靴を脱いでから、ゆっくりと冷房の効いた室内を一瞥して答えた。


「……まだチェックインから10分も経ってないけど」

「だからだよ!時間は有限だぞ!?太陽も水着も俺を待ってねえ!」

「水着も着てないじゃないか」

「うるせー今から着るんだよ!!」


 麻斗はそのまま浴室に飛び込む勢いで水着に着替えに行った。

 その背中を見送りながら、優斗はやれやれと首を振る。けれど、口元には――ほんの少しだけ、笑みが浮かんでいた。


「着替えたぞ!優斗!先に行くからな!」


 玄関から声を響かせ、麻斗はそのままビーチサンダルの音をパタパタと鳴らしながら走っていった。

 ホテルからすぐの砂浜は、観光客の姿もまばらで、まるで専用のプライベートビーチのようだった。

 照りつける太陽、きらめく水面、潮の香り。

 そして――先に着いた麻斗の、元気すぎる声。


「おーい!優斗〜!」


 優斗が海辺にたどり着く頃には、麻斗はすでに全力で海を満喫していた。

 水際を走り回ってはしゃぎ倒し、どこから持ってきたのか分からないサビたバケツの中には、ヤドカリやら、ちっちゃなカニやら、ぎっしり詰まっていた。


「見ろよ優斗!このカニめっちゃ怒ってる!ハサミでピースしてるぞ!」

「……いやそれ、怒ってるじゃなくて威嚇じゃないかな」

「だよな!それがまたカワイイんだよ!!」


 バシャッ、と波を跳ねさせながら、麻斗が笑う。優斗はその様子を見ながら、靴を脱いで、ゆっくりと砂浜に足を踏み入れた。

 冷たい海水と、柔らかな砂の感触――本当に、久しぶりの、何もない時間。


「……今日は怪異も契約も来ませんように」


 優斗は海を見つめながら、小さく、そう呟いた。

 ざぁっ……。

 優斗の足元を濡らした波が、すう、と引いていく、その瞬間だった。


「――っ……!?」


 何もなかったはずの海に、突然“異様な霊気”が満ちた。潮が逆流するような感覚。引力のような力が、まるで砂ごと――優斗自身を飲み込むように足元を掴んで引きずり込んでいく。

 一瞬の眩暈。

 視界が反転し、優斗の世界は、音も光も――一気に、沈んだ。


 ◆ ◆ ◆


「……っ」


 気がつくと、優斗は畳の上に横たわっていた。

 見覚えのない、しかしどこか気品のある空間。周囲は高級旅館のような落ち着いた和のしつらえ。欄間の細工、磨かれた柱。だが、異質なのは――窓の外の景色だった。

 窓の向こう、扉の先。

 そこにあるのは、地上の庭でも夜の街でもなかった。

 透き通った水中。

 鮮やかなサンゴが揺れ、色とりどりの魚が優雅に泳いでいる。

 まるで水族館の中に迷い込んだかのように。

 いや、違う――これは、本当に“海の中”だ。

 優斗はゆっくりと起き上がり、窓際に近づいて上を見上げる。

 果てしなく遠くにある水面。それは、まるで空のように揺らめき、素潜りではとてもじゃないが辿り着けない高さに見えた。


(ここは――どこだ?)


 優斗の瞳に、不安と冷静さが同時に宿る。

 まるで歓迎するように、ふわりと何かの気配が、背後に立った――。


「気が付きましたか」


 鈴の音のように、静かに響いた声。

 優斗が振り向くと、そこに立っていたのは――水面の揺らめきをそのまま衣にしたような、美しい女性だった。

 髪は深海のような青。

 薄く透ける衣は、星屑のようにきらめいている。その姿は、この海の中でしか存在しえない幻想そのものだった。


「私の名は乙姫。貴方の助けをお借りしたいのです」


 乙姫は静かに、目を伏せた。


「この海の神、ワダツミ様が衰弱しているのです……」


 優斗の眉がわずかに動く。


「ワダツミ……海神、ですか」

「はい。ワダツミ様は、すべての海を統べ、生命の源たる“水”を保ち続ける神……」


 乙姫の言葉は静かだが、その声には切迫した気配があった。


「そのお力が衰えれば――この海域は、海の“かたち”を保てなくなる可能性があります。……渦巻き、淀み、満ちることも引くこともなくなれば、海に住まうすべてが、苦しみとともに滅びるでしょう」


 彼女がそう言い終えるより早く、周囲の魚たちがふわりと優斗の前に集まった。

 銀色の小さな皿には温かいお茶。

 もう一方には貝殻の器に盛られたお菓子。

 そのつぶらな目は、どれも乙姫を心配そうに見つめている。

 優斗は少しだけ視線を落とした。


(この世界には、まだ僕の知らない“神”がたくさんいる……)


 そう思いながらも、乙姫の声と、海の静けさが心に滲んでくる。

 優斗は、そっと茶に口をつけ、目を伏せた。


「……話の続きを、聞かせてください」


 乙姫は小さく微笑み、頭を下げた。


「ワダツミ様が衰弱している……」


 乙姫の声は、波のように静かに、しかし深く響いた。


「しかし私たちには、どうすればよいのか……見当もつかないのです」


 胸元にそっと手を当てて、彼女は息を整える。


「海の者たちも、私自身も、できる限りの手は尽くしました。けれど……神や怪異と“向き合う”力を持つ者でなければ、この問題に触れることすらできないのです」


 魚たちが優斗の足元で小さく揺れながら、彼の顔をじっと見つめる。不安と、祈るようなまなざし。

 乙姫はふと、柔らかく微笑んだ。


「……それに、貴方は。海の底からでも、穏やかで、手を伸ばしたくなるような霊気を纏っている」


 その言葉に、優斗の目がふと細められる。


「……皮肉ですね。惹魔体質って、本当はそういう風に見えるんですか」


「ええ、とても。こちらから歩み寄りたくなるような波長です。だからこそ……この異界にまで、貴方を“引き寄せた”のでしょう」


 乙姫はゆっくりと膝をつき、深く頭を下げた。魚たちもそれにならって、身体を低くする。


「どうか、貴方の力をお貸しください」

「解決するまで、好きなだけ滞在していただいて構いません。お食事も、お部屋も、すべてご用意いたします。どうか、この“海の神”を――“海”を、救ってください」


 静かな水音だけが、耳に残った。

 優斗は、無言のまま魚たちの表情を見つめてから、ゆっくりと、もう一口だけお茶を飲んだ。


「……わかりました」


 そう呟いたその声は、まるで深海に、光が差したような静けさと温かさに満ちていた。

 乙姫と魚たちに深く頭を下げられたまさにその時――ふっと、胸の奥に微かな振動が広がった。


(おーい、優斗!……あれ?優斗?どこだ?)


 間の抜けた、けれどどこか安心する声。

 それは――麻斗からのテレパシーだった。

 優斗は一瞬、ポカンとしたような表情を浮かべてから、ふっと微笑んだ。

 その緩んだ頬に、乙姫が不思議そうに首をかしげる。


「……どうかされましたか?」

「いえ、少し騒がしいのが、地上から“届いただけ”です」


 優斗はそっと目を閉じ、麻斗に思念を返す。


(こっちは今、海の中の異界。勝手に落ちた……らしい。けど、こっちはこっちで問題発生中)

(えぇ!?お前だけ異界落ち!?ずるくない!?俺も行く!)

(だからそういう問題じゃない)


 テレパシーのやり取りをしながら、優斗は立ち上がり、乙姫を見た。


「……一人でできる範囲は限られます。僕の弟――麻斗も、ここに来させてもいいですか?」


 乙姫は一瞬目を見開いたあと、すぐに頷く。


「はい。貴方が“必要”とするなら、歓迎いたします」


 優斗は再び目を伏せ、静かに呟いた。


(……行く気満々だろうけど、来るなって言ってもどうせ来るだろうし)

(だな!)

(はぁ……わかった。ちょっとだけ待ってろ)


 乙姫がそっと海亀に目を向け、微笑みかけると――海亀は、ふてくされたように目を細め、ぷかりと泡をひとつ吐き出した。


「…うぅ、わかってますよ。行けばいいんでしょう行けば…」


 そう言いたげな顔をしながら、甲羅を揺らしてすいっと水の扉を抜けていく。


「念話…でしょうか? 本当に楽しそうにお話されていますね」


 乙姫は、両手を膝の上に重ねながら、静かに笑った。


「実は…貴方以外の気配も感じていたのですが……あまりにも我々には“触れ難い”気配だったもので……あれは、弟様だったのでしょうね」


 優斗は少しだけ目を細める。


「……ええ。あいつの霊気は、まるで“拒絶の波”みたいなもんで、神でも怪異でも遠慮なく跳ね除けるんですよ。荒いし、直感的で、情に厚くて……」


 一拍、置いて、ふっと笑う。


「……でも、一番信頼できる奴です」


 その言葉に、乙姫は目を瞬かせて、まるで少しだけ感動したように表情を和らげた。


「……惹魔の体質とは思えないほど、誰かを“信じている”お顔ですね。あなたは……こちら側にいるのに、本当に“優しい”目をされるのですね」

「そう言われると……なんか落ち着きませんね」


優斗が少しだけ視線を逸らすと――その背後で、遠くの水面がざばぁっと割れる音がした。


「……さて。来たみたいですね、“触れ難い気配”が」


 乙姫の言葉のすぐに、激しい水音がする。


「来たぞーッ!」


 そんな勢いそのままの声と共に、豪奢な扉がばーんと開いた――そしてそこから、ずぶ濡れの麻斗が飛び出してきた!


「うおおおおおおおっ!? なっ、なんだここっ……!」


 亀の甲羅から背中から放り投げられた麻斗は、華麗なバウンドを決めて床にべしゃり。


 「ぐえっ!? いてええぇ……!」


 床に転がる麻斗の横で、海亀がふぅ、と深いため息をつく。


「まったく…あの弟、着替えもせずに突っ込んでくるとは……」


  乙姫は思わず口元を手で隠しながら、くすりと微笑んだ。

 麻斗はというと、あたりをきょろきょろと見回し、天井に漂う魚、珊瑚の間に差し込む光、そして、ひときわ異質な空間の気配に目を丸くする。


「え、ちょ、お前…マジでどこ来てんだよ優斗!?ここヤバくね!?キラッキラしてんだけど!?なんかお姫様いない!?」


 その騒がしさに、優斗はお茶をすすりながら淡々と答える。


「静かにしなよ。海底の神域なんて、貴重な場所なんだからさ」

「貴重な場所で思いっきり背中から落とされたんだけど!?」


 麻斗はずぶ濡れのまま立ち上がり、床をびしょびしょに濡らしていた。

 乙姫はそれでも微笑みを崩さず、麻斗に歩み寄って静かに言う。


「ようこそ、惹魔の兄君と共にある、“神殺しの矛”の少年。……あなたにも、頼りたいことがございます」

「……お、おう?」


 乙姫の瞳の奥に、静かに揺れる“覚悟”を見て、さすがの麻斗も少しだけ顔を引き締めた。


「で?兄貴はここで何してんの?」


 ずぶ濡れのままぽすっと優斗の隣に座り、麻斗が聞く。そしてすぐに、(実質監禁じゃね?)と、テレパシーを飛ばしてきた。

 優斗はお茶をすする手を止めず、ちらりと麻斗を見やる。


(……言っちゃダメだと思ったんなら、思うだけにして)

(いや、気になんだよ!海に入って秒で攫われたとか実質誘拐じゃん!?)

(……魚たちはみんな丁寧だし、飯は出るし、風呂まである)

(リゾート風監禁!?)


 乙姫はそんなふたりのやり取りを察してか、くすくすと笑った。


「お兄様とは、やはり似ていらっしゃいますね。口調も態度も違うのに、心の奥ではいつも繋がっているような……ふふ、素敵です」


 「え、バレてんの!?」


 麻斗がビクッとする。

 優斗は肩をすくめながら答える。


「テレパシーぐらいは読まれるよ。ここの神域にいるのは、僕の“霊気”を通して海神に呼ばれたから。……ワダツミ様っていう、この海の神様が衰弱してて、原因がわからないらしいんだ」


 麻斗はぽかんと目を瞬かせた。


「神様も体調崩すのかよ……海水飲み過ぎたとか?」

「そんなわけないでしょ」

「いや、だって海の中だし……」


 またしても乙姫が笑いをこらえる。


「まさに、海のような感性……あなた様にも、ぜひお力をお借りできればと思っております。“退魔の波長”を持つ方にもしかしたら、私たちの知らない角度から見えることがあるかもしれませんから」

「そっか。俺だけが見えて、俺だけが気づけるやつか。任せとけ」


 濡れたまま、麻斗は自信満々に胸を張る。

 ……床がさらにびしょびしょになったのを見て、優斗はため息をひとつ吐いた。


「では、ワダツミ様にお会いになられますか?」


 乙姫が優斗と麻斗に静かに問いかけた。

 その声は、水面をすべるように穏やかで、どこか神聖な響きを帯びていた。

 優斗は頷き、麻斗もすっかり濡れた服のまま立ち上がった。


「うん。見せてくれ。俺たちに何ができるかは、それを見てから決めるよ」

「おい、びっちょびちょだけどいい? 俺」

「そのままで結構です。神域は貴方方を拒みません」

 

 乙姫は笑ってそう言い、二人を案内するように前を歩き出す。

 通されたのは、珊瑚と真珠で形作られた細長い廊下。道の両側には、金色の魚たちが整列したように静かに泳ぎ、海の音と共に透明な光が差し込んでいた。

 まるで――“命の胎内”を進むような、不思議な感覚。


「この先が、神座の間です」


 乙姫の声が響いたその瞬間、巨大な貝殻がふわりと開いた。

 その奥には――まるで海そのものが具現化したような存在。蒼い鬣をたなびかせた巨大な神獣が、静かに横たわっていた。その背は珊瑚礁のようにきらめき、うっすらと金色の鱗が海光を反射していた。


「……これが……」


 麻斗が思わず、息を呑む。


 ワダツミ――その存在は、神などと気軽に呼んでいいものではない、 “この海そのもの”といえるほど、あまりにも巨大で、深淵だった。

 だが――


「……弱ってる、のか……?」


 確かに、その身体の一部は白く濁り、鱗がはがれかけ、息も浅く、揺れていた。

 まるで、病に冒され、海そのものが干上がりかけているような。 


「……、……。」


 ふと、優斗にワダツミのような声が聞こえたような気がしたが、衰弱しきった声はまったく聞き取れない。


「優斗?どうかしたのか?」


麻斗が首を傾げると、優斗は、わずかに眉を寄せたまま、静かに首を振った。


「……いや。今、何か……声が、聞こえた気がした」

「え、声?誰の?」


 麻斗が周囲を見渡すが、乙姫も魚たちも静かに頭を下げており、誰も話してなどいない。


「……たぶん、ワダツミ様。けど、言葉になってなかった。……音のない、息のような……」


 優斗は、目を細めて神の姿を見据える。

 その巨体は、ほんのわずかに身じろぎしたが、確かに“声”とも“念”ともつかない揺らぎが、彼の霊気に触れてきた気がした。


「伝えたいことがある。でも、もう伝えられないくらい弱ってるのかも」


 そうつぶやく優斗の横で、麻斗が腕を組んで言った。


「なんかこう……体の中に呪い的なもんが残ってる感じじゃねーか?波長、ちょっと濁ってんだよな」

「うん、でも……“外側”の何かってより、“内側”から蝕まれてる感じがする」


 二人は目を見合わせる。

 異なる波長――退魔と惹魔、それぞれの感覚から、見えてきたもの。

 それは、神であるワダツミの“精神”そのものに変調が起きているという、ただならぬ兆候だった。


「俺、霊視してみようか」

麻斗が一歩、ワダツミへと踏み出しかけたそのとき――


「お待ちください」


 乙姫がすっと手を伸ばして、麻斗の前に立った。その長い髪が水中のようにふわりと揺れ、慎重な色を宿した瞳が、彼を見つめる。


「……人の身で、神に直接“視る”という行為は――危険です」


 麻斗が眉をひそめると、乙姫はほんの一瞬、迷いを見せて目を伏せた。


「神とは、人の心と理をはるかに越えた存在……。その本質に触れれば、人は自我を保てなくなるかもしれません……――心が壊れるのです」


 張りつめた空気の中、沈黙が落ちた。

 そんな中――


「じゃあ、僕がやるよ」


 静かに、けれどはっきりとした声が響いた。

 優斗だった。


「……日吉様?」


 乙姫が戸惑い、顔を上げる。

 その目には、“止めたいけれど、託すしかない”とでも言いたげな、複雑な葛藤が宿っていた。だが優斗は、微笑んだ。

 その笑みは、静かで、優しくて――けれど、強かった。


「……乙姫さん。今、あなたは迷いましたよね」

「……」

「僕たちが踏み込まなければ、きっと神はこのまま衰弱していく。でも、もし僕たちが触れれば……何かが分かるかもしれない。その“可能性”を、あなたは諦めたくない。……だから、止めきれなかった」


 乙姫は、ぎゅっと唇を結び、やがて小さく頷いた。


「僕は大丈夫です」


 優斗は、ひとつ息を吸うと、ふっと笑った。


「こういうの――慣れてますから」


 その言葉には、これまで数多の“人ならざるもの”と向き合ってきた、彼なりの覚悟と経験が込められていた。

 麻斗は黙って彼を見ていた。

 言いたいことは山ほどあったはずなのに、結局何も言わず、拳を握りしめただけだった。

 そして、優斗は――静かに、ワダツミの前に膝をついてそっと目を閉じた。

 まるで周波数を合わせるように、意識を静かに澄ませていく――精神を、魂を、ワダツミの深奥へと“潜らせる”。

 次の瞬間。

 ざあああ……という耳鳴りと共に、世界が反転するような感覚に包まれた。

 気がつけば、優斗の存在は――どこまでも果てのない、大海原の只中に浮かんでいた。

 静かで、広くて、そして恐ろしいほど“孤独”だった。

 人の気配はどこにもない。

 ただ、自分だけが放り出されたような虚無。

 ――と、思ったその時。

 優斗は“それ”を感じ取った。

 禍々しい。

 巨大で。

 底知れない“おぞましさ”が、海の底に潜んでいた。

 その存在は、海の一部でありながら、海ではなかった。優斗の精神に、ワダツミの記憶が流れ込んでくる。

 ――海が生まれたとき、ワダツミは生まれた。命を宿し、命を育て、命を見送る――全ての循環の中心に、ワダツミはいた。

 しかし。

 あるとき、海に“異物”が流れ込んできた。

 ゴミ。

 油。

 汚染物質。

 血。

 憎悪。

 欲望。

 殺戮。

 破壊――。

 それらはすべて、人間が吐き出した“穢れ”。

 そして、ワダツミはそれらを“拒絶”しなかった――できなかった。

 命を支える存在として、海を司る神として。

 優斗の視界の中、濁流のような穢れがワダツミの魂を包み込んでいく。

 受け入れ、飲み込み、沈殿し、積もり、蓄積され――それは、凝縮されて“塊”となって、ワダツミの中で膨張していた。

 それこそが――ワダツミを蝕み、衰弱させている“元凶”。

 人の穢れが、神を壊そうとしている。

 優斗の呼吸が止まりそうになる。

 心が、人間としての自我が、悲鳴を上げる。

 直視すれば狂ってしまいそうな、人間の“残酷さ”がそこにはあった。

 優斗の中に、強烈な自己否定が湧き上がる。

 ――自分も、その“人間”なのだ、と。

 それでも、優斗は瞼を閉じなかった。

 逃げなかった。

 惹魔の体質を持つ彼だからこそ、見えるもの。触れられるもの。そして、向き合わなければならないものが、そこにあった。


「……惹魔の、人の子」


 深海に澄みわたるような、そしてどこか遠い太古から響いてくるような声が、優斗の意識の内に届いた。

 それは、間違いなく――ワダツミの声だった。

 優斗は、目を開けることなく、その声を静かに受け止める。

 怒りも、憎しみも、悲しみすらもない。

 ただ、淡々と、確かな意志だけがそこにあった。

 神は、裁かない。

 神は、拒まない。

 神は――ただ、“ある”だけ。

 そのことに、優斗は息が詰まるような思いがした。

 人間たちの勝手で穢された海。なのに、ワダツミは、怒りさえ抱いていない。

「君の力で――海に漂うエネルギーを惹き寄せ、我に与えてほしい。魂の欠片よ。退魔の子よ。君の“炎”で、我が穢れを焼き払ってくれ」


 その声とともに――優斗の意識は、ふっと浮き上がった。

 気がつけば、優斗は再び乙姫の館の中にいた。仰向けに倒れていた身体を起こすと、頬に伝う涙に気づく。


「……大丈夫で、ございましたか……?」


 乙姫がそっと顔を覗き込み、淡い羽衣の裾で優斗の涙を優しく拭ってくれた。

 優斗は小さく頷き、言った。


「大丈夫。……僕は、見た」


 そして、向き直る。

 すぐそばに立っていた麻斗の姿を見つけると、彼の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「麻斗。……お前の“波長”で、ワダツミ様の中に溜まった“穢れ”を溶かしてくれ」


 その声は、揺るぎなかった。


「僕が、ワダツミ様に“力”を送る。お前の“退魔の波長”がなきゃ、どうにもならない。……頼む」


 麻斗にしかできないこと。

 優斗にしかできないこと。

 ――ふたりでなければ、救えないものがそこにあった。

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